牧師コラム 『復讐心を愛に』 2023年1月15日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:18~27〕
人が二人集まるだけで、そこには争いが起きる、とはよく言われることです。
聖書にも「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6:5)」と記されており、罪の性質を抱えた人間の日常には争いが絶えることがありません。私たちをよくご存知の神は、私たちの争いの行動がエスカレートしないように、そこに償いのルールを定められました。それが、「重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない(出エジプト21:23~25)」です。そこでは罪に対する報いは受けなくてはならないが、恨みからくる復讐は禁じています。

 まさにイエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちの中にある(生まれながらの)罪に対する報いを、罪のないキリストが身代わりに受けてくださったからなのです。神がこの償いのルールを定められたのは、私たちの心には、やられた以上の仕返しをしようとする復讐心が根深くあるからです。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』(ローマ12:19)」すべてをご存知で、あなたを愛する神にお任せすればよいのです。

 キリストが私たちに示されたのは、十字架の上でご自分のいのちを私たちの罪のためにささげられた愛であり、この愛に私たちが生きることを神は願っておられるのです。

 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」

牧師コラム 『私たちのいのちは神のもの』 2023年1月8日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:12~17〕
神は、殺意をもって人を打つ者(出21:12)、自分の父母を打つ者(出21:15)、また、人をさらった者(出21:15)、父母をのろう者(出21:15)は「必ず殺されなければならない」と定められました。それはいのちの尊さを教えると同時に、いのちの出発点である両親への敬意を教えるためでした。しかし、殺意はないが誤って人を殺してしまった時には、その人が逃れることができる場所を設けるようにもされました(出21:13)。

 これは復讐の連鎖を止めるためであり、神の愛から出たご配慮です。

 人を殺す動機は、自身の身勝手な思い、あるいは深く傷ついたことによる憎しみ、恨みからきます。また親をののしるのは、親への怒り、恨みが、その背景にあるからです。さらに親をののしることは、間接的に神をののしっていことにもなるのです。そして、人をさらう行為も、その人の人生を奪うことであり、結果として、その人を殺すことになります。

 聖書は「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)」と語っています。ある日突然、人にいのちが降って湧いてきたのではなく、神が人にいのちを与えたのです。
人を殺すという行為は、創造主なる神によって「いのち」が与えられた人間の生きる権利を奪い、殺された人と殺人者自身の内にある神のかたちを壊すことでもあるのです。 それゆえに、聖書は「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」と私たちに勧めています。それはイエス様ご自身が、神の御姿を捨て、私たちと同じ人となってくださったからです。

牧師コラム 『人間の尊厳』 2023年1月1日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:01~11〕
神がイスラエルの民に十戒を与えられたのは、神の民としての歩みに導くためでした。さらに神は、奴隷制度のあった時代の中で、様々な理由で奴隷になった弱い人々の尊厳にも心を向けられました。売買され、人として扱われない中で、守るべき定めを与えたのです。それは、ヘブル人男奴隷は六年間仕えた後七年目には解放される、という規定でした。またその男奴隷が、なおも主人の家で仕えたいなら、神に誓い、耳をきりで刺し通されたうえで、いつまでも主人に仕えることが許可されました。そして、女奴隷についても、人として扱われるように、さまざまな規定を定められました。

 神は「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と仰せられ、神のかたちとして私たち人間を創造されました。(創世記1:26,27)

 ここに人間の尊厳、私たちを愛する者として造られた神の思いを知ることができます。それゆえ、人間は、動物のように売り買いされる「もの」ではないのです。これらの規定は、「神のかたち」としての人間の尊厳が軽んじられないために、人間を「もの」扱いすることのないように、と神がご配慮された愛の定めなのです。さらに私たちは、イエス・キリストが十字架で刺し通され、そのいのちによる贖いによって、罪赦され、神のこどもとされました。 そして、地上にあっても、天においても、永遠に神に仕える喜びが許可されたのです。

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」

 神の私たちに対する思いは、初めから変わらず、これからも変わることはありません。

牧師コラム 『私たちのための救い主』 2022年12月25日

 牧師 高橋勝義

〔ルカの福音書2章1~20節〕
神は、「主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)」と約束されました。それから約700年後、ヨセフのいいなずけマリアに御使いが現れ、「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。(ルカ1:31)」と告げます。

 そのころ皇帝アウグストゥスから全世界の住民登録をせよという勅令が出たために、ヨセフとマリアは、ガリラヤの町ナザレから、先祖の地であるベツレヘムに上って行きました。しかし住民登録のため宿屋はどこも満員で、月が満ちたマリヤはベツレヘムの馬小屋で男の子を生み、その子を布にくるんで、飼葉桶に寝かせました。

