牧師コラム 『私たちのいのちは神のもの』 2023年1月8日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:12~17〕
神は、殺意をもって人を打つ者(出21:12)、自分の父母を打つ者(出21:15)、また、人をさらった者(出21:15)、父母をのろう者(出21:15)は「必ず殺されなければならない」と定められました。それはいのちの尊さを教えると同時に、いのちの出発点である両親への敬意を教えるためでした。しかし、殺意はないが誤って人を殺してしまった時には、その人が逃れることができる場所を設けるようにもされました(出21:13)。

 これは復讐の連鎖を止めるためであり、神の愛から出たご配慮です。

 人を殺す動機は、自身の身勝手な思い、あるいは深く傷ついたことによる憎しみ、恨みからきます。また親をののしるのは、親への怒り、恨みが、その背景にあるからです。さらに親をののしることは、間接的に神をののしっていことにもなるのです。そして、人をさらう行為も、その人の人生を奪うことであり、結果として、その人を殺すことになります。

 聖書は「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)」と語っています。ある日突然、人にいのちが降って湧いてきたのではなく、神が人にいのちを与えたのです。
人を殺すという行為は、創造主なる神によって「いのち」が与えられた人間の生きる権利を奪い、殺された人と殺人者自身の内にある神のかたちを壊すことでもあるのです。 それゆえに、聖書は「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」と私たちに勧めています。それはイエス様ご自身が、神の御姿を捨て、私たちと同じ人となってくださったからです。