牧師コラム 『弟子の道』 2018年11月4日

 牧師 高橋勝義     

 学問や技能などを伝授する側が「師」、伝授される側が「弟子」です。
 イエス・キリストは、『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書1426,27)』と語りました。
 イエス・キリストは、大切なものであっても手放さなければ、弟子になれないと言われたのです。
 大切なものを手放しても惜しくないものとは、何でしょうか?
 神のひとり子イエス・キリストは、人を滅びに向かわせている罪があること、その滅びから救うために、私たちの罪を身代わりに負い、十字架の上で死なれました。
 私たちが、この事実を受け取り自らの罪を認め、イエス・キリストを罪からの救い主として信じると、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われるのです。
 この救いの恵みを頂いたすべての者に、キリストは、ご自分がいのちを惜しまずに献げたように、本気でわたしに従う、弟子になるのかと問うているのです。
 なぜなら、弟子に、この素晴らしい救いの福音を託そうとしているからです。
 弟子が人々に伝授することは、この救いの福音を宣べ伝えることです。
 また、弟子の道は、自分の力で努力して頑張るのではなく、むしろ、自分の無力さを知り、その無力さを認め、神の力に頼って生きることなのです。
 キリストを信じるすべて者に、神は、助け主(聖霊なる神)を信じる者の内に住まわせて、弟子の道を歩めるように励まし、助け、導いて下さるのです。

牧師コラム 『ここに愛がある』 2018年10月28日

 牧師 高橋勝義     

 S・ムーニーハムは「口先だけで『愛している』と言われても簡単に無視できるけれど、態度で示されると、ついほだされてしまう。」と語りました。
 人は、だれでも「愛」を求めていますが、「愛」は見えません。それ故、自分の愛を相手に知ってもらうために、「プレゼント」というかたちで示します。
 聖書は『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ410)』と語っています。あまり馴染みのない「なだめのささげ物」という言葉が出てきます。国語辞書を開いてみると「怒りや不満などをやわらげ静める。事を荒だてないようにとりなす。」と記されています。
 ここで重要なことは、誰をどのような方法で「なだめるのか」です。
 人は、自分たちを造られた神のもとから飛び出し、背を向け、自分勝手な歩みを続けています。これが罪です。ですから、人が、神をなだめることは絶対に出来ません。
 そこで、神は御子、即ち神の愛する一人子であるイエス・キリストを「神へのなだめのささげ物」とするためにこの世に遣わされたのです。そして、イエス・キリストを十字架の上で私たちの罪の身代わりに処罰されたのです。
 まことに、イエス・キリストの十字架は、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださっていることを示しているのです。
 十字架は、私たちのすべての罪を取り除くのですが、それには、罪を認め、悔い改めることが必要です。
 この神の愛を受け取り、新しい人生を目指しませんか?

牧師コラム 『アブラハムの神への祈り』 2018年10月21日

牧師 栗原延元

  「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みをほどこして下さい。」(創世記2412)。これはアブラハムのしもべの祈りです。彼はアブラハムの息子イサクの妻となる娘さんをさがしに、アブラハムの生まれ故郷に出かけました。彼が目的地に着いたのは夕暮れ時でした。女たちが町の外の井戸に水を汲みにやって来る時でした。
 その時のしもべの祈りを聖書は詳しく録しています。長い引用になりますがここに書きしるします。「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(創世記241314)
 この祈りの通りに物語は進行して行くのです。アブラハムの神への祈りは大きな祝福が伴うのです。

2018年10月4日 クラフト教室・支援報告 第182回

 
〇日 時:2018年10月4日(木)
〇参加者:9名
〇奉仕者:仙台教会6名、石巻教会2名
〇場 所:石巻福音自由教会

 今日は、先月の続きで、「めがねケース」の第2回目となりました。表側のキルテイングの宿題を終わって、内側に当たるところを作って行きました。約2時間を使って、おしゃれなめがねケースが出来上がりました。細かい手仕事です。皆さん、いつもよりおしゃべりも少なく、集中して取り組んでおられるようでした。温かい空気の中で、ゆったりとした時間が過ぎて行きました。
 チャペルタイムでは、「聖書を読んだサムライたち 龍馬をめぐる五人の男たち」というDVDを見ていただきました。激動の時代を生き歴史を動かした志士たち。
 彼らの生き方に大きな影響を与えたのは、意外にも聖書だったということで、今日は第一回目「勝海舟」。歴史上、よく知られている人物が聖書の影響を受けて、聖書の教えを日本の近代化の大きな指針として行ったということで、神の言葉である聖書に関心を持っていただけたらと願っています。教室が終わって教会を後にする、参加者の皆さんのにこやかな笑顔がとても印象的でした。

