牧師コラム 『祈りの姿勢』 2019年1月13日

 牧師 高橋勝義   

 祈りは、「苦しい時の神頼み」ではなく、まことの神との霊的な交わりであり、会話です。それは呼吸と同じで、生きるために不可欠なものなのです。
 ですから、イエス・キリストは、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」二つのたとえを話されました。

 その一つは、不正な裁判官のたとえ話しです(ルカ18:18)
 裁判官は、ひとりのやもめの訴えが、あまりにもうるさくて仕方がないために、彼女のための裁判をすることにしたというのです。
 イエス様は、このやもめのたとえから、あきらめずに神に期待して祈り続けることの大切さを教えられたのです。しかし、祈り続けることは、容易ではありません。だから、神が良くして下さった恵みの数々を思い出す時(103:2)、感謝と喜びが沸き上がり、その神に期待して祈り続けることが出来るのです。

 二つ目は、二人の人物の祈りのたとえ話しです(ルカ18:914)
 一人はパリサイ人で、彼は自分の行いの正しさを神に訴える祈りでした。もう一方の取税人は、遠く離れて立ち『神様、罪人の私をあわれんでください』と祈ったのです。
 イエス様は、神に義と認められたのは取税人の祈りであると言われました。なぜなら、取税人は、神を畏れ、神の前にへりくだっていたからです。
 そして、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです(ルカ18:14)」と語り、謙遜の大切さを教えられたのです。

 神は、 神を畏れ、神に期待して祈る人を待っておられるのです。

牧師コラム 『三つの問いかけ』 2019年1月6日

牧師 高橋勝義

 年の初めである元旦に、目標や計画を立てることは大切です。

 さて、パリサイ人たちに「神の国はいつ来るのか」と尋ねられたイエス様は、「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:20,21)」と答えられました。このイエス様の答えには、まことの神が、あなたに問いかけておられる大切な三つのことが隠されています。

 第一は、まことの神をどれくらい意識して生活しているか、です。
 喜ぶ時はもちろん、無力さを覚える時には、素直にそれを認め、神に頼る(祈る)ならば、神の平安と助け、そして守りの中で日々を過ごすことができるのです。

 第二は、突然やってくる世の終わりへの備えをしているか、です。
 私たちは、明日は今日と同じようにやって来る、と疑わずに眠りにつきます。しかし、聖書には私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、三日後によみがえり、天に帰られたイエス・キリストが再び地上に来られる(再臨)と、はっきり記されています。
救いの扉は、この再臨の時に閉じられるのです。

 第三は、神の国(天国)に入る確信を持っているか、です。
 イエス・キリストの十字架は、神から離れ、背を向けて歩んでいる私の罪のためであると信じる者には、『永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24) 』と聖書は約束しています。

 今年の計画の中に、神からの三つの問いかけを加えてみてはいかがでしょうか?

牧師コラム 『信仰とは…』 2019年1月1日

 牧師 高橋勝義

 「鰯の頭も信心から」とよく耳にしますが、これは昔、節分の夜にヒイラギのトゲと鰯の悪臭で鬼や悪を払うことが出来ると信じられていたことから、鰯の頭のようなつまらないものでも信じる人には、有り難いものになる。つまり、何を信じるかではなく、信心が大切だということを言っているようです。

 イエス様が、エルサレムに向かう途中のことでした。ハンセン病をわずらっていた十人の人が「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と声を張り上げて、助けを求めました。イエス様は彼らに「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われ、彼らはその言葉に従い祭司のところに行きました。ところが、その途中で癒されたのです。癒やされた十人の中で、引き返して来て、イエス様の足もとにひれ伏し、感謝したのはサマリア人ひとりだけでした。イエス様は、その彼に『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』と言われたのです。

 この出来事は、『信仰とは何か』を三つの観点から教えています。
 第一は、疑わずに信じて求めることです。
 「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という思いではなく、心をしっかりと定めて願う信仰が求められているのです。
 第二は、御言葉に信頼することです。
 イエス様から「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われた時に、自分の経験や知識に頼らず、また超自然的な奇蹟を渇望するのでもなく、素直に主のことばを信じ、従う信仰が求められているのです。
 第三に、神を信じることです。
 「神にとって不可能なことは何もない」お方を信じるのです。
 信仰とは、信じるお方と何を信じるかがとても重要なのです。

