牧師 高橋勝義 |
〔出エジプト21:18~27〕
人が二人集まるだけで、そこには争いが起きる、とはよく言われることです。
聖書にも「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6:5)」と記されており、罪の性質を抱えた人間の日常には争いが絶えることがありません。私たちをよくご存知の神は、私たちの争いの行動がエスカレートしないように、そこに償いのルールを定められました。それが、「重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない(出エジプト21:23~25)」です。そこでは罪に対する報いは受けなくてはならないが、恨みからくる復讐は禁じています。
まさにイエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちの中にある(生まれながらの)罪に対する報いを、罪のないキリストが身代わりに受けてくださったからなのです。神がこの償いのルールを定められたのは、私たちの心には、やられた以上の仕返しをしようとする復讐心が根深くあるからです。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』(ローマ12:19)」すべてをご存知で、あなたを愛する神にお任せすればよいのです。
キリストが私たちに示されたのは、十字架の上でご自分のいのちを私たちの罪のためにささげられた愛であり、この愛に私たちが生きることを神は願っておられるのです。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」