牧師コラム 『安らぎと平安』 2017年10月8日

牧師 高橋勝義

 

 渡波の地に移り住んで、1年半が過ぎました。当初は、風の音に驚かされ、半島に向かうダンプの音も気になりましたが、今はすっかり慣れました。
 近くに生協・イオン・地元のスーパーあいのやがあり、生活の不便は感じません。
 震災から七年目に入り、街は、日ごとに変化しています。
 しかし、震災の傷跡は、簡単に消えるものではありません。
 人々の話を聞くたびに、安らぎと平安を与えることが出来るのは、天地万物を創られ、私たちを愛しておられるまことの神だけであると痛感します。
 私には、「神が愛なら、なぜ、このような悲劇が起こるのか」の問いに答えられません。
 イエス・キリストは、『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)』と命じられました。
 私たちを愛して下さったイエス・キリストの愛とは、どんな愛なのか。
私たちは、 私たちを創られた神から離れ、自己中心の歩みをしています。
 この罪のために、イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって、十字架で死なれました。
 ご自分のいのちを捨ててまで、私たちを罪から救おうとされたのです。
 これが、イエス・キリストの愛です。 このイエス・キリストの愛に、世界中の教会が、動かされ、被災された方々のために祈り、支援活動をさせて頂きました。
 また、アメリカの子どもたちが、自分のお小遣いの中から、被災地の為にと献金し、仙台福音自由教会に届けられました。
 この地の方々に、このイエス・キリストの愛をお伝えし、まことの神からくる安らぎと平安の中で人々が憩うことが出来ますように願っています。

牧師コラム 『預言者ヨナの祈り』 2017年10月1日

牧師 栗原延元

 

 ヨナ書2章は、預言者ヨナの祈りが詳しく書きしるされています。まずヨナはどこで祈ったかと言いますと、神殿でも、街角でも、自分の家の中でもなく、魚の腹の中からでした。大嵐の中、ヨナは海に投げこまれました。このとき〈主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませまた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた〉(ヨナ書117)とありますから、この魚の腹の中から祈ったのです。この魚はクジラのようです。クジラには胃袋がありませんから、胃液で溶かされなかったのでしょう。
 〈私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶとあなたは私の声を聞いてくださいました。〉(ヨナ書22)。ヨナは絶体絶命の中で主に祈るのです。ヨナの乗船した船が大嵐に遭遇し、水夫たちがそれぞれの神に祈っていたときには、ヨナは祈りませんでした。水がのどを締めつけ海草がヨナの頭にからみつき、いのち尽き果てるときになって、ヨナは祈るのです。それは、ヨナが主を思い出したからなのです。
 毎日の忙しさの中で人は、神を忘れがちになります。日々、神に祈ることの大切さをヨナから学びたいものです。

牧師コラム 『実を結ぶ人生』 2017年9月24日

牧師 高橋勝義

 ヘレン・ケラーは、「希望は、人を成功に導く信仰である。希望がなければ何事も成就しない。」と語ったそうです。
 では、成功に導く希望とは、何でしょうか。
 イエス・キリストは、種まきのたとえを話されました。
 道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、鳥が食べてしまいました。
 岩地に落ちた種は、芽を出すが、水分がないので枯れてしまいました。
 いばらの中に落ちた種は、いばらも一緒に芽を出すので、いばらにふさがれてしまいました。
 良い地に落ちた種は、百倍の実を結びました。
 このたとえは、何を教えようとしているのでしょうか。
 種とは、神の御言葉です。
 道端に落ちるとは、御言葉を聞きますが、自分の関心事に心が奪われてしまう人のことです。
 岩地に落ちるとは、試練や困難に会うと、すぐ手のひらを返し、いとも簡単に元の生活に戻る人のことです。
 いばらに落ちるとは、この世の心づかいや富や快楽を求めてしまう人のことです。
 良い地に落ちるとは、『正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(ルカ8:15)』。
 神の御言葉を信じたからと言って、何の問題もなく、すべて順風満帆に物事が運ぶわけではありません。もちろん、困難は、やってきます。
 しかし、イエス・キリストは、『わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)』と約束して下さっています。
 あなたは、決して一人ではありません。友であるイエス・キリストが、いつもあなたのかたわらにいて慰め・励まし・助けて下さるのです。
 イエス・キリストに信頼して歩むことが、実を結ぶ人生であり、希望なのです。

