牧師コラム 『カインとアベル』 2018年4月15日

 牧師 栗原延元

 今日は創世記4章を学びます。
 この章は〈人はその妻エバを知った。彼女はみごもってカインを生み、「私は主によってひとりの男子を得た。」と言った。〉をアダムとエバの夫婦に子が与えられ、人間の世界が、夫婦、親子、兄弟関係へと拡大、多様化していく姿が描かれています。それに伴って、神のみことばに背を向けた罪人としての人間の問題も拡大し、複雑化して行きます。
 文明とは、前章で示された罪の厳粛な事実とそれに対する神のあわれみへの個人個人の対応の集積として性格づけられていく(舟喜信)のです。
 しかし、文明は「神のあわれみ」を前提としている以上、ひとたび人が犯した罪によってもはや何の可能性も残されていない暗黒の文明ではないのです。
 むしろ神が介入され、神が語られるところにいつも「光」を見ることが出来るのです。
 文明の暗黒の最たるものは、殺人です。しかも兄(カイン)が弟(アベル)を殺すという骨肉の争いが創世記4章に書かれているのです。
 そのキッカケが主へのささげ物をするカインとアベルの姿勢であったところに罪の恐ろしさが顔を出しているのです。詳しくは礼拝の中で語ります。

 

牧師コラム 『名が天に書き記される』 2018年4月8日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストによって、町に遣わされた七十二人の弟子たちは、帰って来るなり「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」(ルカ10:17)と喜びの報告をしました。
 ところが、イエスは、弟子たちに『霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』(ルカ10:20)と語ったのです。なぜ、このように語ったのでしょうか。
 聖書は、世の終わりについて『見よ、わたし(イエス・キリス)はすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。』(黙示22:12)と語っています。
 世の終わりの時には、まことの神を認めず、背を向けて歩んで来た【罪】に対するさばきがあるのです。それ故、イエス・キリストは、このさばきから私たちを救うために、その罪を身代わりに負い、十字架で死なれたのです。
 すべての人を神のさばきから救うためです。
 さばきから救われるために必要なことは、自分の罪を認め、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることです。
 その時、あなたの名は天に書き記されるのです。
 ですから、イエス・キリストは、あなたの名が天に書き記されることを人生の最優先にしなさいと語るのです。
 あなたにとって、人生の中で最優先しているものとは何でしょうか…。
 イエス・キリストは、『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか』(マルコ8:36)とあなたに語りかけておられます。

牧師コラム 『よみがえられたイエス』 2018年4月1日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストは、十字架の上で死なれ、墓に葬られました。
 日曜日の朝、マグダラのマリヤともう一人のマリヤは、墓に行き、御使いに『ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。(マタイ28:6)』と告げられたのです。
 さらに、イエス様は、弟子たちの前に現れ、ご自身が幽霊ではなく、からだをもってよみがえったことを示すために、焼いた魚を食べられたのです。

 人間の理性や常識では、とても考えられないことですが、天地万物を造られたまことの神には『不可能なことは何もありません(ルカ1:37)』なのです。

 このイエス・キリストのよみがえりは、私たちの人生にどう関わるのでしょうか。
 第一に、イエス・キリストのよみがえりは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたのですが、これは終わりの日に、私たちもよみがえることの証なのです。
 第二に、イエス・キリストのよみがえりは、よみがえられた新しいいのちを私たちに与えます。このいのちを頂いて、私たちは、新しい人生へと踏み出すのです。

 ですから、イエス・キリストのよみがえりは、とても重要なのです。
 では、どうすれば、この素晴らしい新しいいのちを頂くことが出来るのか。
 聖書が、『御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)』。また、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)』と語っているように、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることなのです。

牧師コラム 『神の国が近づいた』 2018年3月25日

 牧師 高橋勝義     

 天気予報のない時代、「夕焼けになると次の日は晴れる」と人々は経験から言っていました。先人たちの知恵は、今も私たちを助けています。
 そのような先人たちの知恵をもってしても、解決できないのが人の死です。
 聖書にも『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。(3:11)』とあるように、死は誰でも気になることなのです。
 私たちの将来、即ち、死後について教えてくれる指針はあるのでしょうか。
 イエス・キリストは、『時が満ち、神の国が近づいたから、悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)』と語り、神の国の福音を人々に宣べ伝えました。
 神の国が近づいたことが、私たちの人生にどう関わるのでしょうか。
 実はこの福音が、この問題の解決を示すものなのです。
 イエス・キリストの十字架は、神の国が近づいたことの〔しるし〕であり、指針だからです。ですから、イエス・キリストは『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)』と語りました。
 神の国の福音を信じるとは、まことの神から離れ背を向けていた罪の歩みをやめ、神とともに歩む道へと方向転換することです。これが、悔い改めです。
 罪の赦しと滅びからの救い、永遠のいのちを備えられたイエス・キリストは、『生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。(ヨハネ11:26)』と今日もあなたに問いかけているのです。

