今日のメッセージ 『あなたの道を主にゆだね、主に信頼せよ』 2025年8月10日

 牧師 高橋勝義

〔民数記20章14~21節〕

 カデシュから約束の地に入ることは神の御心ではないと知っていたモーセは、ヨルダン川の東から入るために、エドムの王に領地を通過させてくださいとお願いしました。しかし、エドムの王は、「私のところを通ってはならない。通るなら、私は剣をもっておまえを迎え撃つ。」と語り、強力な大軍勢を率いて出て来たのです。イスラエルは、やむなく向きを変えることになったのですが、エドムの先祖は父祖ヤコブの双子の兄であり、神は同族エドムとの争いを避けるために、あえてイスラエルに遠回りの道を行かせたのです。

 ことわざには「急がば回れ」とありますが、神は意味もなくイスラエルを遠回りの道に導いたのではなく、深いご計画があってのことでした。聖書も「争いを避けることは人の誉れ。愚か者はみな、争いを引き起こす。(箴言20:3)」と語ります。

 「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない(哀歌3:33)」とあるように、すべてを御支配しておられる神は、私たち一人一人の歩みを責任をもって導いてくださるお方です。ですから、たとえ、私たちの目には、一見、不利に見えても、すべてのことがともに働いて益となさる神を信じて歩むことが大事なのです(ローマ8:28)。なぜなら、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37:5)」との約束があるからです。しかし私たちは、様々な困難や苦難に出会うと、すべてが神の御支配の中にあることを信じる信仰が働かず、この世の知識や知恵、これまで歩んできた自分の経験を頼りにしてしまいます。

 それゆえ神は、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。(箴言3:5)」と私たちに愛の警告をしているのです。

今日のメッセージ 『神のみことばを信じて生きる』 2025年8月3日

 牧師 高橋勝義

〔民数記20章1~13節〕

 イスラエルの民はツィンの荒野に着き、カデシュで宿営しますが、そこには水がなく、またもや民は抗議に押しかけました。モーセとアロンは集会の前から、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏しました。すると、神はモーセに、「(アロンの)杖を取れ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」と告げたのです。けれども、モーセは杖で岩を二度打ってしまったのです。モーセが神の命に従わなかったにもかかわらず、岩からは豊かな水が湧き出て、会衆も家畜もその水を飲みました。

 しかし神は、モーセとアロンに、「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会(民)を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」と言われたのです。

 モーセは神の杖を用いて、数多くの御業を行ってきました。しかし、民の度重なる不平への怒りと「ことば」だけで岩から水を出すことへの不安から、目で見て分かるように杖で岩を二度打ってしまいました。それでも、神は、岩から水を出し、民のリ-ダーであるモーセを守られました。私はここで、百人隊長のしもべが病になり、イエス様に癒しをお願いした出来事を思い出しました。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。(マタイ8:8)」という百人隊長に対して、イエス様は驚かれ、「わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません(マタイ8:10)」と人々に語りました。

 神は天地万物を、ことばをもって創造されたお方です。私たちも神のみことばをひたむきに信じる信仰に生きる歩みをしましょう(へブル11:6)。

今日のメッセージ 『キリストの血はすべての罪をみよめる』 2025年7月27日

 牧師 高橋勝義

〔民数記19章1~22節〕

 ここで神が、汚れた身をきよめるための水の作り方について指示をされたのは、神へのいけにえをささげるために選ばれた祭司たちに「親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない(レビ21:1)」と命じていたからでした。しかし、どのようにして汚れた身をきよめるのかについては、レビ記では具体的に示されていませんでした。

 きよめの水は、まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な赤い雌牛を屠り、祭司がその雌牛を焼いた灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、汚れを除く水を作る。死の汚れは罪の汚れであるため、赤い雌牛が身代わりとなって、主の前に罪を負って流す血のゆえに、その灰水(あく)が汚れ(罪)をきよめるのです。

 バプテスマのヨハネは、イエス様が来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」と言いました。またペテロは、「キリストは罪を犯したことがない(Ⅰペテロ2:22)」と証言しています。ですから「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」とある通り、イエス・キリスト以外に私たちの罪をきよめることはできません。キリストが十字架で流された血潮によって、私たちの罪は赦されますが、罪がなくなるわけではありません。相変わらず罪を犯す自分がいます。

 このことをしっかりと受けとめ、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます(Ⅰヨハネ1:9)」と約束されているように、私たちは、神の前に、日々罪を認め、きよめていただかなければならないのです。

