牧師コラム 『狭い門から入りなさい』 2018年9月16日

牧師 高橋勝義     

 『狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。(ルカの福音書1324)』とイエス・キリストは、私たちに語っています。しかも、これは命令です。
 また、別の箇所では『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:13)』とも語っています。
 この「狭い門」は、『この方以外には、だれによっても救いはありません(使徒4:11) 』と語られているイエス・キリストご自身を表しています。
 人は「死んだらどうなるのだろう…」という不安を少なからず持っているものですが、聖書は、「イエス・キリストは、私たちののために死なれ、葬られましたが、三日目によみがえられた(Ⅰコリント15:3,4)」と書き記しています。
 このことを事実として受け入れ、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われます。
 しかし、多くの人には「私ののために十字架で死んで下さった。そして、その死んだお方がよみがえる…」という良き知らせ(福音)は受け入れ難いもののようです。
 人々が求める門は魅力的に見え、誰もがそこから入って行くのですが、その先に待ち受けているのは「滅び」です。
 しかも、この「狭い門」は、永遠に開いているのではない、「入ろうとしても門を見つけ出すことができなくなる」とイエス・キリストは私たちに警告するのです。
 入ろうとしても入れなくなる前に、この「狭い門」をたたいてみませんか?

2018年9月6日 クラフト教室・支援報告 第181回

〇日 時:2018年9月6日(木)
〇テーマ:「めがねケース(1)」
〇参加者:11名
〇奉仕者:仙台教会6名、石巻教会1名
〇場 所:石巻福音自由教会

 今回はパッチワークで「めがねケース」を作ります。パッチワークの中でも、アップリケという技法に取り組みました。ブドウの葉1枚と1房の実です。とても細かい作業なのでちょっと苦戦しましたが、スタッフの助けをもらって無事出来上がりました。後は、本体にパッチワークキルトを施すだけとなり、それは次回までの宿題です。

 チャペルタイムでは、私の母についてお話しさせて頂きました。母は2か月程前、3年間の闘病の後、主の御元に召されて行きました。小さな時から神様を求めて教会に通っていましたが、戦争や結婚などの諸事情で行けなくなりました。でも、神様は母のことを忘れてはいませんでした。折々に聖書に触れさせ、晩年、2年間の闘病を経て、病床洗礼に導いてくださいました。そして、その1年後、静かに天に召されて行きました。チャペルタイムの最後に、みんなで聖歌688「あおいそらより」を、私たちの故郷である天国を思いながら賛美しました。
 
 クラフト教室のメンバーのおひとりが、病に倒れたという知らせを聞きました。いつも熱心にメッセージに耳を傾けてくださっていた方です。一日も早く快方に向かわれてもう一度教室に戻ってきて頂きたいと願っています。どうか神様の癒しの御業がなされますように。

 今月もクラフト教室が守られたことを感謝致します。いつもこの小さな働きのためにお祈りくださりご支援くださって本当にありがとうございます。神様の祝福が豊かにありますように。

                               吉田真知子

      

牧師コラム 『からし種とパン種』 2018年9月9日

牧師 高橋勝義     

 からしの種は0.5ミリほどの小さな種です。またパン種とはパンをふっくら膨らませるイ-スト菌のことです。からし種とパン種の共通点は、どちらも小さな種が大きくなるということです。
 聖書が「神の国」を からし種とパン種にたとえているのは、初めの小さな一歩(イエス・キリストを罪からの救い主として信じ、まことの神の御支配の中に飛び込む決断)が、その人の人生に神の大きな力が働き始める第一歩になるからです。
 聖書の冒頭に『はじめに神が天と地を創造された(創世記1:1)』とあるように、まことの神が私たち人間を創造された時、私たちはこの神と共に歩んでいました。
 ところが、人は神と共に歩むことを拒み、離れてしまったのです。
 創造の初めのように、再び人がまことの神と共に歩む道を備えるために、この世に来られたイエス・キリストは時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)』と語りました。
 神と共に歩むために必要なことは、「神から離れ、自分中心の歩みをしている罪を認め、イエス・キリストが私の罪の身代わりに十字架の上で死んで下さったことを信じる」ことです。すると、すべてのは赦され『この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)』との御言葉の約束が成就するのです。
 この良き知らせ(福音)を信じるすべての人は、神との壁()が取り除かれ、新しく造り変えられ、新たな歩みに入り、その人の生涯に神の力が働き広がるのです。

