牧師コラム 『神の約束の真実』 2022年9月11日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト16:22~36〕
約束の地をめざし荒野を進むイスラエルに、主はモーセを通して「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」と語られました。そして六日目の朝、二倍のパンを集めた彼らに、モーセは「明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。」と主のことばを告げました。七日目の朝、取っておいたパンは、主の約束どおり、臭くもならず、虫もわかなかったのです。

しかし七日目にも集めに行った者がおり、主はモーセに「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。」と言われました。このように、主のことばを軽んじるイスラエルでしたが、神は忍耐をもって彼らを導き続けました。後の日にソロモン王が「主は約束どおり、イスラエルの民に安住の地を与え、しもべモーセを通してお告げになった良い約束はみな、一つも、地に落ちることはなかった(Ⅰ列王記8:56)」と、神の約束は真実であることを証ししているとおりです。

神は、決して、偽ることがないお方です。聖書は、私たちが信じるイエス・キリストについて「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)」と証ししています。

「この方(キリスト)に信頼する者は決して失望させられることがない(Ⅰペテロ2:6)」

牧師コラム 『腐ったマナ』 2022年9月4日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト16:1~21〕
エジプトを出てから約一か月、イスラエルの大集団はシンの荒野にやって来ました。見渡す限り何もない荒野を前に、疲れきった民たちは口々に、「エジプトの地でわれわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。あなたがたは、われわれをこの荒野に連れてきて飢え死にさせようとしている。」とモーセとアロンを非難します。

民の不平を聞かれた主は、モーセに『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』と告げます。すると夕暮れ時にうずらが飛んで来て宿営をおおい、朝になるとマナという食物があたり一面に露のように降りたのです。モーセは、「これは主があなたがたに食物として下さったパンだから、自分の天幕にいる人数に応じて、それを取るよう」と命じます。ところが彼らの中のある者は、モーセの言うことを聞かず、朝までその一部を残しておいたのです。すると、それは臭くなり、虫がわいてしまいました。

モーセは彼らの不信仰に怒りました。聖書には「この犬どもは貪欲で、足ることを知らない(イザヤ56:11)」との厳しい言葉があります。私たちの内に潜む貪欲は、自分の利益を追い求め、神のみことばまでも削ったり、つけ加えたりして、神の命令に背を向けます。

この貪欲をそのまま放っておくならば、神は、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます(ヤコブ1:15)」と私たちに警告します。しかし、気づいた罪を告白するならば、神はすべての不義から私たちをきよめてくださり(Ⅰヨハネ1:9)、私たちが悪臭を放つ腐ったマナにならないようにしてくださるのです。
神の愛と恵みに心から感謝しましょう。

牧師コラム 『甘くなったマラの水』 2022年8月28日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト15:22~27〕
モーセとイスラエルの民は、葦の海(紅海)で主がエジプトと戦われ、大いなる勝利をくださったことに感謝して、主に心からの賛歌を歌いました。そして、モーセは約200万人の人々と家畜を率いて、葦の海から旅立ったのです。彼らは荒野を三日間歩き続けますが水はなく、ようやくマラにたどり着いたものの、その地の水は苦くて飲めませんでした。 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と口々に不平を訴えます。しかしそれを聞いたモーセは主に叫びました。すると主は、彼に一本の木を示され、彼がそれを水の中に投げ込むと、なんと苦いマラの水が甘くなったのです。

主はこのマラで、「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」との約束をモーセに授けます。

三日前には主に感謝を歌った同じ口で、「水がない」と、モーセに不平を言う民たち。この不平は主に向かって言っているのだ、と気付いていない彼らの姿は、私たちの姿でもあります。私たちの心は、自己中心でマラの水のように苦いのです。イエス様が私たちの内側から出て来るものが人を汚す、と語られた通りです(マルコ7:20~23)。

主が一本の木を用いて、マラの水を甘くされたように、イエス様は「世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」として来てくだいました。そして、私たちの罪をキリストの十字架によってきよめ、新しい者に造り変えてくださったのです(Ⅱコリント5:17)。

牧師コラム 『主は私の力、私の救い』 2022年8月21日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト15:1~21〕
エジプト軍が背後に迫りくる絶体絶命の窮地の中で、まさにファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻され、エジプト勢を海の藻くずとされました。しかし、先を行くイスラエルは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行きました。 まさに、「主があなたがたのために戦われる」奇跡を目の前で見たモーセとイスラエルの民は、「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」と感謝の賛歌を声高らかに歌ったのです。