牧師コラム 『赦 し』 2018年12月30日

 牧師 高橋勝義   

 今年も残り2日です。あなたにとって、今年はどんな年だったでしょうか?
 楽しかったこと、その反対に腹立たしいこともあったことでしょう。
 イエス・キリストは、『一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。(ルカ17:4)』と語っています。
 人との関わりの中で生きている私たちは、多少の差はあっても、人間関係でつまずいた経験が必ずあるはずです。しかし、誰かをつまずかせたことよりも、自分が傷つき、つまずいたことの方をよく覚えているものです。その時の心の状態を思うと、苦々しさが湧いてきて、とても「赦す」ことなど考えられません。
 それなのに、イエス・キリストは、「赦しなさい」と命じておられます。
 イエス・キリストは、全く罪のないお方であるのに、十字架刑を受けました。そして、今まさに、息を引き取ろうとしているその瞬間『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)』と言われました。
 『彼ら』とは、愛の神から離れ、自分中心に生きている私たち自身のことをも言われたのですが、『彼ら(私たち)は自分がどんな歩みをしているのか、全く分からないまま生活しているのです。』ととりなしてくださったのです。
 イエス・キリストの十字架は、自分中心に生きてきた罪を認め、『ごめんなさい』と悔い改めた者に、赦しの道、新しい人生へと導いてくださるのです。
 あなたは、憎しみと恨みを残したまま年を越しますか?
 十字架の赦しを受け取り、神の助けによって自らも赦す人生へと歩んではいかがでしょうか…。

牧師コラム 『救い主のしるし~飼葉おけ』 2018年12月23日

牧師 栗原延元

 今日の礼拝は、救い主イエス・キリストの誕生(降誕)を共にお祝いし、喜ぶときです。今年は西暦2018年です。これはイエス・キリストがお生まれになった年から数えています。西暦とは西洋のこよみですが、今や全世界で通用するこよみです。イエスの誕生によって、それ以前をB.C(Before Christ)、それ以降をA.D(Anno Domini)と歴史を2分しています。
 少しばかり、くどい説明になりましたが、もう少しご辛抱してお読み下さい。何故に、イエスが救い主(キリスト)なのかといいますと、「飼葉おけ」がそのしるしだからです。しるしとは、証拠ということです。
 イエス・キリストが救い主・キリストである正真正銘のしるしが、くどいようですが「飼葉おけ」なのです。
 クリスマスを詳しく伝えている「ルカの福音書」2章には三度くり返し「飼葉おけに寝ておられる」みどりごこそが救い主であると言います。
 まことの神は、最も低い姿をまとってこの世に来られたことを意味しています。〈心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。〉と山上の教えを説いたお方にふさわしいお生まれなのでしょう。

牧師コラム 『キリストのいのち』 2018年12月16日

牧師 高橋勝義

 最近、巷では「寿命100年時代をどう生きるか?」が話題になっています。
 しかし、どんなに寿命が延びたとしても、その先に待っているものは変わりません。
 さて、イエス・キリストは生まれる約700年も前に、その誕生が預言されていました。その聖書の預言には『(救い主イエス・キリストは) 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。(イザヤ42:3)』と記されています。この社会では、役に立たなければ、相手にされず、心は元気を失い、毎日が、憂鬱で、外にも出たくなくなります。まさに『傷んだ葦』『くすぶる灯芯』そのものです。
 人となってこの世に生まれたイエス・キリストは、ご自身も多くの試みを受け、苦しまれたお方です。人の痛みを本当に知っておられるお方ですから、このような弱さを覚える私たちを慰め、励ますことができるのです。
 では、『真実をもってさばきを執り行う』とは、どのような意味なのでしょうか?
 多くの人は、死後どこに行くのか、という問題を考えないようにして生きています。
 キリストがこの世に来られたのは、『世(あなた)をさばくためではなく、御子によって世が救われるため(ヨハネ3:17)』なのです。さばきの原因は、私たちを愛しておられる神から離れ、自分中心に生きている罪なのですが、この罪の刑罰をキリストは、身代わりに負い十字架の上で死んで下さったのです。
 ですから、この事実を受け入れ、キリストを罪からの救い主として信じるなら、そのさばきから救われるのです。寿命100年時代を遥かに超える永遠のいのちを与えて下さるお方、イエス・キリストがこの地上に来て下さったクリスマス。
 救い主のお誕生を心からお祝いしましょう。

