今日のメッセージ 『神の約束は変わらない』 2025年6月8日

 牧師 高橋勝義

〔民数記15章1~31節〕

 神は、民の不信仰のゆえに約束の地から向きを変えて、葦の道を通って荒野に旅立つように命じました。同時に神は、40年間荒野をさまよった後、新しい世代が約束の地に入ったならば、特別な誓願・進んで献げるもの・穀物のささげ物・全焼のささげ物・食物のささげ物・注ぎのささげ物、そして例祭を守るように命じられたのです。

 約束の地を目前にしながら、不信仰と不従順の罰を、荒野で刈り取らなければならない民にとっては、辛い宣告、命令ですが、約束の地へ導くという神の約束は変わることがなく、こどもたちが約束の地に導かれることは、大きな慰めと希望になったことでしょう。同時に、これは自分たちが神の民であることを再認識し、自覚するためでもあったのです。

 聖書には「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)」とあるように、自らの歩みに対する責任を負わなければなりません。神は、愛なるお方ですから、私たちを訓練し、私たちの内にある不純物(不信仰)を取り除き、救いを失うことのないように守っておられるのです。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」(へブル12:5,6)と語られているとおりです。訓練や試練は、決して、嬉しくありませんが、神があなたを愛されている証拠なのです。

 子を省みない親がいるでしょうか。自分が神の子どもとされている恵みを、もっと深く自覚して歩んでいきましょう。神は、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださる愛のお方だからです。(Ⅰコリント10:13)

今日のメッセージ 『主の前に出られる喜び』 2025年6月1日

 牧師 高橋勝義

〔民数記14章26~45節〕

 約束の地を目の前にしながら、イスラエルの民は、神から「明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け」と命じられてしまいました。神は、偵察した四十日の一日を一年と数えて、四十年間荒野で不従順の罪を償い、さらにカレブとヨシュア以外の主に逆らった大人たちはこの荒野で死ぬ、と厳しい宣告をされたのです。そして民の不安をあおった十人の偵察者たちは疫病で死にました。その翌朝、神からの厳しい宣告を聞いた民は急ぎ約束の地に入って行きますが、時すでに遅く、敵に追い散らされてしまいます。この時、民のなすべきことは、神の前に出て、正直に自分たちの罪を認め、厳しい宣告を受けたのはどこに問題があったのかを教えていただき、悔い改めることだったのです。

 しかし、この姿は私たちの姿でもあります。自らの過ちを認める前に、でも…とか、誰もがやっている…とか弁解したり、様々な理由を付けて自分を正当化しようとします。

 聖書に「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません(ルカ8:17)」とあるように神はすべてを御存じです。自分の非を認めることは勇気のいることですが、キリストが十字架の上で私たちの罪のために流された血潮のゆえに「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない(イザヤ43:25)」と神は語っておられます。

 ですから、私たちも彼らと同じ過ちを繰り返さないために、恐れることなく「さあ、来たれ。論じ合おう。~たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。~ (イザヤ1:18)」と招いてくださる主の前に正直に出て行けるのです。

今日のメッセージ 『神を畏れる心』 2025年5月25日

 牧師 高橋勝義

〔民数記14章1~25節〕

 全会衆は、偵察隊の悪い報告を聞き、泣き明かし、エジプトに帰ろうと言いだしました。モーセとアロンは、会衆の前でひれ伏し、民の反逆を自分たちの罪として祈りました。その時、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、主に背いてはならない、主がおられるのだからと進言しますが、全会衆はその二人を石で打ち殺そうとします。すると主は、不従順な民のためにひれ伏すモーセに「わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。」と言われたのです。しかしモーセは、もし、主があなたの民を一人残らず殺すなら、『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と主の御名が異邦の民に侮られてしまうと訴えました。そのとりなしを聞かれた主は民を赦し、「明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け」と命じたのです。

 聖書には「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません(ピリピ2:21)」とありますが、これが生まれながらの私たちの姿なのです。にもかかわらず、神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と語ります。あなたはかけがえのない存在なのです。それゆえ、イエス様は「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11)」と語られたとおり、私のすべての罪を身代わりに負い、罪の刑罰を受け十字架で死んでくださいました。このイエス様の愛が分からない私たちは、自分自身のことばかり求めるのです。主の愛を知る時、心から神を畏れるモーセのような歩み、信仰へと私たちも導かれていくのです。

