高橋勝義 |
〔民数記17章1~13節〕
コラの反逆と全会衆のモーセとアロンへの批判に対する神罰が、アロンの宥めにより収まった後、主は族長たちに、自分の名を書き記した十二本の杖を持って来るように命じました。レビの杖にはアロンの名を書き記すように命じ、それらを会見の天幕の契約の箱の前に置くように語りました。主が「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す」語った通り、その翌日、モーセがあかしの天幕に入って行くと、アロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいたのです。この事実により、神がアロンを選ばれていることが明らかになり、神はアロンの祭司職を守り、不平を鎮めました。これによって、神は、民が二度と同じ過ちを犯さないようにと願われたのです。
私たちは、神の愛と恵みにより、キリストを救い主と信じる信仰によって、神の子どもとされました(ヨハネ1:12)。それゆえ、パウロは、神の子どもとして召されていることを自覚し、その召しにふさわしく歩むようにと勧めます(エペソ4:1)。しかし、自分の歩みを振り返るならば、とても神の子どもにはほど遠いことを認めざるを得ません。すると、私たちの心の中に「こんな自分は本当に救われているのだろうか」と否定的な思いが湧いてきます。
これは信仰の歩みの中で、必ず経験する葛藤です。神がアロンを弁護されたように、よみがえられたキリストは、神の右の座に着き、私たちのために、とりなしておられるのです(ローマ8:33,34)。これは、私たちにとって大きな慰めであり励ましです。
ですから、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい(へブル12:2)」とあるように、日々、十字架を見上げて歩んで行きましょう。
高橋勝義