牧師コラム 『弟子になるための心得』 2018年3月18日

牧師 高橋勝義     

 昔の職人は、自らの退路を断って、自分の人生を師匠に託して弟子入りしました。
 また、師匠も、厳しくも温かなまなざしで弟子の歩みを見守ります。
 このような信頼関係があるから、師匠は弟子に自分の技を惜しげなく見せ、弟子は師匠の技を見て、盗み、一人前になっていきます。
 退路を断つとは、悲観的な意味ではなく、将来に希望を抱いて進むことなのです。
 さて、イエス・キリストの名は、国中に広まり、大勢の人々が集まってきました。
 その中には弟子になりたいと申し出る人々がいたので、イエス・キリストは、ある人には『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(イエス・キリスト)には枕するところもありません(ルカ9:58)』と語り、また別の人には『鋤に手をかけてからうしろを見る者は誰も、神の国にふさわしくありません(ルカ9:62)』と語りました。
 前もって逃げ道を用意したのでは、形は弟子になれても、真の意味で弟子になることは出来ません。すべてが中途半端になってしまうからです。
 弟子になるための心得として、イエス・キリストは、『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31,32)』と語りました。
 その真意は、『わたしのことば』、すなわち、イエス・キリストのことば(聖書)を本気になって信じ、日々の歩みの中で実践しなさいということです。
 聖書の約束を信じて歩み続ける時、真理を知り、キリストのことばが内側から沸くいのちの泉となって、苦しい事や辛い事があっても、乗り越えていく力となるからです。

牧師コラム 『本当の希望』 2018年3月11日

牧師 高橋勝義     

 「希望」を辞書で引くと「のぞみ願うことが実現すること」とありました。
 ペテロは、『あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。(第一ペテロの手紙121)』と語っています。
 では、ここで語られている「希望」とは、何でしょうか。
 それは、終わりの日に新しいからだをもって「よみがえる」という希望です。
 この希望は、キリストを死者の中からよみがえらせた神から与えられるのです。

 どうすれば、この希望を得られるのか。

 聖書は、『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(へブル9:27)』と語っています。

 イエス・キリストは、私たちが受けなければならないこのさばきを身代わりに負って、十字架の上で死なれたのです。これを事実として受け取り、イエス・キリストを罪からの救い主として信じる時、神のさばきから救われ、永遠のいのちが与えられ、終わりの日に新しいからだをもって「よみがえる」という希望が与えられるのです。
 イエス・キリストがよみがえられたのは、イエス・キリストを信じるすべての人が、よみがえることの初穂、つまり、〔しるし〕なのです。
 『神にとって不可能なことは何もありません(ルカ1:37)』とあるように、永遠のいのちが与えられているすべての人は、終わりの日によみがえるのです。
 ですから、キリストを死者の中からよみがえらせた神を信じる信仰が大切なのです。
 これが、《本当の希望》です。この希望があれば、自分がどこに向かって進んでいるのかが分かり、毎日を力強く生きることが出来るのです。

 

牧師コラム 『あなたはどこにいるのか』 2018年3月4日

牧師 栗原延元   

 今日は創世記の3章を学びます。この章にはエデンの園の禁断の木の実を取って食べた夫妻(アダムとエバ)に、神である主が呼びかけた問いが記されています。
 この問い、「あなたはどこにいるのか」は、人が罪を犯したあと最初に神が語りかけられたことばです。
 神のこの語りかけに、「私達はあなたのみことばを破りました。お赦し下さい。」と素直に答えませんでした。夫のアダムは妻に、妻のエバは蛇(サタン)に責任を転嫁してしまったのです。人間の原罪の姿がここに出ています。
 その結果、出産の苦しみを女は味わい、アダムは苦しんで食を得なければならなくなります。
 詳しくは、礼拝の中で学びますが、私がこの箇所について思いめぐらしていたときに、二人の人物を思い起こしていました。ひとりは、少年サムエルです。この少年は主から「サムエル。サムエル。」と呼ばれたとき、すぐに「お話し下さい。しもべは聞いております。」と答えました(サムエル記Ⅰ、310)
 もうひとりは、ベタニヤ村のマリヤです。主イエスが家に来られたとき「マリヤは、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(ルカ10:39)のです。
 私達はサムエルやマリヤに倣う者でありたいものです。

