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〔民数記11章1~30節〕
約束の地へ出発したイスラエルは主に激しい不平を言い始め、主の怒りの火が宿営の端をなめ尽く事態が起こります。民はモーセに叫び、彼が主に祈ると、ようやく火は消えました。
ところが、しばらくすると、今度は食べ物のことで「肉が食べたい、魚、きゅうり、すいか…今はマナだけしかない」と言い始め、またしても主の怒りが激しく燃え上がったのです。このことは、モーセにとって辛く、彼は主に「私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」と訴えました。神はこれを聞き、民の長老七十人を集めさせ、モーセの仕事を手伝えるように、モーセの上にある霊の力の一部を取り分け、その七十人の長老たちに与えられたのです。
聖書は、教会をキリストの体にたとえ、クリスチャンはそれを構成する各部分だと教えています(Ⅰコリント12:27)。神がモーセの霊を長老たちに分け与えられたように、御霊はキリストのからだなる教会を建て上げるために、主を信じる一人ひとりに賜物をくださっています(Ⅰコリント12:11)。奉仕や働きは様々ですが、その仕える相手は主であり、神がすべての働きをなさる(Ⅰコリント12:5,6)故に、私たちに与えられた賜物に優劣はありません。
教会(クリスチャンの集まり)は一つの部分(ひとり)が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリント12:26)。ですから、日々、十字架を見上げながら歩むことが肝心です。
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」