牧師コラム 『わたしをよけい愛したので』 2017年9月17日

牧師 高橋勝義

 人々から罪深い女と言われていたひとりの女が、パリサイ人シモンの食卓に着いているイエス・キリストの所に行き、泣きながら、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その御足に口づけして、高価な香油を塗りました。
 これを見ていたシモンは、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていました。イエス・キリストは、彼の思いを察し、たとえを話されます。
 そのたとえとは、「金貸しから五百デナリと五十デナリ借りている人がいました。金貸しは、彼らをかわいそうに思いふたりとも赦してやった。」という話です。
 一デナリは、当時の一日分の賃金に相当しますから、かなりの金額になります。
 イエス・キリストは、シモンに「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるか」と尋ねます。すぐに彼は「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエス・キリストは、「あなたの判断は当たっています」と言われました。
 シモンは、イエス・キリストを客として招きながら、実は、足を洗う水を用意せず、挨拶もしなかったのです。イエス・キリストは、この女の行為を、わたしをよけい愛したので『この女の多くの罪は赦されている』と宣言したのです。
 さらに、イエス・キリストは、罪深い女に『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(ルカ7:50)』と優しく語りました。
 罪深い女は、イエス・キリストならば、自分を救って下さると信じたので、高価な香油を惜しげもなく注ぐという大胆な行動へと導かれたのです。

2017年9月7日 バイパス東仮設支援 第169回

日 時:2017年9月7日(木)
場 所:バイパス東仮設
参加者:12人
奉仕者:仙台教会:8名  石巻教会:1名

 秋雨の降る朝、ワゴン車にいっぱい8人を乗せて仙台を出発しました。天候不順が続いたためか、体調を崩していた奉仕者も何人かいた中でしたので、主の守りを祈りました。
 
 今回のクラフトは、「きんちゃく」です。季節にふさわしいこげ茶色または深緑色の生地と同系色の葉っぱの模様の生地に、真っ白いレースを縫い付けて行くものです。そのレースは、このクラフト教室を始めてくださった米国福音自由教会から遣わされたキャサリン宣教師の置いて行ってくださったものだそうです。震災直後、支援のために被災地に入ってきてくださった宣教師の献身的な働きに改めて感謝しました。今回も4台のミシンを使うことができたので、ほとんどの方々が時間内に縫いあげてほっとされていました。

 コーヒーとお菓子で休憩していただいた後、チャペル・タイムを持ちました。
チャペル・タイムでは「父の涙」を作詞作曲し、自ら歌っている仙台出身のシンガーソングライター岩渕まことさんのあかしを読ませて頂きました。当時小学校1年生だった娘の亜希子ちゃんが脳腫瘍で闘病、手術後、1年余りで天国に召されて行ったときのお話しでした。愛娘が苦しんでいる姿の中に、父親である岩渕さんは、キリストの十字架の姿を見て、その時メロディーとことばがスーッと生まれ、「父の涙」の曲が出来たそうです。 
 「父の涙」は、支援で初めて歌う賛美でしたが、さびの部分の「十字架からあふれ流れる泉」では、特に大きな歌声が聞こえて来ました。こんな風に声を合わせて「父の涙」を賛美できることが本当に信じられませんでした。確かに神様が皆さんの心に働いてくださったことを確信する時でした。

 今回も皆様のご支援とお祈りに支えられて、この働きを続けることができ、心から感謝致します。クラフト教室に集い続けて、みことばに耳を傾けてくださっている方々の救いのために引き続きお祈りください。

  

