石巻教会 開設1周年記念特別礼拝

2014年9月に完成した石巻福音自由教会会堂。
翌月10月12日に、第1回目の礼拝が行われました。

第1回の礼拝を始めてから、来週で1周年を迎えます。
この1年間の感謝を込めて、「開設1周年記念 特別礼拝」を
捧げます。

宮城県大崎市古川出身の浅野洋介氏をお迎えして、
素敵な調べで、神様をほめたたえます。
入場無料です。

どうぞお気軽にお越しください。

日時:2015年10月11日 14時00 開演(開場13時30~)
場所:石巻福音自由教会(石巻市三和町6-3 ※長者味噌様裏手)
電話:0225(25)1705

2015 10.11 Yosuke Asano

牧師コラム 「らしんばん」 2015年10月4日

IMG_8506  高橋 勝義師

ソロフォークシンガーである井上陽水の曲の中に
「人生が二度あれば」があります。
もしも、人生をやり直すことが出来るならば…と思うことが、
あなたにもあったのではないでしょうか? そんな思いを切実に歌っています。

しかし、あなた自身は、全く変わっていないのに、人生をやり直せたとして、
果たして、あなたの思い描いた人生にすべてなるのでしょうか?
どこかで、同じような失敗を繰り返すような気がするのですが…。

ところが、イエス様は、人生のやり直しではなく、全く新しいいのち、
即ち、永遠のいのちを持つことが出来ると語りました。
それには、新しく生まれる必要があります。

イエス様が「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:15)と
語られたように、イエス様を自分の罪からの救い主として信じ従うことが、
新しく生まれる秘訣です。

十字架」が、証拠であり、保証です。
一度しかない人生ですから、やり直しの人生ではなく、
全く新しく生まれる人生に、あなたも一歩踏み出してみませんか?

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月27日

IMG_8506  栗原延元牧師

イエスは、12弟子を任命して使徒と名づけました。
この使徒たちが全世界に遣わされてキリスト教会が
築き上げられて行くのですが、弟子たちを教育して使徒とするために、
イエスは苦労したのです。

12人の弟子たちの間でいつしか<だれが一番偉いか>が
論争になっていたからです。
このような論議が、イエスをメシヤ(救い主)と信じる信仰者たちに
ふさわしくないと彼らは感じとっていましたから、
<道で何を論じ合っていたのか>とイエスに尋ねられた時、
彼らは黙っていたのです。
それでイエスは一人の子供を連れて来て、幼子たちを大切にするように、
イエスの名のゆえに受け入れるようにと諭すのです(マルコ9:33~37)。

しかし12弟子たちはイエスの最後の晩餐の中でも、
自分たちの中では誰が一番偉いだろうかと議論するのです(ルカ22:24)。
どこに人間が人間である故に尊敬される世界があるのでしょう。

宗教は余程注意しないと、その教え故にヒエラルキー(人を支配する階級)を
形成しやすいのです。
人間を格付け、あるいは順位付けする領域から解放するものは
「恵み」による救いというキリストの福音に立脚することです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月20日

IMG_8506  栗原 延元 牧師

聖書は真実な書物です。
旧約聖書は神の選びの民イスラエルが約四百年もの間
エジプトの奴隷であった事を伝えます。
新約聖書には、初代教会の指導者であった
ペテロ、ヨハネ、パウロたちの隠しておきたい失敗、
思い違いや誤りを正直に書き残しています。

そう云えばクリスチャンとは、十字架で死んだイエスを救い主(キリスト)と
信じ仰ぐのですから変わった人達であると言われ続けてもいます。
しかしイエスの生涯に起こった受難の死と復活が、
実際に無かったならばキリスト教は存在しません。
イエスは最も重要な、ご自身の受難と復活を前もって三度予告しています。
この予告の内容をいずれの場合も弟子達は理解できませんでした。
マルコの福音書を読んでいきますと、弟子たちはイエスの種まきのたとえ話も分かりません。
湖上を歩くイエスを見て幽霊と勘違いしてしまいます。
イエスの弟子たちの理解力の鈍さ、また人格的な欠陥(ペテロはおっちょこちょい、ヨハネの気性の荒さ)も見られます。

イエス・キリストは本当に素晴らしい教育者です。
このようなガリラヤ湖の漁師たちを、人間をとる漁師に育て上げたのですから。

2015年9月17日 バイパス東仮設支援(第126回)

○日時:2015年9月16日
○場所:バイパス東仮設
○参加者:10名
○奉仕者:仙台教会7名
○奉仕内容:スモックの手提げ袋

参加者の方々から「もう少し大きなものを・・・」「手提げ」を
作ってみたいというご要望を頂いていました。
斉藤圭子姉が試作を重ねて、藤原姉、Aさんとともに、
準備に奔走して下さいました。

スモックを縫う作業は、慣れるまで少し時間がかかりましたが、
皆さん、程なくコツをつかんで上手に縫い進めていました。
3ヶ月かけてクリスマスまでには、素敵なバッグが仕上がることでしょう。
聖書のお話の時間では、みんなで「赤とんぼ」を歌い、
作詞の三木露風やその信仰から十字架のお話をさせていただきました。

集会が終わっても、おしゃべりは尽きず、またその中には大きな苦しみを
打ち明けていく方もありました。
生活はある程度落ち着いて来たかのように見えますが、
心に負った傷は深く癒しがたいものであるように感じます。
今日も福音をお伝えしていく急務があることを感じさせられました。

