牧師コラム 『復活信仰の源流』~アブラハムの信仰~ 2018年8月26日

牧師 栗原延元

 前回(72)は、「さあ!天を見上げよ」と題して、創世記15章を学びました。今回は、創世記22章から「復活信仰の源流」と題して、アブラハムの信仰のクライマックスの出来事を学びます。
 アブラハム夫妻に待望の嫡子イサクが与えられます。アブラハムが百歳、妻サラが九十歳です。神の約束のみことばが実現したのです。この間のアブラハムの信仰がローマ書4章に録されています。〈彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムはおよそ百歳になって自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰によって神の約束をうたがうようなことをせず、反対に信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。〉そのアブラハムの信仰が試みられるのです。その試みの顛末(てんまつ)を今日の礼拝の中で学びます。
 どうぞ教会の玄関からお入りください。お待ちしております。

牧師コラム 『キリストの愛に動かされて』 2018年8月19日

牧師 高橋勝義     

 東日本大震災から七年…この間、熊本地震、そして西日本豪雨と、日本は各地で想定外の災害が起こる国になってしまいました。
 そのような中、滋賀県大津市にある近江福音自由教会は、2011年の大震災から毎年被災地支援のために石巻に来てくださっています。今年も「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(Ⅰヨハネの手紙318)」また「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。(ローマ人への手紙1215)」のみことばに従い、キャラバン隊を組んで8/15 8/19迄、約1000枚のチラシ配布や駐車場の草取り、訪問など、様々な御奉仕をしてくださいました。

 イエス・キリストは、『わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネの福音書1334)』と命じています。

 では、このイエス・キリストの愛とは、どんな愛なのでしょうか?
 人は私たちを造られたまことの神に背を向けて離れ、自分中心の歩みをしてきました。
 聖書は、これを罪と言っています。この罪が、私たちを苦しめているのです。
 イエス・キリストは、私たちのこの罪を身代わりに負い、十字架の上でご自身のいのちをささげられ、そして三日目によみがえり、救いの御業を完成されたのです。
 この事実を受け入れ、イエス・キリストを信じるすべての者には、永遠のいのちが与えられ、滅びから救われる。これが、キリストの愛です。
 近江福音自由教会の方々は、この愛に動かされ、車で約12時間の道のりを石巻まで来てくださったのです。

2018年7月19日 クラフト教室・支援報告 第180回

〇日 時:2018年7月19日(木)
〇参加者:15名
〇奉仕者:仙台教会7名、石巻教会1名、宣教師1名
〇場 所:石巻福音自由教会

 主の御名を賛美します。
連日の真夏日が続いている中、石巻教会でのクラフト教室も4回目となりました。今回は都合により真知子姉が不在でしたので、K兄が運転して下さいました。私も久しぶりに参加させていただきました。当日はいつものように9時半頃石巻教会に到着しました。すでに4名の方々が集まって下さいましたが、体の不調や各々都合があって5名の方々がお休みされるということでした。
 今回のクラフトの内容は短時間で出来る『キャンディーポーチ』です。彩りの美しい布地で作るものでとても可愛らしく2~3個作ってプレゼントするにはピッタリの小物です。皆さんは手を動かしながら、おしゃべりも楽しそうにしておられました。
 続いてチャペルタイム。まず『主われを愛す』を手話を交えて賛美し、体をほぐしていただきました。今回は高橋師がメッセージをして下さいました。お父様が79才で召されるまでのお話をして下さいました。その時、お父さんに「いずれ、私(高橋師)も天の御国に住きますから、先に往って御国で待っていて下さい。」と、また、「お父さんの人生には様々な辛いことや悲しみの度に流された涙も、神様はすべて覚えて下さっているよ。」と、静かに語られました。

『神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』(黙示録7:17b)

 それからティータイム。各テーブルに4~5名でしたので、お茶をいただきながら1時間位ゆったりとした中で交わりの時となりました。その中でSさんは西日本豪雨の被災の映像を見ていたら、3・11の震災当時の自分たちの状況と重なって見えて辛かったと心境を話してくださいました。「あの時、津波が来て家も車も何もかも流されてしまったけれど、みんなが同じように大変だったからね。」さらに、Sさんは義母様の介護することも自分の為にしてきたことで、それも家族として当然のことと語って下さいました。
 今になって思うことは、震災は悪いことばかりではないこともあって、却って以前の狭い地域でもしがらみや縛りがとれて何にも束縛されないという解放感さえ、私は感じていると、さっぱりした表情で心の思いを打ち明けて下さいました。本当に石巻教会が石巻の方々の心の拠り所となっていることを感謝致します。
                                 深澤まり子

      

牧師コラム 『和解と分裂』 2018年8月12日

 牧師 高橋勝義     

 私たちは、私たち人間を造られた神から離れ、背を向け、歩んできました。
 つまり親に逆らい、そこから出てきてしまい、自分の力で頑張っているのです。
 そこで、神はご自分との和解のために、神に逆らうすべての罪を、私たちに代わって、イエス・キリストに負わせ、十字架の上で死をもって処罰されたのです。