 その夜、羊の群れの夜番をしている羊飼いたちに、主の使いが来て、主の栄光が周りを照らし「恐れることはありません。~ 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです(ルカ2:10~12)」と告げたのです。すぐに出かけた羊飼いたちは、すべてそのとおりの出来事に、神をあがめ、賛美しました。

 イエス様は私たちの罪の身代わりとなり、私たちを神の国に招き入れるために、人となって来てくださいました。そして、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)」と語られたのです。では、何を悔い改め、何を信じるのでしょうか。

 それは、神に従わずに歩んでいる罪を認め、この罪の身代わりのためにイエス様が十字架の上で死んでくださったことを信じることです。それゆえに、主の使いは「私たちのために救い主がお生まれになった」と語ったのです。

牧師コラム 『星の光に導かれて』 2022年12月18日

 牧師 高橋勝義

〔ミカ5:2〕
イエスさまがユダヤのベツレヘムでお生まれになった頃、遠い東の国から三人の博士たちがエルサレムにやって来ました。三人はヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」と尋ねたのです(マタイ2:2)。救い主を待ち望んでいたにもかかわらず、王も民も不安にかられ、動揺しました。王は祭司長や律法学者たちを集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただし、彼らは「ベツレヘムです」と答えました。それはミカ書5章2節に「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」と預言されていたからです。

 東方で見たあの星が、ベツレヘムに向かう博士たちの先を進み、ついに幼子のいる上で止まったのです。彼らは幼子イエスにお会いして、喜び、ひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。

 博士たちはイエス様にお会いするために、大きな犠牲を払い、はるばる東の国から旅をしてきました。そして救い主に出会うことができたのです。一方のヘロデ王は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と聞き、イエス様は自分を脅かす存在だと考え、殺そうと企てました。それは、あくまでも自己実現であり、自分中心の生き方でした。 博士たちが星の光に導かれ“救い主”を求めて出発したように、私たちも救い主イエス・キリストを求めて踏み出すならば、光の中を歩む者になれるのです。

 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」

牧師コラム 『主は私たちの希望の光』 2022年12月11日

 牧師 高橋勝義

〔エレミヤ23:1~6〕
まことの神への信仰から離れてしまったイスラエル王国は、南北に分裂し、さらに北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国も大国バビロンの攻撃を受けていました。
ところが、この危機の中にあっても、指導者たちは主が預言者エレミヤに語ったことばに耳を貸そうとはせず、「神の民である自分たちは滅ぼされない」という偽りの預言者のことばを信じ、エジプトを頼みとしていました。その中で預言者エレミヤは、「まことの神に助けを求め、信頼すべき時である」と繰り返し、「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち」と指導者たちを厳しく責め、神は彼らを罰する、と語ります。

 さらにエレミヤは、この背信の世にあっても、最後まで主に忠実に従って歩む民(わたしの群れの残りの者)が残されており、神が彼らに「見よ、その時代が来る。─主のことば─そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う」と語られた希望の約束を伝えたのです。

 そして今から約2000年前、神が人となってこの世に来られた事実、このイエス・キリストこそが、約束の「一つの正しい若枝」でした。バプテスマのヨハネは、自分の方に来られるイエス様を見た時、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」と言いました。 「世の罪」、すなわち、私たちが神に背を向けて歩んでいる“罪”の罰をイエス・キリストが十字架で身代わりに受けてくださり義の道を開いてくださったのです。この義の道とは律法の行いによる義ではなく、キリストを罪からの救い主と信じる信仰による義です(ローマ3:28)。

 それゆえ、『主(イエス・キリスト)は私たちの義』であり『希望の光』なのです。

牧師コラム 『とこしえの王国』 2022年12月4日

 牧師 高橋勝義

〔Ⅱサムエル7:1~16〕
イスラエルの王となったダビデは、神の契約の箱をエルサレムに運び入れますが、自分は杉の家に住みながら、神の箱が未だに天幕の中にあることが心苦しく、預言者ナタンに相談します。その夜ナタンに「行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。~ わたしが、なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのかと、一度でも言ったことがあっただろうか。~ あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」と主のことばが告げられます。神が約束されたイスラエルの王座は、ダビデから息子ソロモンに引き継がれますが、ソロモンの不信仰により、国は分裂し、その後バビロンに滅ぼされてしまいます。

 キリストが生まれる約700年前、預言者イザヤは、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。(イザヤ9:6~7)」と救い主の誕生を預言します。時が満ち、御使いがマリアに「神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。(ルカ1:30~33)」と語ります。