牧師コラム 『罪を悔い改める』 2018年9月2日

牧師 高橋勝義    

 イエス・キリストは、『あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカの福音書135,4)』と二度も繰り返し語られました。
 実はこの御言葉には、警告と希望の二つが語られているのです。
 警告とは悔い改めないなら滅びる、そして希望とは悔い改めるならば滅びない、です。では、何を悔い改めるのでしょうか?
聖書には、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と記されています。
 つまり、滅びとは「さばき」のことなのです。
 なぜ、死後にさばきを受けなければならないのでしょうか?
 その理由は、私たちを造られたまことの神の愛を振り切り、その神から離れ、背を向け、無視し、自分中心に歩んでいる罪によるのです。
 神のひとり子イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちをこのさばきから救うために、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けられたからです。
 この事実を自分のこととして受け取り、イエス・キリストが〔私の罪のために死なれた〕と信じ、自分中心の歩みから神中心の歩みへと向きを変える、これが、罪を悔い改めることなのです。
 そうすれば、さばきから救われ、「滅びない」との希望の約束を自分のものとすることができるのです。
 イエス・キリストは、警告することによって、ご自身の所にこそ希望があることを私たちに教えられたのです。

牧師コラム 『復活信仰の源流』~アブラハムの信仰~ 2018年8月26日

牧師 栗原延元

 前回(72)は、「さあ!天を見上げよ」と題して、創世記15章を学びました。今回は、創世記22章から「復活信仰の源流」と題して、アブラハムの信仰のクライマックスの出来事を学びます。
 アブラハム夫妻に待望の嫡子イサクが与えられます。アブラハムが百歳、妻サラが九十歳です。神の約束のみことばが実現したのです。この間のアブラハムの信仰がローマ書4章に録されています。〈彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムはおよそ百歳になって自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰によって神の約束をうたがうようなことをせず、反対に信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。〉そのアブラハムの信仰が試みられるのです。その試みの顛末(てんまつ)を今日の礼拝の中で学びます。
 どうぞ教会の玄関からお入りください。お待ちしております。

牧師コラム 『キリストの愛に動かされて』 2018年8月19日

牧師 高橋勝義     

 東日本大震災から七年…この間、熊本地震、そして西日本豪雨と、日本は各地で想定外の災害が起こる国になってしまいました。
 そのような中、滋賀県大津市にある近江福音自由教会は、2011年の大震災から毎年被災地支援のために石巻に来てくださっています。今年も「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(Ⅰヨハネの手紙318)」また「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。(ローマ人への手紙1215)」のみことばに従い、キャラバン隊を組んで8/15 8/19迄、約1000枚のチラシ配布や駐車場の草取り、訪問など、様々な御奉仕をしてくださいました。

 イエス・キリストは、『わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネの福音書1334)』と命じています。

 では、このイエス・キリストの愛とは、どんな愛なのでしょうか?
 人は私たちを造られたまことの神に背を向けて離れ、自分中心の歩みをしてきました。
 聖書は、これを罪と言っています。この罪が、私たちを苦しめているのです。
 イエス・キリストは、私たちのこの罪を身代わりに負い、十字架の上でご自身のいのちをささげられ、そして三日目によみがえり、救いの御業を完成されたのです。
 この事実を受け入れ、イエス・キリストを信じるすべての者には、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われる。これが、キリストの愛です。
 近江福音自由教会の方々は、この愛に動かされ、車で約12時間の道のりを石巻まで来てくださったのです。

2018年7月19日 クラフト教室・支援報告 第180回

〇日 時:2018年7月19日(木)
〇参加者:15名
〇奉仕者:仙台教会7名、石巻教会1名、宣教師1名
〇場 所:石巻福音自由教会

 主の御名を賛美します。
連日の真夏日が続いている中、石巻教会でのクラフト教室も4回目となりました。今回は都合により真知子姉が不在でしたので、K兄が運転して下さいました。私も久しぶりに参加させていただきました。当日はいつものように9時半頃石巻教会に到着しました。すでに4名の方々が集まって下さいましたが、体の不調や各々都合があって5名の方々がお休みされるということでした。
 今回のクラフトの内容は短時間で出来る『キャンディーポーチ』です。彩りの美しい布地で作るものでとても可愛らしく2~3個作ってプレゼントするにはピッタリの小物です。皆さんは手を動かしながら、おしゃべりも楽しそうにしておられました。
 続いてチャペルタイム。まず『主われを愛す』を手話を交えて賛美し、体をほぐしていただきました。今回は高橋師がメッセージをして下さいました。お父様が79才で召されるまでのお話をして下さいました。その時、お父さんに「いずれ、私(高橋師)も天の御国に住きますから、先に往って御国で待っていて下さい。」と、また、「お父さんの人生には様々な辛いことや悲しみの度に流された涙も、神様はすべて覚えて下さっているよ。」と、静かに語られました。