今日のメッセージ 『しもべになることの幸い』 2025年7月20日

 牧師 高橋勝義

〔民数記18章21~32節〕

 祭司アロンの家系がそうであるように、レビ族の民は約束の地に相続地を持つことができません。それゆえに、神はレビ人に対して、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕への報いとして、イスラエルの民が主に献げた奉納物の十分の一を与えると定めました。そして、レビ人はその受け取った奉納物の中から十分の一を、主への奉納物として献げなさい、と命じられました。こうして、神は、祭司とレビ人の任務を明確にすることによって、イスラエルの民に、幕屋に関する奉仕の尊さと重要性を教えられたのです。

 事の発端は、コラたちによるモーセとアロンへの非難でした。アロンとコラは同じレビ人ですが、幕屋に関わる奉仕には大きな違いがありました。アロンは幕屋全体に責任を持ち、それを助けるのがレビ人です。お互いの協力なくして幕屋の奉仕を全うすることはできません。

 ですから、聖書に「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」とあるように、お互いの働きを尊重し、主に仕える心をもって奉仕することが大切なのです。しかし、私たちは人を外見で判断し、相手が自分より「上」か「下」かを見極めようとします。人間は、どこまでも自分中心の罪人なのです。それゆえ、イエス様は「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい(マタイ20:26)」と語られたのです。

 ところで、あなたは、人からの評価が気になるでしょうか。それとも、神の評価でしょうか。聖書は、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:10)」と私たちに語っています。

今日のメッセージ 『いつまでも変わらない神の契約』 2025年7月13日

 牧師 高橋勝義

〔民数記18章1~20節〕

 神は、モーセとアロンに逆らったコラがレビ人であったため、祭司職とレビ人の務めを明確にされました。祭司は幕屋全体の奉仕を行いますが、そのためのレビ人の助けが必要です。また、聖なる用具と祭壇に関する奉仕は、アロンの子孫である祭司のみが行い、レビ人であっても、近づいてはならないと命じられました。祭司は、約束の地で相続地を持つことが許されていないため、神はイスラエルの子らが主に献げる聖なる奉納物を報酬としてすべてアロンの子孫たちに与えて、永遠の割り当てにされました。これは、アロンとアロンの子孫への「永遠の塩の契約」となったのです。塩は「契約が完全な約束」であることを示し、「永遠の塩の契約」とは「いつまでも変らない神の契約」を表しているのです。

 モーセは、民が主の教えに聞き従います、と誓ったことを受け、動物の血を取って、民に振りかけ「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。(出エジプト24:8)」と語りました。今、私たちは、旧約の時代のように動物の血を必要としません。イエス様が、十字架の上で流された血潮によって、私たちのすべての罪の贖いをなされたからです。この罪の贖いはキリストを罪からの救い主と信じる者に、罪の赦し、永遠のいのちを与えます。イエス様ご自身が「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です(マタイ26:28)」と語られたように、十字架で流された血潮は、あなたの罪のために流された契約の血であることをしっかりと受け取りましょう。

 これらすべては、神の賜物(プレゼント)であり、福音は信じる私たちにとって、すべての人に救いをもたらす神の力なのです(ローマ1:16)。

今日のメッセージ 『キリストのとりなし』 2025年7月6日

 高橋勝義

〔民数記17章1~13節〕

 コラの反逆と全会衆のモーセとアロンへの批判に対する神罰が、アロンの宥めにより収まった後、主は族長たちに、自分の名を書き記した十二本の杖を持って来るように命じました。レビの杖にはアロンの名を書き記すように命じ、それらを会見の天幕の契約の箱の前に置くように語りました。主が「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す」語った通り、その翌日、モーセがあかしの天幕に入って行くと、アロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいたのです。この事実により、神がアロンを選ばれていることが明らかになり、神はアロンの祭司職を守り、不平を鎮めました。これによって、神は、民が二度と同じ過ちを犯さないようにと願われたのです。

 私たちは、神の愛と恵みにより、キリストを救い主と信じる信仰によって、神の子どもとされました(ヨハネ1:12)。それゆえ、パウロは、神の子どもとして召されていることを自覚し、その召しにふさわしく歩むようにと勧めます(エペソ4:1)。しかし、自分の歩みを振り返るならば、とても神の子どもにはほど遠いことを認めざるを得ません。すると、私たちの心の中に「こんな自分は本当に救われているのだろうか」と否定的な思いが湧いてきます。