私たちの人生にも、人間関係、家庭の問題、経済的、健康上の問題、など窮地に追い込まれる出来事に遭遇することがあります。誰もこの苦しみを分かってくれない、相談しても解決策はないと、思いは空回りするばかりです。しかし、キリストを罪からの救い主と信じるすべての者に向かって、イエス・キリストは「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語られます。

事実、私たちの罪ためにキリストは十字架の上で死なれましたが、三日目によみがえり、死を滅ぼし、私たちに永遠のいのちを与えてくだったのです。

「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(Ⅰヨハネ5:4,5)」 私たちは、イエス様にあって真の勝利者になれるのです。ですから、私たちは勝利の主に向かって、声高らかに賛美し、感謝と喜びの礼拝を捧げるのです。

牧師コラム 『信仰を働かせよう』 2022年8月14日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト14:21~31〕
エジプトの追手が迫る中、恐れ惑うイスラエルの民に、モーセはエジプトの軍勢ではなく、真に恐れるべき方を恐れよ、と励まし、さらに主の命令通り、手を海に向けて伸ばしました。すると主が一晩中強い東風で海を押し戻し、水が分かれ、右も左も壁になり、民はその真ん中の乾いた地面を進み、対岸に渡ることができたのです。

一方のエジプト軍は、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルを追って海の中に入ったものの、主がエジプトの陣営を混乱に陥れ、戦車の車輪を外してその動きを阻みました。 さらに主はモーセに、「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ」と命じられます。モーセが手を海に向けて伸ばすと、海は元の状態に戻り、ファラオの全軍勢を水がおおい、全滅してしまいました。

この大いなる主の御業を見て、イスラエルは主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。しかしこのような素晴らしい経験、奇跡が、揺るがない信仰になる鍵ではありません。

イエス様がトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)」と語っているとおりです。

聖書には「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)」とありますが、あなたは困難に遭遇した時、神は私に最善をなしてくださると、信仰を働かせて歩んでいますか。ここが、肝心なのです。

「主に信頼する者は決して失望させられることがない。(Ⅰペテロ2:6)」

牧師コラム 『主が戦われる』 2022年8月7日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト14章1~20節〕
エジプトから脱出した後、主はモーセに、「引き返して海辺に宿営せよ。ファラオが後を追うが、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。」と告げられました。

一方のファラオはイスラエルを去らせたことを後悔し、軍勢を率いて彼らの後を追います。後ろに迫るエジプト軍に、イスラエルは大いに恐れ、主に向かって叫び、モーセに対しては「この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ」と言う始末です。 モーセは民に「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」と語ります。主はモーセに「あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。」と告げ、前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろに行き、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入りました。それは真っ暗な雲であり、夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかったのです。

私たちの日常には問題が溢れています。その私たちに預言者イザヤは、「神である主はこう言われた。『立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る』しかし、あなたがたはこれを望まなかった』(イザヤ30:15)」と警告します。主を信じ、心の王座に迎えながら、その主に信頼せず、自分で右往左往する私たちですが、主は、「あなたを見放さず、あなたを見捨てない(ヨシュア1:5)」と言ってくださるだけではなく、あなたがたのために戦ってくださる愛なるお方なのです。

主の忍耐と愛の深さに、驚かされるばかりです。この主に信頼して歩みましょう。

牧師コラム 『主の臨在の中で』 2022年7月31日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト13章17~22節〕
追われるようにエジプトを出発したイスラエルの民でしたが、その時モーセは、400年前のヨセフの遺言通り、その遺骸を携えて出て行きました。

神は、約束の地カナンに向かう民が、「戦いを見て恐れを覚え、心変わりして、エジプトに引き返すといけない」と考え、最短で行けるペリシテ人の地を通る道ではなく、葦の海に向かう荒野の道に回らせました。こうして民はスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営したのです。一見遠回りに思えるこの荒野の道には、神の深い愛の考えがあったのです。

さらに神は、彼らを導くために、昼は雲の柱の中、また夜には彼らを照らす火の柱の中にいてくださり、彼らの前を進まれたのです。雲の柱、火の柱が、民の前から離れることは決してありませんでした。神がともにいてくださる、そして進むべき道を案内してくださる、という安心感の中で、彼らは昼も夜も進んで行きました。罪に汚れている人間は、聖い神を直接見ることができません。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。(出エジプト33:20)」と、警告されているとおりです。それゆえに、神ご自身がいつもともにおられることを、雲の柱、火の柱という見える形によって、示されたのです。同様に主イエス様は、「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ14:16)」と、私たちに約束してくださいました。

