2017年9月7日 バイパス東仮設支援 第169回

日 時:2017年9月7日(木)
場 所:バイパス東仮設
参加者:12人
奉仕者:仙台教会:8名  石巻教会:1名

 秋雨の降る朝、ワゴン車にいっぱい8人を乗せて仙台を出発しました。天候不順が続いたためか、体調を崩していた奉仕者も何人かいた中でしたので、主の守りを祈りました。
 
 今回のクラフトは、「きんちゃく」です。季節にふさわしいこげ茶色または深緑色の生地と同系色の葉っぱの模様の生地に、真っ白いレースを縫い付けて行くものです。そのレースは、このクラフト教室を始めてくださった米国福音自由教会から遣わされたキャサリン宣教師の置いて行ってくださったものだそうです。震災直後、支援のために被災地に入ってきてくださった宣教師の献身的な働きに改めて感謝しました。今回も4台のミシンを使うことができたので、ほとんどの方々が時間内に縫いあげてほっとされていました。

 コーヒーとお菓子で休憩していただいた後、チャペル・タイムを持ちました。
チャペル・タイムでは「父の涙」を作詞作曲し、自ら歌っている仙台出身のシンガーソングライター岩渕まことさんのあかしを読ませて頂きました。当時小学校1年生だった娘の亜希子ちゃんが脳腫瘍で闘病、手術後、1年余りで天国に召されて行ったときのお話しでした。愛娘が苦しんでいる姿の中に、父親である岩渕さんは、キリストの十字架の姿を見て、その時メロディーとことばがスーッと生まれ、「父の涙」の曲が出来たそうです。 
 「父の涙」は、支援で初めて歌う賛美でしたが、さびの部分の「十字架からあふれ流れる泉」では、特に大きな歌声が聞こえて来ました。こんな風に声を合わせて「父の涙」を賛美できることが本当に信じられませんでした。確かに神様が皆さんの心に働いてくださったことを確信する時でした。

 今回も皆様のご支援とお祈りに支えられて、この働きを続けることができ、心から感謝致します。クラフト教室に集い続けて、みことばに耳を傾けてくださっている方々の救いのために引き続きお祈りください。

  

牧師コラム 『笛を吹いても踊らない』 2017年9月10日

牧師 高橋勝義

 人々に罪の悔い改めを解き、ヨルダン川でバプテスマを授けていたバプテスマのヨハネは、国主ヘロデの罪を指摘した故に投獄されていました。
 ところが、パリサイ人や律法の専門家たちは、このヨハネを「パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』(ルカ7:33)」と非難していました。
 同様に、彼らは、イエス・キリストに対しても「食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』(ルカ7:34)」と言っていました。
 パリサイ人や律法の専門家たちは、イエス・キリストが語っていることを理解していなかったのではなく、うすうす気づいていました。分かっていたのです。
 しかし、彼らは、自分たちのプライドや地位・名誉を守ろうとする思いが強く、イエス・キリストの教えに素直に聞くことが出来なかったのです。
 イエス・キリストは、そんな彼らの姿を見て『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。(ルカ7:32)』と表現しました。彼らのどこに問題があったのでしょうか。
 それは、「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。』」(マタイ13:14)と記されている通りです。
 イエス・キリストは、『たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。(ヨハネ10:38)』と語りました。
 あなたを愛している神は、あなたのすべての罪をイエス・キリストに負わせ、十字架で処罰されたのです。そして、三日目によみがえり、死に勝利し、永遠のいのちを私たちに与えて下さったのです。
 わざとは、イエス・キリストの〔十字架の死〕と〔よみがえり〕です。

