牧師コラム 『あなたの神、主を愛しなさい』 2023年2月12日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト22章10~20節〕
神はアブラハムを選び、その子孫に、まことの神を全世界の人々に告げ知らせ、祝福する使命を託されました。ですから神の民イスラエルに、聖なる民として生きる掟(十戒)をさずけ、さらにそれを丁寧に説明されたのです。

 隣人に預けた家畜の損失に伴う償い、さらには、誘惑に負けて不道徳な関係を持った者への規定も示されました。これは神が結婚を尊び、その尊厳を教えるためでした。また、神は「呪術を行う女は生かしておいてはならない。~ (出22:18,19)」と厳しく戒めました。呪術とは魔術、オカルト、占い等で、これらは悪霊と関わる危険なことだからで、すべてはあなたの霊性を守る神の愛から出ている戒めなのです。さらに続く戒めは「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。(出2:20)」です。十戒の最初に「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない(出20:3)」とあるように、唯一の神以外の神々に簡単にいけにえを献げてしまう行為は、「聖絶されなければならない」ほどの非常に重い罪であることを神ははっきりと示されたのです。このように神は、日常生活に起きるいろいろな問題に対して細かなルールを定められましたが、これぐらいいいのではないか、みんなもやっているではないか、という安易な気持ちがもっとも危険なのです。

 神があなたに求めておられることは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申命記6:5)」なのです。

牧師コラム 『あなたの心の主人は誰ですか』 2023年2月5日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト22章1~9節〕
神の民イスラエルに神が与えられた十戒の「盗んではならない。(出エ20:15)」について、神は他人の所有物について、盗むという行為だけではなく、放たれた家畜が他人の畑を食い荒らしたり、出火して穀物や収穫前の畑を焼き尽くした場合にも、必ずその責任の償いをしなければならない、と定められました。また、金銭や物品を隣人に預けて、それがその家から盗まれた場合も、その盗人が二倍にして償わなければならないのはもちろんですが、盗人が見つからない場合には、預かった家の主人は神の前に出て、隣人の所有物に決して手を触れなかったと誓わなければならないと定めました。

 つまり、神は、「所有をめぐるすべての違反行為に関しては、それが、牛、ろば、羊、上着、またいかなる紛失物についてであれ、一方が『これは自分のものだ』と言うなら、 その双方の言い分を神の前に持ち出さなければならない。そして、神が有罪と宣告した者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。(出22:9)」と定められたのです。

 神は私たちの心に潜む貪欲が、あらゆるトラブルに発展することをご存知なので、このように細かく定められたのです。パウロは、「地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。(コロサイ3:5)」と語りました。欲しがる心、貪欲は人の心を支配していくからです。

 「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(マタイ6:24)」

 あなたの心の主人は、富ですか、それとも、イエス様でしょうか。

牧師コラム 『わが友、主イエスは』 2023年1月29日

 牧師 栗原延元

〔ヨハネの福音書15章13~17節〕

 賛美歌312番(いつくしみ深き友なるイエス)は、よく知られた賛美歌です。この歌を歌うたびに、私はイエス・キリストを親しく感じます。遥か遠くの彼方に救い主イエスがおられるのではなく私の近くに、いや私の側におられるように思うのです。

 イエス様の公生涯の最後の一週間、弟子たちに〈わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。〉(ヨハネ伝15:15)と語りました。救い主イエスは私たちをしもべとは呼ばず、私たちを友と呼んでいて下さるのです。何という栄光でしょう。私たちに多くの友がいることだと思うのですが、イエス様は私たちの友の中の友なのです。最大の友とは〈人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません〉(ヨハネ15:13)と弟子たちに話されたとおりに、イエスは十字架の上でいのちを捨てられたのですから、キリスト教会堂に「十字架」がかかげられているのは、神の愛のシンボルなのです。聖歌493番〈わがとも主イエスは、われを見い出し引き寄せたまいぬ愛の糸もて〉を歌って、救い主イエスをたたえていきたいと思います。

牧師コラム 『神の御前に誠実に歩む』 2023年1月22日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:28~36〕
神は人と人との争いから生じる問題だけではなく、家畜や敷地内で起こった事故などにも細かい定めを神の民イスラエル人にお与えになりました。

