今日のメッセージ 『キリストのとりなし』 2025年7月6日

 高橋勝義

〔民数記17章1~13節〕

 コラの反逆と全会衆のモーセとアロンへの批判に対する神罰が、アロンの宥めにより収まった後、主は族長たちに、自分の名を書き記した十二本の杖を持って来るように命じました。レビの杖にはアロンの名を書き記すように命じ、それらを会見の天幕の契約の箱の前に置くように語りました。主が「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す」語った通り、その翌日、モーセがあかしの天幕に入って行くと、アロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいたのです。この事実により、神がアロンを選ばれていることが明らかになり、神はアロンの祭司職を守り、不平を鎮めました。これによって、神は、民が二度と同じ過ちを犯さないようにと願われたのです。

 私たちは、神の愛と恵みにより、キリストを救い主と信じる信仰によって、神の子どもとされました(ヨハネ1:12)。それゆえ、パウロは、神の子どもとして召されていることを自覚し、その召しにふさわしく歩むようにと勧めます(エペソ4:1)。しかし、自分の歩みを振り返るならば、とても神の子どもにはほど遠いことを認めざるを得ません。すると、私たちの心の中に「こんな自分は本当に救われているのだろうか」と否定的な思いが湧いてきます。

 これは信仰の歩みの中で、必ず経験する葛藤です。神がアロンを弁護されたように、よみがえられたキリストは、神の右の座に着き、私たちのために、とりなしておられるのです(ローマ8:33,34)。これは、私たちにとって大きな慰めであり励ましです。

 ですから、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい(へブル12:2)」とあるように、日々、十字架を見上げて歩んで行きましょう。

今日のメッセージ 『主のある労苦は無駄ではない』 2025年6月29日

 牧師 高橋勝義

〔民数記16章36~50節〕

 コラに属する者はみな、ことごとく地に吞み込まれ、また香を献げていた二百五十人は焼き尽くされてしまいました。このありさまを見ていたイスラエルの全会衆は、翌日、モーセとアロンに向かって「あなたがたは主の民を殺した」と詰め寄りました。そのとき主の栄光が現れ、主はモーセに「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」と告げ、主の裁きが始まったのです。この主の罰で、一万四千七百人が死にました。約束の地に入れないことへの失望、さらに荒野で40年過ごさなければならないことへの不安と恐れがイスラエルの全会衆にそうさせたのでしょう。

 私たちも先行きが見えず、将来に希望が持てないとき、やり場のない思いを何かにぶつけたくなります。しかし、イエス様は、「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(マタイ6:34)」と語られましたが、自分はどこに向かって歩んでいるのかがはっきりしているならば、たとえ目の前に様々な困難や問題がおこったとしても、その問題は神様におゆだねして、前に向かって歩めます。今起こっているすべての事は神のご支配の中にあること、また神がともにおられることを信じる信仰が鍵であり重要なのです。

 イエス様は天に帰られる時、私たちに「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます(ヨハネ14:3)」と約束されました。天ではあなたのあらゆる労苦をご存知の主が、あなたの涙をことごとくぬぐい取ってくださいます(黙示録21:4)。

 ですから、主を仰ぎ見つつ歩んで行きましょう。(Ⅰコリント15:58)

今日のメッセージ 『神の前に襟を正す』 2025年6月22日

 牧師 高橋勝義

〔民数記16章1~35節〕

 約束の地を目前にしながらもイスラエルは不信仰の結果、神の怒りを招きますが、モーセのとりなしで荒野で四十年を過ごすこととなりました。そのような中、レビ族のコラとルベン族のダタンとアビラムおよびオンは、族長や名のある者たち二百五十人と共謀し、モーセとアロンに、「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか」と言いがかりをつけたのです。これを聞いたモーセは、御前にひれ伏し、コラとそのすべての仲間に、「火皿を取り、明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」と告げました。そして神は、コラに属するすべての者の足もとの地面を割き、彼らは地中に、また、香を献げていた二百五十人も焼き尽くしました。彼らは指導権を握ろうとしたのですが、しかし、これは神の主権に立ち入るという大きな罪を犯したのです。

 聖書は「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。(ローマ13:1)」と語りますが、世の中は理不尽だらけで日々葛藤の連続です。しかし、「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル4:13)」と語られているとおり、「神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる(ヨブ34:11)」お方です。

 ですから、私たちも主の御前に自らの襟を正して、日々忠実に歩んで行きましょう。

今日のメッセージ 『聖霊に導かれる歩み』 2025年6月15日

 牧師 高橋勝義

〔民数記15章32~41節〕

 神はイスラエルの民に十戒の中で、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。(出エジプト20:8,10)」と命じました。ところが民が荒野にいた時、安息日に薪を集めている男が見つかったのです。神はモーセに「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」言われ、主の戒めを破った彼は宿営の外で処刑されました。続いて神は、モーセをとおして人々に、衣服の裾の四隅に房を作り、そこに青いひもを付けるように命じられました。それは、その房を見ることによって、エジプトから救い出してくださった主のすべての命令を思い起こし、それに従うためでした。