『神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』(黙示録7:17b)

 それからティータイム。各テーブルに4~5名でしたので、お茶をいただきながら1時間位ゆったりとした中で交わりの時となりました。その中でSさんは西日本豪雨の被災の映像を見ていたら、3・11の震災当時の自分たちの状況と重なって見えて辛かったと心境を話してくださいました。「あの時、津波が来て家も車も何もかも流されてしまったけれど、みんなが同じように大変だったからね。」さらに、Sさんは義母様の介護することも自分の為にしてきたことで、それも家族として当然のことと語って下さいました。
 今になって思うことは、震災は悪いことばかりではないこともあって、却って以前の狭い地域でもしがらみや縛りがとれて何にも束縛されないという解放感さえ、私は感じていると、さっぱりした表情で心の思いを打ち明けて下さいました。本当に石巻教会が石巻の方々の心の拠り所となっていることを感謝致します。
                                 深澤まり子

      

牧師コラム 『和解と分裂』 2018年8月12日

 牧師 高橋勝義     

 私たちは、私たち人間を造られた神から離れ、背を向け、歩んできました。
 つまり親に逆らい、そこから出てきてしまい、自分の力で頑張っているのです。
 そこで、神はご自分との和解のために、神に逆らうすべての罪を、私たちに代わって、イエス・キリストに負わせ、十字架の上で死をもって処罰されたのです。

 イエス・キリストを信じるということは、私の罪のために死なれたことを認め、神に「ごめんなさい」と謝ることです。すると、神と私たちの間にあるわだかまり()のすべてが消え、神との和解が成立、平和が戻るのです。
 ところが、イエス・キリストは、『あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。(ルカの福音書1251)』と語っています。

 イエス・キリストを救い主と信じるということは、神の力に頼って生きる生き方に方向転換した人、つまり、新しい生き方に変えられた人のことです。
しかし、信じない人は、自分の力で頑張る生き方のままです。
イエス・キリストは、この二つの生き方を分裂と表現したのです。

 この分裂は、争いや憎しみ、恨みなどによって生じたものではなく、信じた者の新しい生き方がよく分からないところから来る偏見なのです。
 イエスを信じる者が置かれる状況を、前もって語ることによって、まことの神に従って生きる覚悟をうながし、また私たちを愛しておられる神を人々に知らせなさいと語っているのです。

牧師コラム 『忠実で賢いしもべ』 2018年8月5日

 牧師 高橋勝義     

 「備えあれば憂いなし」という諺があります。
 普段から準備しておけば、いざというとき 何の心配もないという意味です。
 イエス・キリストは、たとえを話されました。そのたとえは、「主人が、婚礼に招待され出かけたが、いつ帰って来るのか分からない。主人が真夜中、夜明けに帰って来ても、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いである。」というものでした。そして、『あなたがたも用心していなさい。人の子(イエス・キリスト)は、思いがけない時に来るのです。(ルカ12:40)』と締めくくるのです。
 帰りの全く分からない人を待つのは、とてもつらい事です。たとえに出てくる しもべにとっては、それが仕事ですから、辛いなどと言ってはいられません。
 彼に求められていることは、忠実さと状況を見極める賢さです。
 ところで、イエス・キリストは、「思いがけない時に再び来る」というのです。
 2000年前、地上に来られた目的は、私たちを罪から救うために十字架上で死ぬことでした。そして三日目によみがえり、天に戻られました。
 再びイエスがこの世に来られる目的は、さばきを行うためです。
しかし、イエスが再びこの世に来られるのはいつなのか、隠されているので、たとえを通して『いつ来られても良い備え』をしなさいと警告されたのです。
 では、どんな備えをすればよいのでしょうか?それは、イエスを救い主と信じ、神の子どもとして生きることです。神の子どもは、父の教え、即ち、御言葉(聖書)に忠実に聞き従って歩みます。そしてそれは、目を覚ました生き方になるのです。