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇119:105

 いつもこの働きのためにお祈りとご支援をいただき心から感謝致します。
                               吉田真知子

      

牧師コラム 『神はあなたを招いておられる』 2018年10月14日

牧師 高橋勝義     

 あなたは、だれと一緒に食事をする時に幸せを感じるでしょうか…。
 イエスとともに食卓に着いていた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いないのでしょう(ルカの福音書1415)」とイエスに言いました。
 これを聞いたイエス・キリストは、たとえ話をされます。

 『ある人が、盛大な宴会を計画し、大勢の人たちを招きます。宴会の時刻になったので、しもべを遣わし招いた人たちに「さあ、おいでください。用意ができました。」と知らせたのですが、人々は色々な理由をつけ断ったのです。しもべが、このことを報告すると、主人は怒り、急いで大通りや路地にしもべを行かせ、貧しい人たちや、からだの不自由な人たちを連れてくるように命じました。そして、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません(ルカ14:24)」と言ったのです。』

 主人とは、天の父なる神です。しもべとは、イエス・キリストのことです。
 イスラエル人は、救い主が来ることを教え告げられていました。
 しかし、その救い主、イエス・キリストが自分たちのところに来られたにもかかわらず、そのことばを聞こうともせず、それどころか、拒んだのです。
主人( 神)は、招きを断った人たち(イスラエル人)の代わりに、新しい人たち(私たち異邦人)を食事に招きました。
 そして、この招きは、今、あなたに届いています。
 即ち
、神に背を向け歩んでいた罪の身代わりにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことを信じるなら、あなたは神の国の食卓に迎え入れられるのです。
 あなたを愛しておられる神の招きに応答して、神の国の食卓に着きませんか?

牧師コラム 『神の前にへりくだる』 2018年10月7日

牧師 高橋勝義     

 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言は、謙遜の大切さを教えています。へりくだることは人にとって、それぐらい難しい事なのでしょう。
 イエス・キリストも、『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカの福音書1411)』と語りました。
 また聖書は、「主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(Ⅰコリント4:5)」と語っています。更に、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:10)」とも語っています。
 「」とは、もちろん、イエス・キリストです。
 人の評価は、変わります。また、時代によっても、その時々の価値観によっても変わります。しかし、イエス・キリストの評価は、常に、変わることがありません。えこひいきがなく、わいろを取ることもなく、公平です。
 なぜなら、私たちの心の中のはかりごとまでもすべて御存知なお方だからです。
 このお方の前に立つならば、誰が自分の正しさを弁明できるでしょうか?
 神の前にへりくだるとは、自分の弱さを受け入れ、神の力なくしては生きていけないことを認めることなのです。
 この姿勢が、人を謙遜な者にさせるのです。
 神は、へりくだる者と共に歩まれ、その人の内には神の愛、平安、喜びが溢れ、神の栄光がその人を通して表されるのです。

牧師コラム 『愛と希望の警告』 2018年9月30日

牧師 高橋勝義     

 警告とは、「よくない事態が起こりそうなので気を付けるよう、告げ知らせること」です。災害ならば、誰でもこの警告に従いますが、個人的なことになると、普段の信頼関係が築かれていなければ、余計なお世話としか受け取れないでしょう。
 イエス・キリストは、イスラエル人に『エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。(ルカの福音書1334)』と語りました。
 その昔、神はエジプトで奴隷であったイスラエル人を救い出し、アブラハムと約束を交わした「乳と蜜の流れる地」へと導かれました。しかし、彼らは自分たちを救い出したまことの神を忘れ、近隣の強国やそこで祭られている神々に頼ったのです。
 にもかかわらず、忍耐の神は、背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。(エレミヤ3:22)』と語り続けられたのです。
 これは同時に、今を生きる私たちへの「愛と希望の警告」でもあるのです。
 なぜなら、私たちは、まことの神を無視し、自分勝手な歩みをしている背信の子だからです。
 まことの神は、ご自身のもとに私たちを再び集めるために、イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちのすべての罪を彼に負わせ、十字架の上で処罰されたのです。
 キリストの十字架には、神の愛と希望が溢れているのです。
 あなたを愛しておられる神の警告に耳を傾け、向きを変えてみませんか?

牧師コラム 『サラの生涯』 2018年9月23日

牧師 栗原延元   

 アブラハムの妻サラの生涯を、新約聖書のヘブル書が〈信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。〉(ヘブル111112)。さらにヘブル書は語ります。〈これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。〉(ヘブル111316)。アーメン