 確かに、青いひもは罪を抑制させるでしょう。しかし、イエス様は「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)」と語られ、行動だけではなく、罪の本質は心の中にあることを指摘されたのです。そして、「口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです(マタイ15:18,19)」と語られたのです。

 パウロは、「今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです(ローマ7:17)」と正直に告白しています。この私たちの心に住む罪を解決するために、神のひとり子イエス・キリストは来られ、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、そして、三日目によみがえられたのです。イエス様が、助け主(聖霊)を送ると約束されたように、イエス様を罪からの救い主と信じる者の内には聖霊が住んでくださるのです。この、聖霊によって歩むならば、私たちは罪の力から離れることができるのです。(ガラテヤ5:16)

今日のメッセージ 『神の約束は変わらない』 2025年6月8日

 牧師 高橋勝義

〔民数記15章1~31節〕

 神は、民の不信仰のゆえに約束の地から向きを変えて、葦の道を通って荒野に旅立つように命じました。同時に神は、40年間荒野をさまよった後、新しい世代が約束の地に入ったならば、特別な誓願・進んで献げるもの・穀物のささげ物・全焼のささげ物・食物のささげ物・注ぎのささげ物、そして例祭を守るように命じられたのです。

 約束の地を目前にしながら、不信仰と不従順の罰を、荒野で刈り取らなければならない民にとっては、辛い宣告、命令ですが、約束の地へ導くという神の約束は変わることがなく、こどもたちが約束の地に導かれることは、大きな慰めと希望になったことでしょう。同時に、これは自分たちが神の民であることを再認識し、自覚するためでもあったのです。

 聖書には「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)」とあるように、自らの歩みに対する責任を負わなければなりません。神は、愛なるお方ですから、私たちを訓練し、私たちの内にある不純物(不信仰)を取り除き、救いを失うことのないように守っておられるのです。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」(へブル12:5,6)と語られているとおりです。訓練や試練は、決して、嬉しくありませんが、神があなたを愛されている証拠なのです。

 子を省みない親がいるでしょうか。自分が神の子どもとされている恵みを、もっと深く自覚して歩んでいきましょう。神は、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださる愛のお方だからです。(Ⅰコリント10:13)

今日のメッセージ 『主の前に出られる喜び』 2025年6月1日

 牧師 高橋勝義

〔民数記14章26~45節〕

 約束の地を目の前にしながら、イスラエルの民は、神から「明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け」と命じられてしまいました。神は、偵察した四十日の一日を一年と数えて、四十年間荒野で不従順の罪を償い、さらにカレブとヨシュア以外の主に逆らった大人たちはこの荒野で死ぬ、と厳しい宣告をされたのです。そして民の不安をあおった十人の偵察者たちは疫病で死にました。その翌朝、神からの厳しい宣告を聞いた民は急ぎ約束の地に入って行きますが、時すでに遅く、敵に追い散らされてしまいます。この時、民のなすべきことは、神の前に出て、正直に自分たちの罪を認め、厳しい宣告を受けたのはどこに問題があったのかを教えていただき、悔い改めることだったのです。

 しかし、この姿は私たちの姿でもあります。自らの過ちを認める前に、でも…とか、誰もがやっている…とか弁解したり、様々な理由を付けて自分を正当化しようとします。

 聖書に「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません(ルカ8:17)」とあるように神はすべてを御存じです。自分の非を認めることは勇気のいることですが、キリストが十字架の上で私たちの罪のために流された血潮のゆえに「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない(イザヤ43:25)」と神は語っておられます。

 ですから、私たちも彼らと同じ過ちを繰り返さないために、恐れることなく「さあ、来たれ。論じ合おう。~たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。~ (イザヤ1:18)」と招いてくださる主の前に正直に出て行けるのです。

今日のメッセージ 『神を畏れる心』 2025年5月25日

 牧師 高橋勝義

〔民数記14章1~25節〕

 全会衆は、偵察隊の悪い報告を聞き、泣き明かし、エジプトに帰ろうと言いだしました。モーセとアロンは、会衆の前でひれ伏し、民の反逆を自分たちの罪として祈りました。その時、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、主に背いてはならない、主がおられるのだからと進言しますが、全会衆はその二人を石で打ち殺そうとします。すると主は、不従順な民のためにひれ伏すモーセに「わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。」と言われたのです。しかしモーセは、もし、主があなたの民を一人残らず殺すなら、『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と主の御名が異邦の民に侮られてしまうと訴えました。そのとりなしを聞かれた主は民を赦し、「明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け」と命じたのです。