牧師コラム 『主の御顔を避けて』 2017年9月3日

 牧師 栗原延元

 預言者ヨナは、主なる神から使命(ミッション)を与えられます。その使命はヨナにとって好ましいものではありません。なぜならそれは隣国の大きな町ニネベを救うことになるからでした。
ニネベの町に行け!との使命を受けたとき〈ヨナは、主の御顔を避けて〉ニネベの町とは反対の方角に向かって行きます。ヨナ書1章には、「主の御顔を避けて」の文句が3度も繰り返されています。
 聖書を読んでいて興味深いのは、ヨナに限らず登場人物が主の御顔を避けようと悪戦苦闘している箇所に出会うことです。その内的苦悩を詩に結晶したのがダビデの賛歌、詩篇139です。今日の礼拝の中でこの箇所をヨナ書とともに学びます。
 ヨナは遠い昔の人物ですが現代の私たちにも、神は使命を与えておられます。その使命とは、まず心を尽くして、主なる神を愛すること。次に自分を愛するように隣人を愛することです。この愛を私たちに注いで下さるのが、イエス・キリストの福音なのです。〈なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。〉

牧師コラム 『つまずきの石』 2017年8月27日

 牧師 高橋勝義

 

 イエス・キリストは、『だれでもわたしにつまずかない者は幸いです(ルカ7:23)』と語りました。このつまずきとは、何でしょうか?
私たちの人生には、受験・就職・結婚・別れなど様々な転機が訪れ、どれも避けて通れません。これらは人生の節目なのですが、そこでつまずいてしまうこともあります。
 イエス・キリストは当時、人々の期待を一身に集めていました。
しかし、十字架の上で死んでしまったのです。すべてを捨ててイエス・キリストに従っていた弟子たちの落胆は、計り知れません。大きなつまずきを覚えたことでしょう。

 イエス・キリストがこの世に来られたのは、『多くの人のための、罪の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです(マルコ10:45)』と記されているとおりです。
 十字架は、私たちを罪から解放し、私たちを愛してやまない神と一緒に人生を歩む道を備えるためのものです。ですから、イエス・キリストは、十字架で死ぬためにこの世に来られたのです。イエス・キリストがこの世に来られた目的と当時の人々の期待とには、大きなずれがあったので、人々はイエス・キリストにつまずいたのです。
 さらに驚くべきことにその三日後、イエス・キリストは、よみがえりました。
 死んで墓に葬られた方がよみがえられた、という知らせは、当時の人々にも、今を生きる私たちにとっても、つまずきとなります。
 しかし、このキリストのよみがえりこそが、罪からの解放を与える希望なのです。
 弟子のパウロは、『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です(Ⅰコリント1:18)』と語っています。
 つまずきの石こそが、私たちに救いと神の力を与えるのです。

牧師コラム 『泣かなくてもよい』 2017年8月20日

牧師 高橋勝義

 あるやもめのひとり息子が死んで、かつぎ出されたところに出会ったイエス・キリストは、その母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言い、亡くなった息子に『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われました。すると、その死人が起き上り、ものを言い始めたので、イエス・キリストは、彼を母親に返されたのです(ルカ7:1215)
 この時の状況を考えるならば、『泣かなくてもよい』の言葉は、無神経な言葉に聞こえますが、実は、イエス・キリストの『深いあわれみ』から出た言葉なのです。
 事実、イエス・キリストは、やもめの母親に、未来に繋がる希望を与えたのです。
 このやもめの母親に限らず、「羊飼いのいない羊」のようである私たちをイエス・キリストは深くあわれんでおられるのです。まことの神から離れて歩んでいる私たちには、罪によって死が必ずやって来ます(ローマ6:23)。その私たちを未来に繋がる希望へと導こうとされているのです。その希望とは、神の下さる賜物(プレゼント)であるイエス・キリストを信じることによって与えられる永遠のいのちなのです(ローマ6:23)
 この神のプレゼントは、神の愛と深いあわれみから出たものです。
 私たちに希望を与えて下さるお方、すなわち、イエス・キリストは、どんな時でも、どんな所でも、あなたと共に歩んでくださるお方です。
 そのお方が、あなたが悩み苦しんでいる時、辛く悲しい時、あなたのかたわらにいて、『泣かなくてもよい』と語っておられるのです。弟子のペテロは、『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼(イエス・キリスト)に信頼する者は、決して失望させられることがない。』(Ⅰペテロ2:6)」と書き記しています。
 この御言葉の約束が、あなたの未来に希望と力を与えるのです。

