今日のメッセージ 『神の恵みを数えて感謝する』 2025年4月27日

 牧師 高橋勝義

〔民数記11章31~35節〕

 『ああ、肉が食べたい。エジプトは良かった。』と不平を言う民に、神は「嫌というほど肉を食べさせる」と言われました。しかしモーセは、「この多くの民にどのようにして肉を用意するのですか」と問います。すると、神は、「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」と答えられました。そして、海の向こうから吹く東風に乗り、うずらが飛んできて宿営の近くに落下し、なんと宿営の周囲約一日の道のりに高さ約88㎝ほどにびっしり敷き詰めたようになりました。しかし、民は肉が与えられたことに感謝せず、また朝ごとにマナを与えてくださる神様であることも忘れ、先を心配し、自分たちの知恵に頼り、うずらの肉を干して保存食にしたのです。

 神はご自身を信じようとしない民のこの行動に怒り、民を疫病で打たれたのです。

 「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。(伝道者の書5:10)」とあるように、私たちの貪欲は尽きません。私たちもイスラエルの民と同じなのです。それゆえ、イエス様は、私たちに「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と語っています。

 頭では分かっていても、どうしても日々の生活のことや先のことなどが気がかりになってしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな(詩篇103:2)」とあるように、神の恵みを数えるとき、今まで気づかなかった神の恵みを知り、神への信仰、そして感謝が生まれてくるのではないでしょうか。 「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)

今日のメッセージ 『キリストの死とよみがえり』 2025年4月20日

 牧師 高橋勝義

〔使徒の働き17章21~34節〕

 使徒パウロは、アテネの町の人々が宗教熱心で様々な神を祀り、その中に「知られていない神に」という祭壇があるのを見つけました。そこで彼は「あなた方が知らずに拝んでいる方のことを教えましょう。天地を造られたまことの神は、手で造られた宮には住まず、また神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。今神は、すべての人にまことの神に立ち返るように命じておられます。神がお立てになった一人の方(イエス・キリスト)が、この世界に正しいさばきを行う日が決まっているからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、動かぬ証拠とされたのです。」と語りました。しかし、アテネの人々はあざ笑い取り合わなかったのです。

 死者の復活は、人々にとってたわごとに聞こえるかもしれません。けれども、キリストのよみがえりを目撃した弟子たちは、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒の働き2:32)」と語るのです。事実、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と語られた通り、ご自身がよみがえられたことによって、ご自身を信じるすべての人が復活することを保証されたのです。キリストが死なれたのは、私たちの罪の身代わりになられたからであり、キリストがよみがえられたのは、罪の贖いを成し遂げ、私たちを罪から救うためです。(ローマ4:23~25)。それゆえ、私たちの国籍は天にあるのです(ピリピ3:20)。

 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ10:9)

今日のメッセージ 『主にあって共に苦しみ喜ぶ』 2025年4月13日

 牧師 高橋勝義

〔民数記11章1~30節〕

 約束の地へ出発したイスラエルは主に激しい不平を言い始め、主の怒りの火が宿営の端をなめ尽く事態が起こります。民はモーセに叫び、彼が主に祈ると、ようやく火は消えました。

 ところが、しばらくすると、今度は食べ物のことで「肉が食べたい、魚、きゅうり、すいか…今はマナだけしかない」と言い始め、またしても主の怒りが激しく燃え上がったのです。このことは、モーセにとって辛く、彼は主に「私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」と訴えました。神はこれを聞き、民の長老七十人を集めさせ、モーセの仕事を手伝えるように、モーセの上にある霊の力の一部を取り分け、その七十人の長老たちに与えられたのです。

 聖書は、教会をキリストの体にたとえ、クリスチャンはそれを構成する各部分だと教えています(Ⅰコリント12:27)。神がモーセの霊を長老たちに分け与えられたように、御霊はキリストのからだなる教会を建て上げるために、主を信じる一人ひとりに賜物をくださっています(Ⅰコリント12:11)。奉仕や働きは様々ですが、その仕える相手は主であり、神がすべての働きをなさる(Ⅰコリント12:5,6)故に、私たちに与えられた賜物に優劣はありません。

 教会(クリスチャンの集まり)は一つの部分(ひとり)が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリント12:26)。ですから、日々、十字架を見上げながら歩むことが肝心です。
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」