 「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(Ⅰヨハネ4:8)」

今日のメッセージ 『人とは何者なのか』 2025年5月18日

 牧師 栗原延元

〔詩篇8:3~9、144:1~4〕

 今日はダビデのため息から漏れ出たような信仰告白を見ていきたいと思います。

 彼は夜空に輝く月や星を眺めながら〈人とは何者なのか〉と呟き、詩を作ります。それは神によって天地が造られていることを信じる信仰から生み出されているのです。

 「あなた(神)の指のわざである天を見、あなたの整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(詩篇8:3~4)

 一方でダビデは自分の生涯を省みるとき主なる神は、私を守る「盾」であり、私の身の避け所であることを思いながら、人とは何者なのかと呟くのでした。「主よ。人とは何者なのでしょう。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです」(詩篇144:3~4)としながらも、虚無感に陥ることなく神を賛美するのです。〈ほむべきかな。わが岩である主。〉と。それは〈あなた(神)は、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉の冠をかぶらせられました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、〉と、人の使命が何であるかを知っているからでした。「何のために人は生きるのか」人生の真のゴールに向かって歩んでいたからです。神の栄光のために生きる人生は、何と幸いなのか、八十路をむかえた私の呟きです。

今日のメッセージ 『あなたの目は何を見たか』 2025年5月11日

 牧師 高橋勝義

〔民数記13章1~33節〕

 約束の地カナンを目前にしたパランの荒野で、主はモーセに、イスラエル十二部族の族長12人をカナンへ偵察に遣わすように命じられました。四十日後、偵察隊が戻ると、彼らはモーセに、「あなたがお遣わしになった地は確かに乳と蜜が流れています。これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、アナク(巨人)の子孫を見ました。」と報告しました。その時、カレブがモーセの前で、不安でざわつく民を静めて、「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」と言いましたが、他の偵察隊の族長たちは「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」と悪く言いふらしました。その地の人々は、背が高く、自分たちはバッタのように見えるだろうと思ってしまったからでした。しかし、これは事実ではありません。彼らは不安と恐れに支配され、神がどのように自分たちを導いて来られたのか、その御業をすっかり忘れ、神を信じる信仰が働かなかったのです。

 同様に、私たちも様々な問題や困難に遭う時、まだ何も起こっていないのに、あれこれ考え、先を思い煩ってしまいます。曇りメガネでは、ぼやけて何も見えないように、問題や苦難にばかりに気を取られ、神のご支配の中にいることを見失ってしまいます。イエス様は、ご自身に助けを求めて来た人たちに「あなたの信仰があなたを救ったのです」(ルカ18:42)と語っています。あなたは、様々な問題や困難の先に何を見ていますか。ここが信仰の分岐点です。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」

今日のメッセージ 『妬みからの解放』 2025年5月4日

 牧師 高橋勝義

〔民数記12章1~16節〕

 モーセは地の上のだれにもまさって柔和であり忠実な者でした。ところが、姉ミリアムと兄アロンは、弟モーセがクシュ人の女を妻としていることで彼を非難したのです。それは、主がモーセとだけ話すことを妬み、弟が特別扱いされることに不満があったからです。主はアロンとミリアムを呼び、二人は叱責されました。そして主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、ミリアムの皮膚はツァラアトに冒され、雪のようになったのです。アロンは、あわてて弟モーセに助けを求め、モーセは「神よ、どうか彼女を癒やしてください」と主に叫びました。神は、「彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後で彼女は戻ることができる。」と語られ、この間、民は旅立ちませんでした。

 アロンやミリアムの行動は、他人事ではありません。私たちの心も、些細なことで妬み、次第にそれが膨らみ、憎悪となり、苦しみます。「穏やかな心は、からだのいのち。ねたみは骨をむしばむ。(箴言14:30)」とある通りです。神は、私たちの心をよく知っておられるからこそ、イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。それゆえ、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(マルコ2:17)」と語るのです。ところが、私たちは自分が病人であり、罪人であることを受け入れないため、病状は悪化するばかりです。

 では、どうすればよいのでしょうか。キリストを罪からの救い主と信じるなら「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)とのみことばの約束が、あなたの身に起こり、そこから解放されるのです。