2017年7月20日 バイパス東仮設支援 第168回

日 時:2017年7月20日(木)
場 所:バイパス東仮設
参加者:15人
奉仕者:仙台教会:7名  石巻教会:1名

 青い空、白い雲、一面みどりの田んぼ。石巻稲井にも、夏がもうそこまで来ていることを告げていました。
 今日のクラフトは、「トイレットペーパー・ホルダー」です。
 小花の生地に、芯を張り、レースを縫いつけ、各パーツを組み合わせて仕上げて行きます。誰にプレゼントしようかな・・・皆さんそんな思いで頑張っておられるようでした。引越された新しい家にぴったりのもので、贈られた方もきっと喜んでくださることでしょう。
 今日は、特に、新品のミシンが2台、登場しました。今まではすべて手縫いでしたが、ミシンが使えるようになって、出来上がりの時間が一段と短縮されました。震災支援で与えられたものですが、ずっと押し入れに眠っていたものです。それをS姉が使えるようにセットアップしてくださいました。感謝致します。
 チャペル・タイムでは、3日前に105歳という長寿を全うされて天に帰られたクリスチャン医師日野原重明さんについてお話しました。聖路加国際病院で、生活習慣病予防、看護師教育の発展、日本の医療の様々な分野の展に大きく貢献した方です。日野原さんが59歳の時、よど号ハイジャック事件の人質として飛行機の中に閉じ込められた時に読んだ聖書の言葉が彼の人生を大きく変えました。無事に解放されたとき、「神様が与えてくれた人生。これからは自分のためでなく人のために、社会のために生きよう」と、決心されたそうです。

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。」  ヨハネ12:24

 熱心に耳を傾けてくださった方々を、主が豊かな実を結ぶ歩みへと導いてくださいますように。

 今日の支援活動も守られ、御言葉を語らせていただけたことを感謝いたします。
 ご支援くださった皆様に心から感謝しつつ。       吉田真知子

      

牧師コラム 『りっぱな信仰』 2017年8月13日

 牧師 高橋勝義

 「あの人はとても立派な人だからあの人を見習いなさい」と親は、子どもに教えます。
 辞書を開くと、立派な人について色々と解説してありますが、その中に「欠点や不足がない」というのがありました。果たして、このような人は、本当にいるのでしょうか。
 イエス・キリストは、ローマ軍の百人隊長の姿勢に『あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません(ルカ7:9)』と語りました。
 〔りっぱな信仰〕とは、何でしょうか。
 聖書は、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。(ヤコブ1:6)』と語っています。そうは言っても、私たちは、心のどこかで疑い、願った先から「もしも…」を考えながら行動してしまうものです。
 〔りっぱな信仰〕とは、第一に、少しも疑わないことです。
 では、誰に対して、少しも疑わないのか。それはイエス・キリストです。
 イエス・キリストを信じ、信頼して歩む私たちの信仰の姿勢が問われているのです。
 第二に、信じて願うことです。イエス・キリストは、『あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです(マタイ6:8)』と語り、神はあなたが願う前に、あなたに必要なものを御存知であるお方であることを私たちに教えているのです。
 だから、安心して信じ願いなさいと勧めているのです。
 イエス・キリストは、ご自身に対する揺るがない信頼で願った百人隊長の願い通りに、部下の病気をいやされました。欠点や不足がない人が、りっぱな信仰なのではなく、《少しも疑わず信じて願う》ことが、りっぱな信仰なのです。
 イエス・キリストは、その信仰に答えて下さるお方です。