キリストを罪からの救い主と信じる者の心の中には、聖霊なる神が住んでくださいます(Ⅰコリント3:16)。主を信じる者は、日々神とともに歩み続けることができるのです。

牧師コラム 『罪の奴隷からの脱出』 2022年7月24日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト13章1~16節〕
主はモーセに「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」と告げられました。それは出エジプトの夜、鴨居と門柱に塗られた子羊の血によって、神が長子を贖われたからでした。続いて主は、エジプトの奴隷の地から救い出されたことを、いつまでも覚えるために、毎年過ぎ越しの祭りと種なしのパンの祭りをするように具体的にモーセに命じました。 それは、主がイスラエルの初子を打たず、救われた、という事実を自分たちの日々の生活の中でしっかりと覚え、子や孫たち、子々孫々にまで記念として伝えるためです。

時が過ぎ、ヨセフとマリヤは、住民登録のためにダビデの町へ上り、身重のマリヤはベツレヘムで男子の初子を産みます(ルカ2:7)。このお方こそ、神の御子イエス・キリストです。 神はご自身の愛する一人子、また長子であるイエス・キリストを、私たちのすべての罪を贖うために遣わされ、十字架の上で罪の贖いを成し遂げられたのです。 それは、罪の奴隷となっている私たちを救い出すためです。

「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(Ⅰコリント6:19~20)」と聖書が語っているとおり、この神の愛の中に生きる者に、そして神の栄光を現す者にならせていただきましょう。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」

牧師コラム 『信仰の原点に立ち返る』 2022年7月17日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト12章37~51章〕
イスラエルの民がエジプトのラメセスからスコテを目指して旅立った時の数は、女子供を除いて壮年男子約六十万人で、ほかに異国人もいました。イスラエル(ヤコブの子孫)がエジプトに滞在した期間は四百三十年で、この日はその四百三十年目の最後の日でした。
彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜、主は代々に守る過越に関する掟をモーセとアロンに語られました。「過越に関する掟は次のとおりである。異国人はだれも、過ぎ越しの子羊を食べてはならない、しかし買い取られた奴隷は、あなたが割礼を施せば、食べることができる。しかし、訪問中の異国人や雇い人はできない。もし、あなたと一緒に住む異国人が、主に過越のいけにえを献げようとするなら、その人の家の男子はみな割礼を受けなければならない。無割礼の者は、だれも子羊を食べてはならない。」

こうしてイスラエルの民は、約束の地に向かっての第一歩を踏み出しました。

かつて神は、アブラハムに「主の契約を守るしるし」として、男子はみな割礼を受けることを命じました。これは、神への従順(創17:1)と神の選びの恵みに感謝するためでした。
神が異国人にも割礼を命じたのは、この恵みをイスラエル人だけではなく、異国人にも与えるためでした。事実、異国人である私たちも、キリストを罪からの救い主と信じる信仰によって、この神の恵みにあずかり、神のこどもとなったのです。

ところがいつのまにか、私たちの歩みは、自分の行いに頼るものになってしまいます。「あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。(エペソ2:8)」とみことばが語る信仰の原点に立ち返って歩みましょう。

牧師コラム 『いのちによる贖い』 2022年7月10日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト12章21~36節〕
モーセはイスラエルの長老たちを呼び「過越のいけにえの羊を屠りなさい。ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。」と、主の命令を告げました。

それは、主がエジプトを打つために行き巡られる時、血の塗られた鴨居と門柱の戸口を過ぎ越し、イスラエルの家を守るためでした。そして、イスラエルの子らは、主が命じられたとおりに、それを行いました。その夜、主がエジプトの初子を打たれたので、エジプトは長子を失った悲しみに激しく泣き叫びました。ファラオはその夜、モーセとアロンを呼び、言った。「私の民の中から出て行き、おまえたちの主に仕えよ。羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」エジプト人は民をせき立てて、その地から出て行くように迫り、イスラエル人は、エジプトから、銀、金、衣服を求め、それらをエジプトからはぎ取りました。すべて主が語られた通りでした。(創世記15:14)

イスラエルは羊の血、すなわち、羊のいのちによって、奴隷から解放されたのです。

これまでイスラエルは、主が行われた数多くのしるしに対して、受け身でした。しかしこの時には、主のことばを信じ、応答し、行動する信仰が求められたのです。聖書は「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:22)」と警告します。あなたはみことばを自分の都合に合わせてはいないでしょうか。「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。(申命記4:2)」