牧師コラム 『誰が一番偉いか』 2018年2月25日

牧師 高橋勝義     

 「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」これは「虎が死んで美しい皮を残すように、人は死後に優れた名を残すように心がける」という意味です。
 いつの世でも、高い評価を受けたり一番になることは、嬉しいことです。
 実は弟子たちの関心事も「誰が一番偉いか」にありました。
 そこで、イエス・キリストは、弟子たちに『あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい(マタイ20:26)』『あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい(マタイ20:27)』と教えました。
 ヒントは、『仕える者』『しもべ』にあるのですが、いったいどのような人なのでしょうか。
 その答えは、イエス・キリストご自身の歩みにあります。
 イエス・キリストは、神の一人子でありながら、人となってこの世に来られ、私たちを滅びから救うために、鞭打たれ、ついには神に背を向けて歩んでいる私たちの罪を、ひとつ残らず身代わりに負って十字架で死なれたのです。
 この歩みが、『仕える者』『しもべ』の姿であり、イエス・キリストご自身が身をもって私たちに模範を残されたのです。
 一番偉くなるための秘訣は、『仕える者』『しもべ』の歩みにあり、この世の考え方とは全く違うのです。
たとえ、人があなたを正しく評価しなくても、常に公平でえこひいきのない神が、あなたの歩みをすべて見ておられます。
 ですから、弟子のペテロは『あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(Ⅰペテロ5:6)』と語るのです。
 人からの評価よりも、神からの評価を得る歩みを目指しましょう。

牧師コラム 『不信仰な曲がった今の世だ』 2018年2月18日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストは、『ああ、不信仰な、曲がった今の世だ』と嘆かれました。
 曲がった今の世とは、元に戻らないくらい歪んでいる世ということです。
 何が歪んでいるのか。それは、天地万物を造られたまことの神がおられるにもかかわらず、その神を神として認めず、感謝もせず、それどころか、自分たちで作り、信仰している私たちの心の状態のことを言っているのです。
 イエス・キリストは、何に嘆かれたのでしょうか。それは、弟子たちの不信仰と、まことの神を信じようとしない人々の不信仰に対してです。
 歪みの原因は、まことの神から離れ、背を向けて歩む罪にあるのです。
 歪んだ歩みをしている私たちに対して、聖書は『人の心は何よりも陰険で、それは直らない(エレミヤ17:9)』と語っています。

 果たして、元に戻る道があるのでしょうか。

 イエス・キリストは、世(あなた)を救うために、ただ一度、私たちのすべての罪を身代わりに負い、十字架の上で死なれたのです。それは、『わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです(ヨハネ12:47)』。
 イエス・キリストのいのちと引き換えに、罪が処罰されたので、罪から解放されるのです。この事実を信じるすべての人の歪んだ心は元に戻るのです。
 この事実を信じないなら、『ああ、不信仰な、曲がった世』のままであり、あなたの心は陰険なままです。
 それゆえ、イエス・キリストの嘆きには、あなたに歪んだままの歩みを続けて欲しくないという願いが込められているのです。

牧師コラム 『変貌されたイエス』 2018年2月11日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登りました。
 そして、祈っておられると御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝き、その姿が変貌されたのです。
 弟子の一人であるペテロは、イエス・キリストの変貌に驚き、訳の分からないことを言い出しました。毎日見ている姿とは、全く違っていたからです。
 神であるのに、真の人となってこの世に来られたイエス・キリストが、まことの神であることを明らかにされたのです。

 「神が人となる。」人間の理性ではとても理解できないことです。

 しかし、聖書は『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:68)』と語っています。
 神の愛は、私たちを滅びから救い、永遠のいのちを与えるために、人のすべての罪をイエス・キリストに身代わりとして負わせるほど深い愛なのです。
 ですから、人間の理性を遥かに超えているのは、当然のことなのです。
 十字架は、神に背を向けた私たちの歩みが誤りであることを示し、私たちに、神と共に歩む正しい歩みへと導く、神の愛のしるしなのです。
 そして、『実に十字架の死にまでも従われた』イエス・キリストは、十字架の死から三日目によみがえられました。人として歩まれたイエス・キリストは、私たちの苦しみや悩みをよく御存知です。
 このお方が、いつもあなたのかたわらにいて下さるのです。