牧師コラム 『預言者ヨナのしるし』 2017年8月6日

 牧師 栗原延元

 聖書学者のある人が、イエスに、キリスト(救い主)である証拠としての奇蹟を求めました。そのときイエスは答えて言われました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:3941より)
 これから3回あるいは4回にわたり、(それ以上になるかも知れませんが)ヨナ書を学びます。ヨナ書は旧約聖書の預言書のひとつです。預言者ヨナの人物は、今の私たちにも大変興味深く、学べば学ぶほど親しみがわいてくると思うのです。その預言者ヨナの生涯のエピソードが(三日三晩大魚の腹の中にいた)が、イエスが救い主(キリスト)である証拠だと言うのです。
 ゆっくり、じっくり、ヨナ書を学んでいきましょう。

牧師コラム 『人生の土台』 2017年7月30日

牧師 高橋勝義

 

 地震の多い日本では、土台の良し悪しが、丈夫な建物になるかどうかを左右します。ですから、地盤を調べるなど土台造りには、時間と費用をかけます。
 ところで、人生には全く揺るがない土台というものがあるのでしょうか…。
 もしも、そのような土台があるとするならば、その上に自分の人生を築けば、きっと幸いな人生になるに違いありません。
 イエス・キリストは、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)』と語りました。
 なぜ、イエス・キリストが〔道〕であり、〔真理〕であり、〔いのち〕なのか。
 イエス・キリストが〔道〕なのは、私たちを〈まことの神〉へと導くからです。
 イエス・キリストは、私たちのすべての【罪】を身代わりに負い、十字架で死なれたので、私たちと〈まことの神〉を和解させて下さる〔真理〕なのです。
 イエス・キリストが〔いのち〕なのは、この方を【罪】からの救い主として信じる時、私たちを死の滅びから〈永遠のいのち〉へと移して下さるからです。
 イエス・キリストは、あなたを愛し、あなたと共に歩んで下さる〈神〉ですから、この方を人生の土台とするならば、様々な困難や試練に会う時、いつもあなたを慰め・励まし・助け・力づけて下さいます。あなたが、気力を失い、歩くことさえままならない時には、あなたを背負って下さるお方です。
 聖書は、『その人は…岩(イエス・キリスト)の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せた時も、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。(ルカ6:48)』と語っています。これは、神の約束です。

牧師コラム 『三つの教え』 2017年7月23日

牧師 高橋勝義

 

 イエス・キリストは、弟子たちに三つのことを教えました。

〈第一は、十分訓練を受けた者となること〉私たちは、本質的に楽な道を求めます。実は、怠け者なのかもしれません。ですから、弟子のパウロは、『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい』(ローマ12:11)と警告するのです。
 『十分訓練を受けた者』とは、イエス様を信じ、信頼して歩む人のことです。イエス様の教えが〔真実〕であることを日々の歩みの中で、まず、自分自身が、味わう。
 そうすれば、その教えを自信を持って、人々に教えることが出来るのです。
〈第二は、自分の目から梁(はり)を取る〉「目の梁」とは、自分は常に正しいとする高慢な心のことです。ですから、人の間違いにチェックを入れ、平気で『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』(ルカ6:42)と言うのです。
 しかし、聖書は、『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい』(ピリピ2:3)と語ります。まず、自分をわきまえること。そして、愛を持って話さなければ、どんなに正しい事も、相手の心には届きません。
〈第三は、良い実を結びなさい〉『人の口は、心に満ちているものを話します』(ルカ6:45)私たちの生まれながらの心は、【恨み・憎しみ・妬み・欺き】などで満ちています。このような心からは、日々、争いばかりが生まれます。
 聖書は、『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です』(ガラテヤ5:22,23)と語ります。
 心が、御霊に満たされていれば、本当に、良い実(御霊の実)を結ぶことが出来るのです。そのためには、それを妨げている悪い思いに気付くたびごとに【罪】を認め、十字架の血潮で聖めて頂くことが必要なのです。