今日のメッセージ 『キリストのくびきを負う』 2024年9月29日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記26章1~13節〕

 神は、あなたがたが自分のために偶像を造らず、それを拝まず、そして安息日を守り、主を恐れ、主の掟に従って歩み、主の命令を守り行なうなら、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにすると語られました。さらに、わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはせず、あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住み、また、わたしはその地に平和を与えるとイスラエルの民を祝福されたのです。

 ところで、私たちが心の安らぎを得るには、人々との平和が必要不可欠です。どうすれば、争いのない平和な日々を過ごせるのでしょうか。イエス様は「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。(マタイ11:29)」と語られました。くびきとは二頭の牛を一組にするための道具(横木)ですが、イエス様は私たちの隣で、そのくびきを一緒に負って、どこまでも歩んでくださるのです。つまり、あなたは、一人ではないのです。さらに「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い(マタイ11:30)」とも語られました。ですから、私たちが、人生の重荷をともに負ってくださるイエス様を信じ、信頼して、イエス様のくびきを負う(従う)ならば、どんな人生の荒波の中でも、私たちはわざわいを恐れることなく、安らかな日々を過ごすことができるのです。(マタイ8:23~27)

 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)」と今日もイエス・キリストはあなたに語っておられます。

今日のメッセージ 『キリストの愛を受け取る』 2024年9月22日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記25章35~55節〕

 もし同胞のイスラエル人が生活に困ったときには、あなたのもとで生活できるように助け、またお金を貸す場合も無利子で貸しなさい、と神は告げられました。さらに生活困窮ゆえに、同胞があなたに身売りしても、彼を奴隷としてあつかってはならないこと、また雇い人か寄留者としてあなたに仕えるのはヨベルの年までとされました。それは、イスラエルは神がエジプトの地から導き出した民であり、神のしもべである同胞を酷使してはならないからです。

 神はイスラエルの民に、神を恐れ、同胞への思いやりの心を持つことの大切さ、つまり愛のある行動を取ることを教えられたのです。

 ところで私たちは、人をうわべで評価、判断してはいないでしょうか。聖書は「金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来ると、『あなたはこちらの良い席にお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい』」(ヤコブ2:3,4)ということのないようと警告しています。このようなうわべによる判断は、たえず私たちの心の中に湧いてきます。イエス様が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ15:12)」と語られたのは、本当の愛を知らない私たちに、ご自身の愛を示すことによって、私たちがその愛に生きる者となるめです。それには、イエス様の愛を受け取ることが大切なのです。

 イエス様の十字架は、あなたの罪のために、宥めのささげ物となってくださるほどにあなたを愛しているあかしです(Ⅰヨハネ4:10)。私たちも、イエス様のこの愛をいただいて、互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いましょう。(ローマ12:10)

今日のメッセージ 『天の故郷を仰ぎ見よう』 2024年9月15日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記25章23~34節〕

 神は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると約束された地(出エジプト6:8)、すなわち十二部族に割り当てられた所有地について、このように語られました。何らかの理由で土地を手放さなくてはならない場合であっても、買い戻しの権利を放棄してはならず、土地を買い戻すための努力を怠らないようにとされたのです。そしてヨベルの年には、その土地は元の持ち主に返されます。また、城壁を巡らした町の住居に関しては、買い戻しの権利は売却後一年以内と定め、ヨベルの年にも返却されないと定めました。神御自身が「土地はわたしのものである。あなたがたは、わたしのもとに在住している寄留者だからである。」と語っているように、神の民は所有地として与えられた神の土地に住む寄留者だからです。

 人は「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行き(伝道者の書5:15)」また、「人は死ぬとき何一つ持って行くことはできずその栄誉もその人を追って下ることはない(詩篇49:17)」のです。

 では、私たちの希望はどこにあるのでしょうか。

 聖書は、神を信じる者は「信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。(へブル11:13)」と語っています。約束のものとは、神が与えると言われたカナンの地です。まだ約束の地にはたどり着いていない彼らは、自分たちの国籍は天にある(ピリピ3:20)ことを喜び、寄留者として歩むことをよしとしたのです。

 これこそが、本当の希望なのです。そしてこの希望は、イエス様を救い主と信じるとき、すべての人に神から与えられる素晴らしいプレゼントでもあるのです。(ルカ23:42,43)

今日のメッセージ 『神を信じるとは』 2024年9月8日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記25章1~22節〕

 神はイスラエルの子らに、約束の地に入ったなら七年目ごとに土地を休ませるための安息の年を設け、また五十年目の年(ヨベルの年)を聖別して国中の住民にあらゆる負債が帳消しとなる解放を宣言するようにと命じられました。このヨベルの年には、民はそれぞれ自分の元の所有地に帰ることができるのです。ですからイスラエルでは、土地を売買するときには互いに損失を与えないように、つまりヨベルの年があることを覚えて売買しなさい、と神は告げられたのです。不平等・不公平をなくすための神の愛のご配慮なのです。