 牛が人を突いて死なせた場合、その牛を石で打ち殺すことで、牛の持ち主は罰を免れる。しかし突き癖があるのに牛の監視を怠っていたなら、その牛は石で打ち殺され、さらに持ち主も殺されなければならない。しかし、もし彼に償い金が科せられ、自分のいのちの贖いの代価を支払うならば、死を免れる。息子や娘を突いた時も、この規定のとおりに扱われました。さらに神は、もし男奴隷、女奴隷をその牛が突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺される、と定めたのです。当時、奴隷は主人の所有物で売買の対象でしたが、神は彼らをひとりの人格として認めておられたのです。また、ふたをしていない水溜めに、牛やろばが落ちた場合、その水溜めの持ち主は、家畜の持ち主に償い金を支払う。また牛が隣人の牛を突いて死なせた場合や突き癖がある牛の対策をしていなかった場合など、神は財産に関してもルールを定められたのです。

 創造の始めに、「彼ら(人間)が、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう(創1:26)」と神は仰せられました。この世界は神からの預かりものであり、その管理を私たち人間はゆだねられているのです。私たちは、忠実に、誠実に、与えられたこの世界を管理しなければなりません。

 『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21)』

牧師コラム 『復讐心を愛に』 2023年1月15日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:18~27〕
人が二人集まるだけで、そこには争いが起きる、とはよく言われることです。
聖書にも「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6:5)」と記されており、罪の性質を抱えた人間の日常には争いが絶えることがありません。私たちをよくご存知の神は、私たちの争いの行動がエスカレートしないように、そこに償いのルールを定められました。それが、「重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない(出エジプト21:23~25)」です。そこでは罪に対する報いは受けなくてはならないが、恨みからくる復讐は禁じています。

 まさにイエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちの中にある(生まれながらの)罪に対する報いを、罪のないキリストが身代わりに受けてくださったからなのです。神がこの償いのルールを定められたのは、私たちの心には、やられた以上の仕返しをしようとする復讐心が根深くあるからです。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』(ローマ12:19)」すべてをご存知で、あなたを愛する神にお任せすればよいのです。

 キリストが私たちに示されたのは、十字架の上でご自分のいのちを私たちの罪のためにささげられた愛であり、この愛に私たちが生きることを神は願っておられるのです。

 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」

牧師コラム 『私たちのいのちは神のもの』 2023年1月8日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:12~17〕
神は、殺意をもって人を打つ者(出21:12)、自分の父母を打つ者(出21:15)、また、人をさらった者(出21:15)、父母をのろう者(出21:15)は「必ず殺されなければならない」と定められました。それはいのちの尊さを教えると同時に、いのちの出発点である両親への敬意を教えるためでした。しかし、殺意はないが誤って人を殺してしまった時には、その人が逃れることができる場所を設けるようにもされました(出21:13)。

 これは復讐の連鎖を止めるためであり、神の愛から出たご配慮です。

 人を殺す動機は、自身の身勝手な思い、あるいは深く傷ついたことによる憎しみ、恨みからきます。また親をののしるのは、親への怒り、恨みが、その背景にあるからです。さらに親をののしることは、間接的に神をののしっていことにもなるのです。そして、人をさらう行為も、その人の人生を奪うことであり、結果として、その人を殺すことになります。

 聖書は「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)」と語っています。ある日突然、人にいのちが降って湧いてきたのではなく、神が人にいのちを与えたのです。
人を殺すという行為は、創造主なる神によって「いのち」が与えられた人間の生きる権利を奪い、殺された人と殺人者自身の内にある神のかたちを壊すことでもあるのです。 それゆえに、聖書は「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」と私たちに勧めています。それはイエス様ご自身が、神の御姿を捨て、私たちと同じ人となってくださったからです。

牧師コラム 『人間の尊厳』 2023年1月1日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:01~11〕
神がイスラエルの民に十戒を与えられたのは、神の民としての歩みに導くためでした。さらに神は、奴隷制度のあった時代の中で、様々な理由で奴隷になった弱い人々の尊厳にも心を向けられました。売買され、人として扱われない中で、守るべき定めを与えたのです。それは、ヘブル人男奴隷は六年間仕えた後七年目には解放される、という規定でした。またその男奴隷が、なおも主人の家で仕えたいなら、神に誓い、耳をきりで刺し通されたうえで、いつまでも主人に仕えることが許可されました。そして、女奴隷についても、人として扱われるように、さまざまな規定を定められました。

 神は「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と仰せられ、神のかたちとして私たち人間を創造されました。(創世記1:26,27)

 ここに人間の尊厳、私たちを愛する者として造られた神の思いを知ることができます。それゆえ、人間は、動物のように売り買いされる「もの」ではないのです。これらの規定は、「神のかたち」としての人間の尊厳が軽んじられないために、人間を「もの」扱いすることのないように、と神がご配慮された愛の定めなのです。さらに私たちは、イエス・キリストが十字架で刺し通され、そのいのちによる贖いによって、罪赦され、神のこどもとされました。 そして、地上にあっても、天においても、永遠に神に仕える喜びが許可されたのです。