牧師コラム 『笛を吹いても踊らない』 2017年9月10日

牧師 高橋勝義

 人々に罪の悔い改めを解き、ヨルダン川でバプテスマを授けていたバプテスマのヨハネは、国主ヘロデの罪を指摘した故に投獄されていました。
 ところが、パリサイ人や律法の専門家たちは、このヨハネを「パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』(ルカ7:33)」と非難していました。
 同様に、彼らは、イエス・キリストに対しても「食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』(ルカ7:34)」と言っていました。
 パリサイ人や律法の専門家たちは、イエス・キリストが語っていることを理解していなかったのではなく、うすうす気づいていました。分かっていたのです。
 しかし、彼らは、自分たちのプライドや地位・名誉を守ろうとする思いが強く、イエス・キリストの教えに素直に聞くことが出来なかったのです。
 イエス・キリストは、そんな彼らの姿を見て『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。(ルカ7:32)』と表現しました。彼らのどこに問題があったのでしょうか。
 それは、「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。』」(マタイ13:14)と記されている通りです。
 イエス・キリストは、『たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。(ヨハネ10:38)』と語りました。
 あなたを愛している神は、あなたのすべての罪をイエス・キリストに負わせ、十字架で処罰されたのです。そして、三日目によみがえり、死に勝利し、永遠のいのちを私たちに与えて下さったのです。
 わざとは、イエス・キリストの〔十字架の死〕と〔よみがえり〕です。

牧師コラム 『主の御顔を避けて』 2017年9月3日

 牧師 栗原延元

 預言者ヨナは、主なる神から使命(ミッション)を与えられます。その使命はヨナにとって好ましいものではありません。なぜならそれは隣国の大きな町ニネベを救うことになるからでした。
ニネベの町に行け!との使命を受けたとき〈ヨナは、主の御顔を避けて〉ニネベの町とは反対の方角に向かって行きます。ヨナ書1章には、「主の御顔を避けて」の文句が3度も繰り返されています。
 聖書を読んでいて興味深いのは、ヨナに限らず登場人物が主の御顔を避けようと悪戦苦闘している箇所に出会うことです。その内的苦悩を詩に結晶したのがダビデの賛歌、詩篇139です。今日の礼拝の中でこの箇所をヨナ書とともに学びます。
 ヨナは遠い昔の人物ですが現代の私たちにも、神は使命を与えておられます。その使命とは、まず心を尽くして、主なる神を愛すること。次に自分を愛するように隣人を愛することです。この愛を私たちに注いで下さるのが、イエス・キリストの福音なのです。〈なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。〉

牧師コラム 『つまずきの石』 2017年8月27日

 牧師 高橋勝義

 

 イエス・キリストは、『だれでもわたしにつまずかない者は幸いです(ルカ7:23)』と語りました。このつまずきとは、何でしょうか?
私たちの人生には、受験・就職・結婚・別れなど様々な転機が訪れ、どれも避けて通れません。これらは人生の節目なのですが、そこでつまずいてしまうこともあります。
 イエス・キリストは当時、人々の期待を一身に集めていました。
しかし、十字架の上で死んでしまったのです。すべてを捨ててイエス・キリストに従っていた弟子たちの落胆は、計り知れません。大きなつまずきを覚えたことでしょう。

 イエス・キリストがこの世に来られたのは、『多くの人のための、罪の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです(マルコ10:45)』と記されているとおりです。
 十字架は、私たちを罪から解放し、私たちを愛してやまない神と一緒に人生を歩む道を備えるためのものです。ですから、イエス・キリストは、十字架で死ぬためにこの世に来られたのです。イエス・キリストがこの世に来られた目的と当時の人々の期待とには、大きなずれがあったので、人々はイエス・キリストにつまずいたのです。
 さらに驚くべきことにその三日後、イエス・キリストは、よみがえりました。
 死んで墓に葬られた方がよみがえられた、という知らせは、当時の人々にも、今を生きる私たちにとっても、つまずきとなります。
 しかし、このキリストのよみがえりこそが、罪からの解放を与える希望なのです。
 弟子のパウロは、『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です(Ⅰコリント1:18)』と語っています。
 つまずきの石こそが、私たちに救いと神の力を与えるのです。