コラム 『十字架を仰ぐ』 2024年11月24日

 牧師 高橋勝義

 11月初旬のある日の昼食時、私と家内の目は窓越しの、赤とんぼの大群(まさに大群)にくぎ付けになっていました。秋に赤とんぼが飛んでいるのは、当たり前の光景なのですが、この時は、かつて見たこともない大群で、「えー!」「なに、これ!」「どこからきたんだ~」「どこに飛んでいくの~、まるで出エジプトのいなごみたい~」と大興奮してしまいました。そして家内が、震災後の秋、仮設支援活動で「赤とんぼ」を仮設の皆さんと歌ったときに聞いたエピソードを話してくれました。

 作詞の三木露風は幼い頃、ご両親が離婚され、祖父母に育てられ、経済的には豊な中でも、寂しい幼少期をすごしたのだそうです。そして大学卒業後、函館トラピスト修道院の講師となり、そこで洗礼をうけた彼は、修道院の庭に飛ぶ赤とんぼの群れを見てこの歌を作りました。特に四番の歌詞「夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先」は竿と、その先にとまった赤とんぼがイエス・キリストの十字架を表している、との説明を聞き、家内は感動した、と言っていました。その話を聞いた私は、たとえ、私たちの心が「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。(エレミヤ17:9)」心であっても、イエス様が十字架の上で流された血潮によって、その邪悪な良心はきよめられるのだ、と思わされました。イエス様が「わたしの心だ。きよくなれ」と語られたように、日々、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩んでいきたいものです。

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」