2018年10月4日 クラフト教室・支援報告 第182回

 
〇日 時:2018年10月4日(木)
〇参加者:9名
〇奉仕者:仙台教会6名、石巻教会2名
〇場 所:石巻福音自由教会

 今日は、先月の続きで、「めがねケース」の第2回目となりました。表側のキルテイングの宿題を終わって、内側に当たるところを作って行きました。約2時間を使って、おしゃれなめがねケースが出来上がりました。細かい手仕事です。皆さん、いつもよりおしゃべりも少なく、集中して取り組んでおられるようでした。温かい空気の中で、ゆったりとした時間が過ぎて行きました。
 チャペルタイムでは、「聖書を読んだサムライたち 龍馬をめぐる五人の男たち」というDVDを見ていただきました。激動の時代を生き歴史を動かした志士たち。
 彼らの生き方に大きな影響を与えたのは、意外にも聖書だったということで、今日は第一回目「勝海舟」。歴史上、よく知られている人物が聖書の影響を受けて、聖書の教えを日本の近代化の大きな指針として行ったということで、神の言葉である聖書に関心を持っていただけたらと願っています。教室が終わって教会を後にする、参加者の皆さんのにこやかな笑顔がとても印象的でした。

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇119:105

 いつもこの働きのためにお祈りとご支援をいただき心から感謝致します。
                               吉田真知子

      

牧師コラム 『神はあなたを招いておられる』 2018年10月14日

牧師 高橋勝義     

 あなたは、だれと一緒に食事をする時に幸せを感じるでしょうか…。
 イエスとともに食卓に着いていた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いないのでしょう(ルカの福音書1415)」とイエスに言いました。
 これを聞いたイエス・キリストは、たとえ話をされます。

 『ある人が、盛大な宴会を計画し、大勢の人たちを招きます。宴会の時刻になったので、しもべを遣わし招いた人たちに「さあ、おいでください。用意ができました。」と知らせたのですが、人々は色々な理由をつけ断ったのです。しもべが、このことを報告すると、主人は怒り、急いで大通りや路地にしもべを行かせ、貧しい人たちや、からだの不自由な人たちを連れてくるように命じました。そして、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません(ルカ14:24)」と言ったのです。』

 主人とは、天の父なる神です。しもべとは、イエス・キリストのことです。
 イスラエル人は、救い主が来ることを教え告げられていました。
 しかし、その救い主、イエス・キリストが自分たちのところに来られたにもかかわらず、そのことばを聞こうともせず、それどころか、拒んだのです。
主人( 神)は、招きを断った人たち(イスラエル人)の代わりに、新しい人たち(私たち異邦人)を食事に招きました。
 そして、この招きは、今、あなたに届いています。
 即ち
、神に背を向け歩んでいた罪の身代わりにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことを信じるなら、あなたは神の国の食卓に迎え入れられるのです。
 あなたを愛しておられる神の招きに応答して、神の国の食卓に着きませんか?

牧師コラム 『神の前にへりくだる』 2018年10月7日

牧師 高橋勝義     

 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言は、謙遜の大切さを教えています。へりくだることは人にとって、それぐらい難しい事なのでしょう。
 イエス・キリストも、『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカの福音書1411)』と語りました。
 また聖書は、「主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(Ⅰコリント4:5)」と語っています。更に、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:10)」とも語っています。
 「」とは、もちろん、イエス・キリストです。
 人の評価は、変わります。また、時代によっても、その時々の価値観によっても変わります。しかし、イエス・キリストの評価は、常に、変わることがありません。えこひいきがなく、わいろを取ることもなく、公平です。
 なぜなら、私たちの心の中のはかりごとまでもすべて御存知なお方だからです。
 このお方の前に立つならば、誰が自分の正しさを弁明できるでしょうか?
 神の前にへりくだるとは、自分の弱さを受け入れ、神の力なくしては生きていけないことを認めることなのです。
 この姿勢が、人を謙遜な者にさせるのです。
 神は、へりくだる者と共に歩まれ、その人の内には神の愛、平安、喜びが溢れ、神の栄光がその人を通して表されるのです。

牧師コラム 『愛と希望の警告』 2018年9月30日

牧師 高橋勝義     

 警告とは、「よくない事態が起こりそうなので気を付けるよう、告げ知らせること」です。災害ならば、誰でもこの警告に従いますが、個人的なことになると、普段の信頼関係が築かれていなければ、余計なお世話としか受け取れないでしょう。
 イエス・キリストは、イスラエル人に『エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。(ルカの福音書1334)』と語りました。
 その昔、神はエジプトで奴隷であったイスラエル人を救い出し、アブラハムと約束を交わした「乳と蜜の流れる地」へと導かれました。しかし、彼らは自分たちを救い出したまことの神を忘れ、近隣の強国やそこで祭られている神々に頼ったのです。
 にもかかわらず、忍耐の神は、背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。(エレミヤ3:22)』と語り続けられたのです。
 これは同時に、今を生きる私たちへの「愛と希望の警告」でもあるのです。
 なぜなら、私たちは、まことの神を無視し、自分勝手な歩みをしている背信の子だからです。
 まことの神は、ご自身のもとに私たちを再び集めるために、イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちのすべての罪を彼に負わせ、十字架の上で処罰されたのです。
 キリストの十字架には、神の愛と希望が溢れているのです。
 あなたを愛しておられる神の警告に耳を傾け、向きを変えてみませんか?