今日のメッセージ 『主を心にお迎えする祈り』 2025年4月6日

 牧師 高橋勝義

〔民数記10章29~36節〕

 モーセは、しゅうとの子ホバブに、一緒に神が与える約束の地に行きましょうと誘いますが、彼は私の親族のものに帰りますと答えます。しかし、モーセは、自分たちは荒野の地を知らないので、自分たちを助けてくれるように願います。こうしてイスラエルは彼らとともにシナイ山を出発し、三日の道のりを進みました。先頭を契約の箱が進み、その前にはいつも雲がありました。契約の箱が出発する時にはモーセは、「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」と大声で祈り、またそれがとどまるときには、「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」と祈りました。契約の箱は、民を導く神の臨在の象徴なのです。

 私たちも天の御国に向かって人生の荒野を旅する者ですが、荒野の旅で重要なことは、どんな時にも神がともにおられることを忘れてはいけないということです。そのために、契約の箱が神の臨在の象徴であったように、イエス様を救い主と信じる者の内には、聖霊なる神が内住され、聖霊の宮(Ⅰコリント6:19)とされているのです。けれども、これですべてが順風満帆になるわけではありません。なぜなら、悪魔が、吼えたける獅子のように、私たちを食い尽くそうと探し回っているからです(Ⅰペテロ5:8)。ですから、聖書は「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい(エペソ6:11)」と語るのです。

 私たちも日々の生活の中で、災いや困難に遭いうろたえるときには、何を差し置いてもモーセのように、私たちの人生に寄り添い伴走してくださる神様に向かって、正直に「神様、私の所に来てください。助けてください。」と祈りましょう。

今日のメッセージ 『信仰の従順』 2025年3月30日

 牧師 高橋勝義

〔民数記10章11~28節〕

 エジプトを出て二年、約束の地に出発する準備がすべて整い、その年の第二の月の二十日に雲があかしの幕屋の上から離れ上り、ラッパが吹き鳴らされました。イスラエルの子らはシナイの荒野を旅立ち、雲に導かれてパランの荒野に向かいました。民はすべてモーセを通して神が命じられたように、ユダ族を先頭に十二部族が軍団を先頭に出発したのです。

 神の御声に聞き従う歩みについて、預言者サムエルは、イスラエルの民に向かって「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)と語りました。それはイスラエルがいつのまにか形式主義に陥っていたからです。

 詩篇の作者は、「主に身を避けることは人に信頼するよりも良い(詩篇118:8)」と語っていますが、それは、多くの人がこの世の権力や地位、財産や知恵に頼れば、問題は解決できると思っているからです。しかし、詩篇の作者は、主に身を避ける、つまり、神に信頼するほうが遥かに勝っていると言っています。そのようにできないのは、自分が信じているお方のことがよく分かっていないからなのかもしれません。それゆえ、ペテロは、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。(Ⅰペテロ2:6)」と私たちに訴えます。

 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び(ヘブル5:8)、私たちにもその足跡に従うようにと、模範を残されました(Ⅰペテロ2:21)。

 私たちもみことばの約束を信じる信仰の従順を学ばせて頂きましょう。

今日のメッセージ 『みことばに根ざした歩み』 2025年3月23日

 牧師 高橋勝義

〔民数記10章1~10節〕

 約束の地に出発する準備の最後に、神はモーセに銀のラッパを二本作らせ、それを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりするように命じられました。ラッパが長く吹き鳴らされると、全会衆は会見の天幕の入り口の主のところに集まり、その一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちが集まる。また、侵略者との戦い、神が定められた例祭と新月の日、全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすとき、イスラエルは神がともにおられることを覚えたのでした。ラッパは、神のみこころを知り、神のご臨在の中にあることを覚えるとても重要な役割を担ったのです。

 では今を生きる私たちに、神はどのようにしてみこころを知らせてくださるのでしょうか。それは、「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます(詩篇119:130)」とあるように、私たちはみことばによって神のみこころを知るのです。ですから、聖書は神のみこころを知る人生の羅針盤であり、当時のラッパの役割をしているのです。

 ところが、イエス様を救い主と信じ、人生の主として心の王座に迎えたにもかかわらず、「彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。(ヘブル4:2)」と語られています。この世の思い煩いや、富の惑わしや欲望が入り込み、みことばに堅く立つことができなかったからです。