 さらに神は、安息の年の収穫がないことで民が不安にならないようにと、「わたしは六年目に、あなたがたのためにわたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる。あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、前の収穫をなお食べている。九年目まで、その収穫があるまで、なお前のものを食べることができる。」と約束されました。

 ところで、あなたは、約束のみことばを信じ神を信頼して、7年目の収穫を休んだり、苦労して手に入れた土地を元の所有者に返したりすることができるでしょうか。神は、「全世界は神のもの(出エジプ19:5)」、また「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。(エレミ32:27)」と語っています。

 イエス様が「見ないで信じる人たちは幸いです(ヨハネ20:29)」と語られたように同様のことが、私たちにも求められているのです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)」

今日のメッセージ 『さあ、神に立ち返ろう』 2024年9月1日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記24章10~23節〕

 父がエジプト人であるイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争いを起こした。そのとき、イスラエルの女の息子が神の御名を汚し、ののしったので、人々はこの者をモーセのところに連れて行った。そのことについて、神はモーセに「あなたはイスラエルの子らに告げよ。自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う。主の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。」と告げられました。

 また、人間を打ち殺す者、 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。人がその同胞に傷を負わせるなら、その人は自分がしたのと同じようにされなければならない、しかし受けたこと以上のことをしてはならないとされたのです。これは、私たちの心の内にある復讐心があおられ、過剰な罪を犯さないための神の愛の御配慮です。

 ところで、私たちにも神をののしりたくなる思いが起こります。それは、神への期待や願いの裏返しから起こるのですが、しかし神は、私たちを造られた創造主であり、私たちは被造物であって、神はあなたの願いを聞いてくれるあなたの「しもべ」ではないのです。ののしる行為は神を否定し、神の存在を抹殺する殺人と同じです。それでも、神は「わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す(エレミヤ33:8)」と語っておられます。それは、キリストが私たちの罪のために死んでくだったからです(Ⅰコリント15:3)。 さあ、神に立ち返りましょう。

今日のメッセージ 『十字架は新しい契約のしるし』 2024年8月25日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記24章1~9節〕

 神は、聖所の中の燭台のともしびを絶えずともすように命じました。ともしびは、「主の栄光と神の臨在」を表し、神がともにおられることを常に覚えるための代々守るべき永遠の掟とされたのです。また安息日ごとに、輪形パン十二個を、主の前のきよい机の上に一列に六つずつ並べ、それを二列に置き、それぞれの列に純粋な乳香を添えるようにも命じました。これはイスラエルの子らによるささげ物であり、パン十二個は十二部族を表し、これによって神とイスラエルの民との契約を思い起こすためでした。

 イエス様は十字架を前にした過越しの食事のあと、弟子たちに「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:19,20)と語られました。教会では、この主の命令を守り、聖餐式を行います。それは聖餐が、「イエス様の十字架は私の罪のためである」と再確認し、同時に神の愛を覚える大切な時だからです。

 神は、「新しい契約を結ぶ(エレミヤ31:31)」と約束されたことを、キリストの十字架によって成就されたのです。キリストは新しい契約の仲介者(ヘブル9:15)なのです。では、神との契約の何が新しく変わったのでしょうか。それは、神の律法を守る行いによる義からキリストを救い主と信じる信仰による義(新しい契約)へと変わったのです。

 すなわち、神は、私たちを自分の力による歩みから聖霊による歩みへと移し、御国に国籍を持つ恵みを私たちにくださったのです。それゆえ、イエス様は「わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです(ヨハネ12:47)」と語られたのです。

今日のメッセージ 『主の御腕に抱かれた人生』 2024年8月18日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記23章4~44節〕

 神は主の例祭を定められました。主の安息日から始まり、エジプト脱出を記念する過越しと種を入れないパンの祭り、約束の地に入り最初の収穫を祝う初穂の祭り、最初の収穫を献げてから50日目にその後の収穫物を献げる七週の祭り、神とともに歩む決意を新たにする新年の祭り、年に一度大祭司が至聖所に入って行われる大贖罪の日、荒野で仮小屋に住んだことを忘れないための仮庵の祭り、と続きます。神は毎年これらの例祭を行うことを代々守るべき永遠の掟として定められたのです。それは、例祭を通して、エジプトから救い出された神こそがまことの神であることを覚え、神への感謝と信仰を新たにさせるためでした。