牧師コラム 『サラの生涯』 2018年9月23日

牧師 栗原延元   

 アブラハムの妻サラの生涯を、新約聖書のヘブル書が〈信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。〉(ヘブル111112)。さらにヘブル書は語ります。〈これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。〉(ヘブル111316)。アーメン

牧師コラム 『狭い門から入りなさい』 2018年9月16日

牧師 高橋勝義     

 『狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。(ルカの福音書1324)』とイエス・キリストは、私たちに語っています。しかも、これは命令です。
 また、別の箇所では『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:13)』とも語っています。
 この「狭い門」は、『この方以外には、だれによっても救いはありません(使徒4:11) 』と語られているイエス・キリストご自身を表しています。
 人は「死んだらどうなるのだろう…」という不安を少なからず持っているものですが、聖書は、「イエス・キリストは、私たちののために死なれ、葬られましたが、三日目によみがえられた(Ⅰコリント15:3,4)」と書き記しています。
 このことを事実として受け入れ、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われます。
 しかし、多くの人には「私ののために十字架で死んで下さった。そして、その死んだお方がよみがえる…」という良き知らせ(福音)は受け入れ難いもののようです。
 人々が求める門は魅力的に見え、誰もがそこから入って行くのですが、その先に待ち受けているのは「滅び」です。
 しかも、この「狭い門」は、永遠に開いているのではない、「入ろうとしても門を見つけ出すことができなくなる」とイエス・キリストは私たちに警告するのです。
 入ろうとしても入れなくなる前に、この「狭い門」をたたいてみませんか?

2018年9月6日 クラフト教室・支援報告 第181回

〇日 時:2018年9月6日(木)
〇テーマ:「めがねケース(1)」
〇参加者:11名
〇奉仕者:仙台教会6名、石巻教会1名
〇場 所:石巻福音自由教会

 今回はパッチワークで「めがねケース」を作ります。パッチワークの中でも、アップリケという技法に取り組みました。ブドウの葉1枚と1房の実です。とても細かい作業なのでちょっと苦戦しましたが、スタッフの助けをもらって無事出来上がりました。後は、本体にパッチワークキルトを施すだけとなり、それは次回までの宿題です。

 チャペルタイムでは、私の母についてお話しさせて頂きました。母は2か月程前、3年間の闘病の後、主の御元に召されて行きました。小さな時から神様を求めて教会に通っていましたが、戦争や結婚などの諸事情で行けなくなりました。でも、神様は母のことを忘れてはいませんでした。折々に聖書に触れさせ、晩年、2年間の闘病を経て、病床洗礼に導いてくださいました。そして、その1年後、静かに天に召されて行きました。チャペルタイムの最後に、みんなで聖歌688「あおいそらより」を、私たちの故郷である天国を思いながら賛美しました。
 
 クラフト教室のメンバーのおひとりが、病に倒れたという知らせを聞きました。いつも熱心にメッセージに耳を傾けてくださっていた方です。一日も早く快方に向かわれてもう一度教室に戻ってきて頂きたいと願っています。どうか神様の癒しの御業がなされますように。

 今月もクラフト教室が守られたことを感謝致します。いつもこの小さな働きのためにお祈りくださりご支援くださって本当にありがとうございます。神様の祝福が豊かにありますように。

                               吉田真知子

      

牧師コラム 『からし種とパン種』 2018年9月9日

牧師 高橋勝義     

 からしの種は0.5ミリほどの小さな種です。またパン種とはパンをふっくら膨らませるイ-スト菌のことです。からし種とパン種の共通点は、どちらも小さな種が大きくなるということです。
 聖書が「神の国」を からし種とパン種にたとえているのは、初めの小さな一歩(イエス・キリストを罪からの救い主として信じ、まことの神の御支配の中に飛び込む決断)が、その人の人生に神の大きな力が働き始める第一歩になるからです。
 聖書の冒頭に『はじめに神が天と地を創造された(創世記1:1)』とあるように、まことの神が私たち人間を創造された時、私たちはこの神と共に歩んでいました。
 ところが、人は神と共に歩むことを拒み、離れてしまったのです。
 創造の初めのように、再び人がまことの神と共に歩む道を備えるために、この世に来られたイエス・キリストは時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)』と語りました。
 神と共に歩むために必要なことは、「神から離れ、自分中心の歩みをしている罪を認め、イエス・キリストが私の罪の身代わりに十字架の上で死んで下さったことを信じる」ことです。すると、すべてのは赦され『この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)』との御言葉の約束が成就するのです。
 この良き知らせ(福音)を信じるすべての人は、神との壁()が取り除かれ、新しく造り変えられ、新たな歩みに入り、その人の生涯に神の力が働き広がるのです。

牧師コラム 『罪を悔い改める』 2018年9月2日

牧師 高橋勝義    

 イエス・キリストは、『あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカの福音書135,4)』と二度も繰り返し語られました。
 実はこの御言葉には、警告と希望の二つが語られているのです。
 警告とは悔い改めないなら滅びる、そして希望とは悔い改めるならば滅びない、です。では、何を悔い改めるのでしょうか?
聖書には、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と記されています。
 つまり、滅びとは「さばき」のことなのです。
 なぜ、死後にさばきを受けなければならないのでしょうか?
 その理由は、私たちを造られたまことの神の愛を振り切り、その神から離れ、背を向け、無視し、自分中心に歩んでいる罪によるのです。
 神のひとり子イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちをこのさばきから救うために、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けられたからです。
 この事実を自分のこととして受け取り、イエス・キリストが〔私の罪のために死なれた〕と信じ、自分中心の歩みから神中心の歩みへと向きを変える、これが、罪を悔い改めることなのです。
 そうすれば、さばきから救われ、「滅びない」との希望の約束を自分のものとすることができるのです。
 イエス・キリストは、警告することによって、ご自身の所にこそ希望があることを私たちに教えられたのです。