牧師コラム 『ここに愛がある』 2018年10月28日

 牧師 高橋勝義     

 S・ムーニーハムは「口先だけで『愛している』と言われても簡単に無視できるけれど、態度で示されると、ついほだされてしまう。」と語りました。
 人は、だれでも「愛」を求めていますが、「愛」は見えません。それ故、自分の愛を相手に知ってもらうために、「プレゼント」というかたちで示します。
 聖書は『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ410)』と語っています。あまり馴染みのない「なだめのささげ物」という言葉が出てきます。国語辞書を開いてみると「怒りや不満などをやわらげ静める。事を荒だてないようにとりなす。」と記されています。
 ここで重要なことは、誰をどのような方法で「なだめるのか」です。
 人は、自分たちを造られた神のもとから飛び出し、背を向け、自分勝手な歩みを続けています。これが罪です。ですから、人が、神をなだめることは絶対に出来ません。
 そこで、神は御子、即ち神の愛する一人子であるイエス・キリストを「神へのなだめのささげ物」とするためにこの世に遣わされたのです。そして、イエス・キリストを十字架の上で私たちの罪の身代わりに処罰されたのです。
 まことに、イエス・キリストの十字架は、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださっていることを示しているのです。
 十字架は、私たちのすべての罪を取り除くのですが、それには、罪を認め、悔い改めることが必要です。
 この神の愛を受け取り、新しい人生を目指しませんか?