2018年11月15日 クラフト教室・支援報告 第183回

〇日 時:2018年11月15日(木)
〇参加者:10名
〇奉仕者:仙台教会5名、石巻教会2名
〇場 所:石巻福音自由教会

 11月のクラフト教室は、「ピンクッション」を作りました。エンジの生地に小花、レースの縁取りが可愛く、小物入れにもなっているものです。まずアイロンで芯を貼り外側を縫い、プラスチックの芯を入れて円柱型の入れ物を作りました。途中、ボンドで貼ったり、両面テープで貼ったり、まるで夏休みの宿題の工作をしているような楽しさがありました。細かい20コくらいにもなるパーツが、全て準備されていますので、今日も作業がスムーズに進んで行きました。参加者の皆さんも「ここまで準備するのが大変なのよね。ありがたいわ。」などとお話もはずんで、2時間半ほどでほぼ出来上がりました。
 チャペルタイムでは、「聖書を読んだサムライたち」のパート2、NHKの大河ドラマで人気の「西郷隆盛」(せごどん)についてのDVDを見た後、お話しを聞いて頂きました。西郷さんが説いた「敬天愛人」という言葉は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」という聖書から取られたものです。自分に敵対する者を赦すということを貫いた西郷さん。公にできなかったようですが、教会に集い、聖書を学び、洗礼も受けられていたそうです。イエス様の教えをもとに時代を生き、歴史を動かした志士たち。彼らの生き方に大きな影響を与えたのは、意外にも聖書だったということです。歴史上、よく知られている人物が聖書の影響を受けて、この教えを日本の近代化の大きな指針としていったということで、神の言葉、聖書に更に関心を持っていただけたらと願っています。
 石巻は特産の牡蠣の出荷の季節に入ってきました。ご婦人の方々も牡蠣剥きの仕事が忙しくなってきました。健康と日々の歩みが守られますようにお祈りしてお別れしました。
 いつもこの働きのためにお祈りとご支援をいただき心から感謝致します。
 引き続き、参加者の方々のために、クラフトを準備する姉妹方の奉仕のためにお祈り頂けましたら幸いです。     
                               吉田真知子

         

牧師コラム 『越えられない大きな淵』 2018年12月9日

牧師 高橋勝義

 金銭を好むパリサイ人に、イエス様はたとえ話しをされます。
『毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの門前に、できものだらけの貧しいラザロという男がいた。しばらくして、ラザロは死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。金持ちは、よみで苦しみながら目を上げると、アブラハムの懐にいるラザロが見えたので、「父アブラハムよ、私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、彼をよこしてください」と懇願した。しかし、アブラハムは「私たちとおまえたちの間には大きな淵があるので、渡ろうとしても渡れず、越えて来ることもできない」と告げる。金持ちは、残してきた兄弟五人を思い、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、「彼らに警告してください。」と懇願しますが、アブラハムは「彼らはモーセと預言者の言うことを聞くがよい。」と答えます。なおも、金持ちは「死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。」と食い下がるのですが、アブラハムの答えは「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れない。」でした。(ルカ16:1431)
 聖書は、「人間は一度死ぬここと死後さばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と語ります。
 死後、私たちを待ち受ける絶望と苦しみをイエス・キリストは十字架の上で代わりに受けて下さいました。
 誰でも、イエス・キリストをからの救い主として信じる時、死からいのちに移され、絶望と苦しみから救われるのです。
 越えられない大きな淵を越えさせて下さるお方が、イエス・キリストなのです。

牧師コラム 『忠 実』 2018年12月2日

牧師 高橋勝義

 「蒔かぬ種は生えぬ」という諺があります。何ら努力もしないで、良い結果を期待しても得られないという意味です。
 イエス様は、一人の管理人のたとえを話されました。
 この管理人は主人の財産を無駄遣いしている、と訴えられ仕事を失う危機に直面します。彼は「土を掘る力もないし、物乞いをするのは恥ずかしい」ので、主人の債務者一人ひとりを呼び、その債務を軽くしてやり、管理の仕事を辞めさせられても、恩を売っておいた人々が自分を家に迎え入れてくれるようにした、というのです。
 イエス様は、この管理人の不正行為そのものを奨励しているのではなく、危機に直面した時、尚も不正な富に頼り、知恵を絞って解決策を見出し、将来への備えをする抜け目のない、ずる賢い行為をほめたのです。
 なぜ、人は、富に執着するのか?それは、富がなければ、幸せになれないと信じているからです。だから、あらゆる知恵を用いて、富を得ようとしています。
 イエス様は、『どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。(ルカ16:13)』と語られます。
 あなたの心はどこに向いているのか、何を頼りにするのか、また、将来への備えが出来ているのか、とイエス様は問うているのです。
 「二兎追う者は一兎をも得ず」のたとえの如く、私たちを愛しておられる神に従うのか、それとも消えてなくなる富を選ぶのか…。
 あなたはどちらでしょうか。