 これは、信仰者ならば誰もが経験する切実な問題です。イエス様は、神のみことばはすべて実現する(マタイ5:18)と語っています。ですから、神のみことばの約束に堅く立ち、聖霊の助けによって、様々な問題に勝利する歩みを目指しましょう。(⇒ヘブル11:6)

今日のメッセージ 『神の導きの中を歩む』 2025年3月16日

 牧師 高橋勝義

〔民数記9章15~23節〕

 いよいよ、イスラエルは、神がアブラハムに与えると約束された地に、いつでも、出発できる用意が整いました。そして、「いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。(民数記9:17,19,22)」とあるように、イスラエルはすべて神の命令に従って行動したのです。

 私たちは、今、ありとあらゆる情報を瞬時に手に入れることのできる社会の中で生き、また、いろいろなものを手に入れることができます。それゆえ、神の仰せに従って生きる歩みは、科学の進んでいない時代のことで、今の私たちには無関係だと思われがちです。

 しかし、本当にそうでしょうか。たくさんの情報は、逆に、私たちを混乱させます。ですから、聖書は「どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。(詩篇119:9)」と語っています。また、私たちの人生は、いろいろな労苦とわざわいの連続ですから、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。(伝道者の書7:14)」とあるように、私たちはすべて神の御支配の中に生きているのです。

 生けるまことの神は、私たちにこのように語りかけています。「わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである(箴言1:33)」

今日のメッセージ 『十字架を仰ぎ見よ』 2025年3月9日

 牧師 高橋勝義

〔民数記9章1~14節〕

 神は、エジプトからイスラエルを救い出すために、エジプトの地の長子は家畜もすべて打ち、門柱と鴨居に羊の血を塗ったイスラエルの家だけを過ぎ越されたのです。神は、これを過越の祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟とし(出エジプト12:14)、また「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ(出エジプト12:2」と命じられました。過越の祭りは、エジプトからの脱出を記念するとても重要な祭りなのです。

 エジプト脱出から2年の月日が流れるなか、神は一か月遅れとなる過越の祭りを行うように、イスラエルに告げられました。過越の祭りは、神の愛と恵み、そしてあわれみを覚え、自分たちがどのようにして救い出されたのか、常に立ち返るべき大事な原点なのです。同様にキリストを救い主と信じる私たちにも、大事な原点があります。それはパウロが語る「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3,4)」です。それは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と語られている通りです。

 ところが、パウロが宣べ伝えた福音とは違う異なる福音が語られていたのです。それゆえ、ペテロは「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」と宣言したのです。

 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です(Ⅰコリント1:18)」

今日のメッセージ 『正直な祈り』 2025年3月2日

 牧師 高橋勝義

〔民数記8章5~26節〕

 神は主の会見の天幕奉仕のためにレビ人をとりわけ、彼らをきよめるようにモーセに命じ、祭司アロンは彼らを奉献物として主の前に献げ、彼らのための宥めを行い、きよめました。こうして、レビ人は主の会見の天幕奉仕の任務に就き、民はレビ人の上に手を置き、彼らに神に仕える働きを託したのです。神はレビ人以外のイスラエルの子らは聖所に近づいてはならないと命じましたが、それは民にわざわいが及ぶことのないようにするためでした。

 聖書は、イエス様を罪からの救い主と信じる私たちは祭司としての務めを担う者として召されている(Ⅰペテロ2:9)と語ります。祭司の役目とは、人々の罪の贖いをすることですから、神は私たちにイエス・キリストによる罪の赦しを人々に伝えてほしいと願っておられるのです。また、神に仕える祭司がきよさを求められたように、祭司とされた私たちにもきよくあることを求めておられます。パウロは「あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(ローマ6:13)」と語ります。

 ですから、私たちは「だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。」(詩篇19:12)とあるように、日ごと神の前に出て正直に祈ることが大切なのです。そうすれば聖霊が罪を示し、悔い改めへと導き、私たちは主の十字架の血潮により、すべての罪からきよめられて(Ⅰヨハネ1:9)、祭司としての務めを果たせる者にさせていただけるのです。

 「神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください(詩篇51:10)」