集会後、自治会長から仮設の解散も見据えて、
この教室は来年の3月までとしたいとのお話がありました。
あと半年、一回一回を大切に、誠実にお仕えして、
神様のご愛をお伝えしていきたいと願っています。
今日の支援活動も、神様の恵みの中、守られて歩めたことを
心から感謝致します。 (吉田真知子)
IMG_1492 IMG_1495        【楽しい針仕事を終えて みんなで一服中】

ニュースレター2015年9月(Vol.16)

7月の強烈な天候とは、うって変わって肌寒い日々の続いた8月でした。
9月に入り、文字通り「秋の長雨」が各地に大きな被害をもたらし、
宮城県北の大崎市でも、堤防決壊により、床上浸水の被害を
目の当たりしています。

大崎地区は、宮城県の米どころでもあり、水に浸かった水田に、
農家の人たちの苦悩がしのばれます。

被害にあわれた方々の上に、主の慰めがありますように。

16号となりますニュースレターが完成しました。
どうぞご覧ください。

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牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月13日

IMG_8506  栗原 延元牧師

イエスとペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちは高い山(ヘルモン山か)で、
すばらしい光景を目撃しました。
その光景についてイエスと語り合いながら山を下りて里に帰ってみると、
他の弟子たちは律法学者たちと議論していました。

イエスは何を議論しているのかを尋ねると、てんかんと思われる少年の父親が
事の次第を説明したのです。
そして弟子にではなく、主イエスに

<もしできるのなら、私たちをあわれんで、お助けください>と言います。

この父親をたしなめるように
<できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです>と
イエスは話すのです。
このイエスの言葉は、父親に信仰を呼び起こします。
<信じます。不信仰な私をお助けください>(マルコ9:21~24)

このイエスと父親のやりとりの場面を山口昇師(私の神学校の先生)は、
「我々は自分の可能な限りの信仰をもって神を信じる。
しかも、なお神の目の前には、それは不完全であり、
不信仰である。
しかしこのような意味における信仰の不完全さを認めるのは、
神の御前に謙遜な人間にふさわしいこと」であると書いています。

信仰の完成者であるイエスから目を離さないように。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月6日

IMG_8506  栗原 延元牧師

前回はイエスが高い山(ヘルモン山か)の上で姿が変わり、
そこにエリヤとモーセが現れて語り合っていた情景の事を学びました。
この変貌山の光景を目撃した者は、ペテロとヤコブとヨハネの3人の使徒たちでした。
この3人にイエスは
<人の子が死人の中からよみがえるときまでは、
いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。>(マルコ9:9)

人はすばらしい事を黙っているのは困難です。
特に天上の光景とも言うべき体験を目撃する特権に
この3人は選ばれたのですから、他の弟子達に誇らしく
語りたくなるのではないでしょうか。
しかし彼らはこの事を口外しなかったようです。
それは<そのおことばを心に堅く留め>(マルコ9:10)ていた事から
推測できるでしょう。

人の子(イエス)がよみがえる時まではとの期間限定の緘口令でした。
しかし人の子がよみがえるとは、どのような意味を有しているのかは、
彼ら3人だけでなく、他の弟子達にも分かりませんでしたが、
はっきりと理解できる時が来るのです。
それは<聖霊があなたがたの上に臨まれるとき>(使徒1:8)なのです。
その時、人の心の暗に光が射すのです。

牧師コラム 「らしんばん」2015年8月23日

IMG_8506  栗原 延元牧師

山は都会の喧噪を離れて静寂の中に身を置くことのできる場所です。
その静かさの中で、イエスは人々にこの地上での生き方を語りました。
その教えは聞いた人たちの心の中に響きました。
それが「山上の垂訓」です。マタイ5章から7章に記されています。
この山上の垂訓が語られた山はガリラヤ湖に近く、それほど高い山ではありません。
ですから多くの人々が登って来ることができました。

イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に導いて行きました(マルコ9章2節)。
この高い山の名は、並行記事のマタイ、ルカにも記されていませんが、
多分ヘルモン山(海抜約2800m)であろうと思われます。
一年中雪をいただき、その雪解けの水はヨルダン川の主要な水源です。

この山でイエスの御姿が変わりました。「山上の変貌」です。
イエスの復活と再臨が予表されたのです。
このときモーセとエリヤが現れ、彼らはイエスと語り合っていた。

モーセとエリヤは旧約聖書の律法と預言者を代表し、2人とも山に登っています。
モーセはシナイ山(出エ19章)、エリヤはカルメル山(Ⅰ列王18章)に、
いわば頂上サミットです。
ここでのテーマはイエスの十字架の苦難に関してでした。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年8月16日

IMG_8506  栗原 延元牧師

<自分のいのちを買い戻すために、人はいったい
何を差し出すことができるでしょう。>(マルコ8:37)
とはイエスのことばです。
このことばの言外には、差し出すことができないでしょうの意味が含まれています。
たとい全世界の富と財産を所有していたとしても、
損じた自分のいのちを買い戻すことはできません。

マルコ8:37でイエスが言っていることの真意は、
「わたし(イエス)以外に」それを買い戻すことはできないと言うことです。
イエスは罪の力の下に、罪の奴隷となっている人間を解放することが
できるお方なのです。
それゆえにイエスを「主」と呼ぶとき、そこに含まれているのは「贖い主」であるという事です。
買い戻すことを贖(あがな)うとも言うのです。

神の愛は、罪と死の奴隷となっている人を、その奴隷状態から
買い戻すという具体的な行動を起こすことによって表わされました。
その神のご計画をイエスは
<人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、
殺され、三日の後によみがえらなければならない>(マルコ8:31) と語られたのです。

まさに神は、ご自分の愛する御子のいのちの代価を払って人を贖ったのです。