 私たちは困難や試練に会うと、恐れや不安、そして思い煩いに苦しめられます。それゆえ詩篇の作者は「わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」と語っています。アブラムは、神から「星を数えられるなら、あなたの子孫はこのようになる」と語られたとき、主を信じました(創世記15:6)。おそらく、彼は信仰によって神の恵みが子孫に注がれている様を見ていたのでしょう。そして今、アブラハムの信仰の子孫とされた私たちにも、同様に変わらぬ神の愛と恵みが豊に注がれているのです。ところで、神はあなたの人生にどのようにふれられたでしょうか。それはあなたにとってどんな意味があり、その後のあなたの人生にどんな変化を与えたでしょうか。

 あなたは、神とともに歩む人生へと移され、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ46:4)」と神は約束してくださっています。

今日のメッセージ 『すべての中心は礼拝にある』 2024年8月11日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記23章1~3節〕

 レビ記23章は、神が定めた例祭について記されています。神はその例祭について教える前に、「六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」と、七日目は主を礼拝する安息日であることを民に告げるように、モーセに言われました。それは創世記2章3節で「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである」と語られているからであり、私たちの生活の中心に、神を礼拝することを据えることを教えるためでした。

 聖なる神を礼拝することは、神のきよさと愛を知ることであり、それはあらゆる悪から私たちを守り、私たちの歩みをまっすぐにするものだからです。

 さて、あなたにとって、神を礼拝することは喜びの時でしょうか。もし、そうでなければ、その原因は何なのでしょうか…。もしかすると、日々の歩みの中で、イエス様がともにおられることを実感できないからかもしれません。そうであるならば「イエス様、あなたが遠くに感じます。その原因となっているあなたと私の間にある仕切りの壁を教えてください。」と祈ることが大切です。聖霊なる神は必ずその原因を教えてくださいます。分かったならば、さっそく、あなたは、それを主に告白し、十字架の血潮によって、その罪の赦しとすべての不義からのきよめをいただきましょう(Ⅰヨハネ1:9)。神はあなたにご自身を見つけ出して欲しいのです(エレミヤ29:13,14)。

 さあ、準備は整いました。あなたは、御霊と真理によって父を礼拝するまことの礼拝者に整えられたのです。(ヨハネ4:23,24)

今日のメッセージ 『神からのチャレンジ』 2024年8月4日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記22章17~33節〕

 神は誓願のささげ物、また進んで献げる全焼のささげ物は、牛、羊、あるいはやぎのうち、傷のない雄でなければならない、と命じられました。神に誓願を立てるということは、どうしても叶えて欲しいことがあるからですが、それなのに、神へのささげ物を惜しんで、傷のあるものを献げるというのは矛盾です。神に最上のものを用意するのが、当然なのではないでしょうか。ささげ物は、あなた自身の心の表れだからです。

 サウル王は敵のすべてを聖絶するようにと、神に命じられていたにもかかわらず、惜しむ心から最も良いものを残し、つまらない値打ちのないものだけを聖絶しました (Ⅰサムエル15:9) 。これに対しアブラハムが、やっと与えられた最愛の息子イサクを神のことばに聞き従って、全焼のいけにえとして献げようとした行動とはまるで対照的です(創世記22:12)。

 「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)」とあるように、神は私たちを罪から救い出すために、愛するひとり子であるイエス・キリストを十字架の死に渡されたのです。これほどまでに私たちを愛しておられる神が、私たちに恵みを注いでくださらないはずはありません。イエス様は「あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります(マタイ21:22)」と語っています。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7,8)」さあ、神を信じ、チャレンジを始めましょう。

今日のメッセージ 『主よ、あの人はどうですか』 2024年7月28日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記22章1~16節〕

 レビ記22章も前回に引き続き祭司について語られています。神はモーセに「宥めに用いるささげ物は聖なるものゆえに慎重に扱い、神の聖なる名を汚してはならない」とアロンとその子らに教えるように命じました。神の聖なる名を汚す行為は、神ご自身を侮ることであると教えるためでした。汚れとは、ねたみや高慢などの罪であり、これらは主を救い主と信じ、祭司とされた私たちクリスチャン(Ⅰペテロ2:9)に語られているのです。

 私たちは様々な問題に追われ、周りの評価を気にする悪戦苦闘の日々を送っていますが、ペテロも復活のイエス様から三度「あなたはわたしを愛していますか」と聞かれたあと、「わたしの羊を飼いなさい。~ しかし年をとると~ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」と告げられたその時、後ろにいた弟子について「主よ、この人はどうなのですか」とイエス様に尋ねたのでした。すると、イエス様はペテロに「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われたのです(ヨハネ21:22)。つまり、イエス様は「人のことは気にしないで、ただわたしについて来なさい」と言われたのです。

 周りが気になるペテロの姿は、私たちの姿ではないでしょうか。そのペテロは「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)と告白しています。

 神の目にはすべてが裸であり、神は私たちを公平にさばかれるお方、「神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる (ヨブ34:11)」お方なのです。