 こうして、救い主イエス・キリストがダビデの家系から生まれ、ここに神の約束が、成就したのです。とこしえの王国の王座に座すお方、すなわち、キリストは、とこしえの王国(天の御国)に私たちを招くために、人となってこの世に来られたのです。

 あなたは、キリストの救いの招きを受け取られたでしょうか。
聖書は、キリストを信じる者の国籍は天にある(ピリピ3:20)と約束しています。

牧師コラム 『信仰の応答』 2022年11月27日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト20:18~26〕
神がモーセを通して十戒をイスラエルの民に授ける中、山は煙に包まれ、雷鳴、稲妻、角笛の音が鳴り響き、民は身震いしながら遠く離れて立っていました。

 民がモーセに「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」と願うと、モーセは「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたが正しく神を恐れ、罪から遠ざかるようになるためです。」と、告げます。神はさらに、「銀や金の神々を造ってはならない」と命じ、祭壇を土で造り、その上に全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げるように命じました。
これは、主を礼拝するためです。

 そして「わたしを礼拝するすべての場所であなたがたを祝福する」と約束されたのです。 シナイ山全体を震わす数々のしるしを通して、イスラエルの民は神への恐れに衿を正し、罪から遠ざかります、と心を定めて、「私たちは聞き従います」と信仰の応答をしました。

 これらの出来事はすべて神の御配慮、愛でした。しかし時が過ぎると、神へのささげ物やいけにえは、形だけのものとなってしまいました。そして神は今、私たちに「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(Ⅰサムエル15:22)」と、形式ではなく、キリストを信じた時の喜びに帰ることを促しています。ところで、あなたのささげる礼拝は、イエス・キリストを心から喜び、感謝する礼拝でしょうか。

牧師コラム 『主の御前に近づこう』 2022年11月6日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト19:9~25〕
エジプトを脱出したイスラエルは主の御翼に守られ、シナイ山の麓に導かれて来ました。 「私たちは主の言われたことをすべて行います」と応答するイスラエルの民に、主はモーセを通して、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、また民いる麓と主のご臨在される山との間に境界線を設けるようにと告げられます。三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響き、民が震え上がる中、主がシナイ山に降りて来られると、シナイ山は全山がかまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えました。 主は、モーセを山の頂に呼ばれ、モーセは登って行ったのです。

この後、主はイスラエルに聖所(幕屋)を造らせ、その中に至(し)聖所(せいじょ)を設けさせます。 それは「わたしは彼らのただ中に住む(出エ25:8)」ためでした。そして、大きな垂れ幕で仕切られた至聖所には、大祭司だけが年に1度の贖罪の日に、いけにえの動物の血を携え、入っていきました。しかし、イエス・キリストが私たちのすべての罪を負い、十字架の上で血を流され、罪の贖いを成し遂げてくださった時、「神殿の幕(至聖所の幕)が上から下まで真っ二つに裂けた(ルカ15:38)」のです。この至聖所の幕が裂けたことによって、神と私たちの間にあった仕切りが取り除かれ、私たちは神と自由に交わることができるようになったのです。
これは、神の愛であり、恵みなのです。

「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(へブル4:16)」

牧師コラム 『私たちの内で輝くイエス・キリスト』 2022年10月30日

 牧師 高橋勝義

 「クリスチャンは聖書を読み、ノンクリスチャンは信者を読む(見る)」と聞いたことがあります。確かに、私は毎日聖書を読みますが、果たして、そのみことばに信頼して生きているだろうか、また「神は愛です」と語りながら、自分はどれだけ神の愛が分かっているのだろうか、と自問自答を繰り返しているのも事実です。

 メッキの剝がれた金属は、光沢や美しさが消え、あっという間にサビまで出てきます。同じように、イエス様からずれてしまうと、私たちの心は、喜び、平安、感謝を失います。ですから聖書は、どのように歩めば良いのか、はっきりと、このように教えています。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい(へブル12:2)」とはいえ、頭で分かっていても、思うに任せないのが私たちでもあります。

 その私たちに向かって、イエス・キリストは「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである (Ⅱコリント12:9)」と語っておられます。どんな時でも、ありのままの姿を受け入れてくださる神の愛と恵みに感謝しつつ、不完全な私たちを通して、救い主なるイエス・キリストの福音を人々のもとにお届けできますように、神の愛が人々の心に届くことを心から願っています。私たちは弱くても、私たちの内で輝いてくださるイエス様に期待して歩んでいきましょう。

 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)」