今日のメッセージ 『神の恵みを数えて感謝する』 2025年4月27日

 牧師 高橋勝義

〔民数記11章31~35節〕

 『ああ、肉が食べたい。エジプトは良かった。』と不平を言う民に、神は「嫌というほど肉を食べさせる」と言われました。しかしモーセは、「この多くの民にどのようにして肉を用意するのですか」と問います。すると、神は、「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」と答えられました。そして、海の向こうから吹く東風に乗り、うずらが飛んできて宿営の近くに落下し、なんと宿営の周囲約一日の道のりに高さ約88㎝ほどにびっしり敷き詰めたようになりました。しかし、民は肉が与えられたことに感謝せず、また朝ごとにマナを与えてくださる神様であることも忘れ、先を心配し、自分たちの知恵に頼り、うずらの肉を干して保存食にしたのです。

 神はご自身を信じようとしない民のこの行動に怒り、民を疫病で打たれたのです。

 「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。(伝道者の書5:10)」とあるように、私たちの貪欲は尽きません。私たちもイスラエルの民と同じなのです。それゆえ、イエス様は、私たちに「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と語っています。

 頭では分かっていても、どうしても日々の生活のことや先のことなどが気がかりになってしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな(詩篇103:2)」とあるように、神の恵みを数えるとき、今まで気づかなかった神の恵みを知り、神への信仰、そして感謝が生まれてくるのではないでしょうか。 「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)

今日のメッセージ 『キリストの死とよみがえり』 2025年4月20日

 牧師 高橋勝義

〔使徒の働き17章21~34節〕

 使徒パウロは、アテネの町の人々が宗教熱心で様々な神を祀り、その中に「知られていない神に」という祭壇があるのを見つけました。そこで彼は「あなた方が知らずに拝んでいる方のことを教えましょう。天地を造られたまことの神は、手で造られた宮には住まず、また神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。今神は、すべての人にまことの神に立ち返るように命じておられます。神がお立てになった一人の方(イエス・キリスト)が、この世界に正しいさばきを行う日が決まっているからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、動かぬ証拠とされたのです。」と語りました。しかし、アテネの人々はあざ笑い取り合わなかったのです。

 死者の復活は、人々にとってたわごとに聞こえるかもしれません。けれども、キリストのよみがえりを目撃した弟子たちは、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒の働き2:32)」と語るのです。事実、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と語られた通り、ご自身がよみがえられたことによって、ご自身を信じるすべての人が復活することを保証されたのです。キリストが死なれたのは、私たちの罪の身代わりになられたからであり、キリストがよみがえられたのは、罪の贖いを成し遂げ、私たちを罪から救うためです。(ローマ4:23~25)。それゆえ、私たちの国籍は天にあるのです(ピリピ3:20)。

 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ10:9)

今日のメッセージ 『主にあって共に苦しみ喜ぶ』 2025年4月13日

 牧師 高橋勝義

〔民数記11章1~30節〕

 約束の地へ出発したイスラエルは主に激しい不平を言い始め、主の怒りの火が宿営の端をなめ尽く事態が起こります。民はモーセに叫び、彼が主に祈ると、ようやく火は消えました。

 ところが、しばらくすると、今度は食べ物のことで「肉が食べたい、魚、きゅうり、すいか…今はマナだけしかない」と言い始め、またしても主の怒りが激しく燃え上がったのです。このことは、モーセにとって辛く、彼は主に「私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」と訴えました。神はこれを聞き、民の長老七十人を集めさせ、モーセの仕事を手伝えるように、モーセの上にある霊の力の一部を取り分け、その七十人の長老たちに与えられたのです。

 聖書は、教会をキリストの体にたとえ、クリスチャンはそれを構成する各部分だと教えています(Ⅰコリント12:27)。神がモーセの霊を長老たちに分け与えられたように、御霊はキリストのからだなる教会を建て上げるために、主を信じる一人ひとりに賜物をくださっています(Ⅰコリント12:11)。奉仕や働きは様々ですが、その仕える相手は主であり、神がすべての働きをなさる(Ⅰコリント12:5,6)故に、私たちに与えられた賜物に優劣はありません。

 教会(クリスチャンの集まり)は一つの部分(ひとり)が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリント12:26)。ですから、日々、十字架を見上げながら歩むことが肝心です。
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」