 これは信仰の歩みの中で、必ず経験する葛藤です。神がアロンを弁護されたように、よみがえられたキリストは、神の右の座に着き、私たちのために、とりなしておられるのです(ローマ8:33,34)。これは、私たちにとって大きな慰めであり励ましです。

 ですから、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい(へブル12:2)」とあるように、日々、十字架を見上げて歩んで行きましょう。

今日のメッセージ 『主のある労苦は無駄ではない』 2025年6月29日

 牧師 高橋勝義

〔民数記16章36~50節〕

 コラに属する者はみな、ことごとく地に吞み込まれ、また香を献げていた二百五十人は焼き尽くされてしまいました。このありさまを見ていたイスラエルの全会衆は、翌日、モーセとアロンに向かって「あなたがたは主の民を殺した」と詰め寄りました。そのとき主の栄光が現れ、主はモーセに「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」と告げ、主の裁きが始まったのです。この主の罰で、一万四千七百人が死にました。約束の地に入れないことへの失望、さらに荒野で40年過ごさなければならないことへの不安と恐れがイスラエルの全会衆にそうさせたのでしょう。

 私たちも先行きが見えず、将来に希望が持てないとき、やり場のない思いを何かにぶつけたくなります。しかし、イエス様は、「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(マタイ6:34)」と語られましたが、自分はどこに向かって歩んでいるのかがはっきりしているならば、たとえ目の前に様々な困難や問題がおこったとしても、その問題は神様におゆだねして、前に向かって歩めます。今起こっているすべての事は神のご支配の中にあること、また神がともにおられることを信じる信仰が鍵であり重要なのです。

 イエス様は天に帰られる時、私たちに「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます(ヨハネ14:3)」と約束されました。天ではあなたのあらゆる労苦をご存知の主が、あなたの涙をことごとくぬぐい取ってくださいます(黙示録21:4)。

 ですから、主を仰ぎ見つつ歩んで行きましょう。(Ⅰコリント15:58)

今日のメッセージ 『神の前に襟を正す』 2025年6月22日

 牧師 高橋勝義

〔民数記16章1~35節〕

 約束の地を目前にしながらもイスラエルは不信仰の結果、神の怒りを招きますが、モーセのとりなしで荒野で四十年を過ごすこととなりました。そのような中、レビ族のコラとルベン族のダタンとアビラムおよびオンは、族長や名のある者たち二百五十人と共謀し、モーセとアロンに、「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか」と言いがかりをつけたのです。これを聞いたモーセは、御前にひれ伏し、コラとそのすべての仲間に、「火皿を取り、明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」と告げました。そして神は、コラに属するすべての者の足もとの地面を割き、彼らは地中に、また、香を献げていた二百五十人も焼き尽くしました。彼らは指導権を握ろうとしたのですが、しかし、これは神の主権に立ち入るという大きな罪を犯したのです。

 聖書は「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。(ローマ13:1)」と語りますが、世の中は理不尽だらけで日々葛藤の連続です。しかし、「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル4:13)」と語られているとおり、「神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる(ヨブ34:11)」お方です。

 ですから、私たちも主の御前に自らの襟を正して、日々忠実に歩んで行きましょう。

今日のメッセージ 『聖霊に導かれる歩み』 2025年6月15日

 牧師 高橋勝義

〔民数記15章32~41節〕

 神はイスラエルの民に十戒の中で、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。(出エジプト20:8,10)」と命じました。ところが民が荒野にいた時、安息日に薪を集めている男が見つかったのです。神はモーセに「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」言われ、主の戒めを破った彼は宿営の外で処刑されました。続いて神は、モーセをとおして人々に、衣服の裾の四隅に房を作り、そこに青いひもを付けるように命じられました。それは、その房を見ることによって、エジプトから救い出してくださった主のすべての命令を思い起こし、それに従うためでした。

 確かに、青いひもは罪を抑制させるでしょう。しかし、イエス様は「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)」と語られ、行動だけではなく、罪の本質は心の中にあることを指摘されたのです。そして、「口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです(マタイ15:18,19)」と語られたのです。

 パウロは、「今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです(ローマ7:17)」と正直に告白しています。この私たちの心に住む罪を解決するために、神のひとり子イエス・キリストは来られ、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、そして、三日目によみがえられたのです。イエス様が、助け主(聖霊)を送ると約束されたように、イエス様を罪からの救い主と信じる者の内には聖霊が住んでくださるのです。この、聖霊によって歩むならば、私たちは罪の力から離れることができるのです。(ガラテヤ5:16)