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」

 神の私たちに対する思いは、初めから変わらず、これからも変わることはありません。

牧師コラム 『私たちのための救い主』 2022年12月25日

 牧師 高橋勝義

〔ルカの福音書2章1~20節〕
神は、「主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)」と約束されました。それから約700年後、ヨセフのいいなずけマリアに御使いが現れ、「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。(ルカ1:31)」と告げます。

 そのころ皇帝アウグストゥスから全世界の住民登録をせよという勅令が出たために、ヨセフとマリアは、ガリラヤの町ナザレから、先祖の地であるベツレヘムに上って行きました。しかし住民登録のため宿屋はどこも満員で、月が満ちたマリヤはベツレヘムの馬小屋で男の子を生み、その子を布にくるんで、飼葉桶に寝かせました。

 その夜、羊の群れの夜番をしている羊飼いたちに、主の使いが来て、主の栄光が周りを照らし「恐れることはありません。~ 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです(ルカ2:10~12)」と告げたのです。すぐに出かけた羊飼いたちは、すべてそのとおりの出来事に、神をあがめ、賛美しました。

 イエス様は私たちの罪の身代わりとなり、私たちを神の国に招き入れるために、人となって来てくださいました。そして、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)」と語られたのです。では、何を悔い改め、何を信じるのでしょうか。

 それは、神に従わずに歩んでいる罪を認め、この罪の身代わりのためにイエス様が十字架の上で死んでくださったことを信じることです。それゆえに、主の使いは「私たちのために救い主がお生まれになった」と語ったのです。

牧師コラム 『星の光に導かれて』 2022年12月18日

 牧師 高橋勝義

〔ミカ5:2〕
イエスさまがユダヤのベツレヘムでお生まれになった頃、遠い東の国から三人の博士たちがエルサレムにやって来ました。三人はヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」と尋ねたのです(マタイ2:2)。救い主を待ち望んでいたにもかかわらず、王も民も不安にかられ、動揺しました。王は祭司長や律法学者たちを集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただし、彼らは「ベツレヘムです」と答えました。それはミカ書5章2節に「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」と預言されていたからです。

 東方で見たあの星が、ベツレヘムに向かう博士たちの先を進み、ついに幼子のいる上で止まったのです。彼らは幼子イエスにお会いして、喜び、ひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。

 博士たちはイエス様にお会いするために、大きな犠牲を払い、はるばる東の国から旅をしてきました。そして救い主に出会うことができたのです。一方のヘロデ王は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と聞き、イエス様は自分を脅かす存在だと考え、殺そうと企てました。それは、あくまでも自己実現であり、自分中心の生き方でした。 博士たちが星の光に導かれ“救い主”を求めて出発したように、私たちも救い主イエス・キリストを求めて踏み出すならば、光の中を歩む者になれるのです。

 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」

牧師コラム 『主は私たちの希望の光』 2022年12月11日

 牧師 高橋勝義

〔エレミヤ23:1~6〕
まことの神への信仰から離れてしまったイスラエル王国は、南北に分裂し、さらに北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国も大国バビロンの攻撃を受けていました。
ところが、この危機の中にあっても、指導者たちは主が預言者エレミヤに語ったことばに耳を貸そうとはせず、「神の民である自分たちは滅ぼされない」という偽りの預言者のことばを信じ、エジプトを頼みとしていました。その中で預言者エレミヤは、「まことの神に助けを求め、信頼すべき時である」と繰り返し、「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち」と指導者たちを厳しく責め、神は彼らを罰する、と語ります。

 さらにエレミヤは、この背信の世にあっても、最後まで主に忠実に従って歩む民(わたしの群れの残りの者)が残されており、神が彼らに「見よ、その時代が来る。─主のことば─そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う」と語られた希望の約束を伝えたのです。

 そして今から約2000年前、神が人となってこの世に来られた事実、このイエス・キリストこそが、約束の「一つの正しい若枝」でした。バプテスマのヨハネは、自分の方に来られるイエス様を見た時、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」と言いました。 「世の罪」、すなわち、私たちが神に背を向けて歩んでいる“罪”の罰をイエス・キリストが十字架で身代わりに受けてくださり義の道を開いてくださったのです。この義の道とは律法の行いによる義ではなく、キリストを罪からの救い主と信じる信仰による義です(ローマ3:28)。

 それゆえ、『主(イエス・キリスト)は私たちの義』であり『希望の光』なのです。