 聖書には「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません(ピリピ2:21)」とありますが、これが生まれながらの私たちの姿なのです。にもかかわらず、神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と語ります。あなたはかけがえのない存在なのです。それゆえ、イエス様は「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11)」と語られたとおり、私のすべての罪を身代わりに負い、罪の刑罰を受け十字架で死んでくださいました。このイエス様の愛が分からない私たちは、自分自身のことばかり求めるのです。主の愛を知る時、心から神を畏れるモーセのような歩み、信仰へと私たちも導かれていくのです。

 「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(Ⅰヨハネ4:8)」

今日のメッセージ 『人とは何者なのか』 2025年5月18日

 牧師 栗原延元

〔詩篇8:3~9、144:1~4〕

 今日はダビデのため息から漏れ出たような信仰告白を見ていきたいと思います。

 彼は夜空に輝く月や星を眺めながら〈人とは何者なのか〉と呟き、詩を作ります。それは神によって天地が造られていることを信じる信仰から生み出されているのです。

 「あなた(神)の指のわざである天を見、あなたの整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(詩篇8:3~4)

 一方でダビデは自分の生涯を省みるとき主なる神は、私を守る「盾」であり、私の身の避け所であることを思いながら、人とは何者なのかと呟くのでした。「主よ。人とは何者なのでしょう。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです」(詩篇144:3~4)としながらも、虚無感に陥ることなく神を賛美するのです。〈ほむべきかな。わが岩である主。〉と。それは〈あなた(神)は、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉の冠をかぶらせられました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、〉と、人の使命が何であるかを知っているからでした。「何のために人は生きるのか」人生の真のゴールに向かって歩んでいたからです。神の栄光のために生きる人生は、何と幸いなのか、八十路をむかえた私の呟きです。

今日のメッセージ 『あなたの目は何を見たか』 2025年5月11日

 牧師 高橋勝義

〔民数記13章1~33節〕

 約束の地カナンを目前にしたパランの荒野で、主はモーセに、イスラエル十二部族の族長12人をカナンへ偵察に遣わすように命じられました。四十日後、偵察隊が戻ると、彼らはモーセに、「あなたがお遣わしになった地は確かに乳と蜜が流れています。これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、アナク(巨人)の子孫を見ました。」と報告しました。その時、カレブがモーセの前で、不安でざわつく民を静めて、「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」と言いましたが、他の偵察隊の族長たちは「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」と悪く言いふらしました。その地の人々は、背が高く、自分たちはバッタのように見えるだろうと思ってしまったからでした。しかし、これは事実ではありません。彼らは不安と恐れに支配され、神がどのように自分たちを導いて来られたのか、その御業をすっかり忘れ、神を信じる信仰が働かなかったのです。

 同様に、私たちも様々な問題や困難に遭う時、まだ何も起こっていないのに、あれこれ考え、先を思い煩ってしまいます。曇りメガネでは、ぼやけて何も見えないように、問題や苦難にばかりに気を取られ、神のご支配の中にいることを見失ってしまいます。イエス様は、ご自身に助けを求めて来た人たちに「あなたの信仰があなたを救ったのです」(ルカ18:42)と語っています。あなたは、様々な問題や困難の先に何を見ていますか。ここが信仰の分岐点です。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」

今日のメッセージ 『妬みからの解放』 2025年5月4日

 牧師 高橋勝義

〔民数記12章1~16節〕

 モーセは地の上のだれにもまさって柔和であり忠実な者でした。ところが、姉ミリアムと兄アロンは、弟モーセがクシュ人の女を妻としていることで彼を非難したのです。それは、主がモーセとだけ話すことを妬み、弟が特別扱いされることに不満があったからです。主はアロンとミリアムを呼び、二人は叱責されました。そして主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、ミリアムの皮膚はツァラアトに冒され、雪のようになったのです。アロンは、あわてて弟モーセに助けを求め、モーセは「神よ、どうか彼女を癒やしてください」と主に叫びました。神は、「彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後で彼女は戻ることができる。」と語られ、この間、民は旅立ちませんでした。

 アロンやミリアムの行動は、他人事ではありません。私たちの心も、些細なことで妬み、次第にそれが膨らみ、憎悪となり、苦しみます。「穏やかな心は、からだのいのち。ねたみは骨をむしばむ。(箴言14:30)」とある通りです。神は、私たちの心をよく知っておられるからこそ、イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。それゆえ、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(マルコ2:17)」と語るのです。ところが、私たちは自分が病人であり、罪人であることを受け入れないため、病状は悪化するばかりです。

 では、どうすればよいのでしょうか。キリストを罪からの救い主と信じるなら「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)とのみことばの約束が、あなたの身に起こり、そこから解放されるのです。