 イエス・キリストを信じるということは、私の罪のために死なれたことを認め、神に「ごめんなさい」と謝ることです。すると、神と私たちの間にあるわだかまり()のすべてが消え、神との和解が成立、平和が戻るのです。
 ところが、イエス・キリストは、『あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。(ルカの福音書1251)』と語っています。

 イエス・キリストを救い主と信じるということは、神の力に頼って生きる生き方に方向転換した人、つまり、新しい生き方に変えられた人のことです。
しかし、信じない人は、自分の力で頑張る生き方のままです。
イエス・キリストは、この二つの生き方を分裂と表現したのです。

 この分裂は、争いや憎しみ、恨みなどによって生じたものではなく、信じた者の新しい生き方がよく分からないところから来る偏見なのです。
 イエスを信じる者が置かれる状況を、前もって語ることによって、まことの神に従って生きる覚悟をうながし、また私たちを愛しておられる神を人々に知らせなさいと語っているのです。

牧師コラム 『忠実で賢いしもべ』 2018年8月5日

 牧師 高橋勝義     

 「備えあれば憂いなし」という諺があります。
 普段から準備しておけば、いざというとき 何の心配もないという意味です。
 イエス・キリストは、たとえを話されました。そのたとえは、「主人が、婚礼に招待され出かけたが、いつ帰って来るのか分からない。主人が真夜中、夜明けに帰って来ても、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いである。」というものでした。そして、『あなたがたも用心していなさい。人の子(イエス・キリスト)は、思いがけない時に来るのです。(ルカ12:40)』と締めくくるのです。
 帰りの全く分からない人を待つのは、とてもつらい事です。たとえに出てくる しもべにとっては、それが仕事ですから、辛いなどと言ってはいられません。
 彼に求められていることは、忠実さと状況を見極める賢さです。
 ところで、イエス・キリストは、「思いがけない時に再び来る」というのです。
 2000年前、地上に来られた目的は、私たちを罪から救うために十字架上で死ぬことでした。そして三日目によみがえり、天に戻られました。
 再びイエスがこの世に来られる目的は、さばきを行うためです。
しかし、イエスが再びこの世に来られるのはいつなのか、隠されているので、たとえを通して『いつ来られても良い備え』をしなさいと警告されたのです。
 では、どんな備えをすればよいのでしょうか?それは、イエスを救い主と信じ、神の子どもとして生きることです。神の子どもは、父の教え、即ち、御言葉(聖書)に忠実に聞き従って歩みます。そしてそれは、目を覚ました生き方になるのです。

牧師コラム 『隠れた労苦への報い』 2018年7月29日

牧師 高橋勝義     

 

 

 「終わりよければすべてよし」という諺があります。その意味は、物事は最終の結末がもっとも大事であり、途中の過程は問題にならないということです。
 確かに、最後がうまくいくならば、様々な苦労も報いられるというものです。
 しかし、途中の過程は、本当にどうでもいいのでしょうか?
 心の隅では、ここに至るまでの過程を誰かに見ていて欲しい、隠れた労苦を知って欲しいと思うのも事実です。たとえ、今までの苦労が報われなかったとしても、その間の自分の歩みを知っている人が一人でもいれば、それだけで慰めとなるからです。
 パウロは、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(Ⅰコリント人への手紙1558)」と語っています。
 パウロが語る主とは、イエス・キリストのことですが、そのお方が『人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。(マタイの福音書1627)』と約束して下さっています。

 人の評価は、常に、偏見や価値観、利害関係などに左右されますが、まことの神の評価は、えこひいきがなく、公平です。また、残された結果だけで判断するのではなく、途中の経過をも大切にして下さいます。

 ですから、あなたの隠れた労苦が主にあって無駄になることは決してないのです。
 あなたの歩みをつぶさに知っておられるお方、イエス・キリストと共に人生を歩みませんか?

牧師コラム 『さあ!天を見上げよ』 2018年7月22日

牧師 栗原延元

 

 

 前回(624)に続き、信仰の父アブラハムの生涯を学びます。
 アブラハムが主のみことばに従って、故郷を出立したのは75歳でした。そのときの主のお約束は、アブラハムの子孫は繁栄するという事でした。
 しかし、充分、老境に達しているアブラハム夫妻には子どもが、ありません。どんなに自分の身が栄えても、それを受け継ぐ子どもが生まれない事には、主のお約束は絵に描いた餅になってしまいます。アブラハムの心の中に、これから先の不安と、新しい環境に適応できるかという恐れが芽生えていました。
 そのアブラハムに、主は「恐れるな。わたしはあなたの盾である」と語りかけ、さらに夜、外に連れ出して「さあ!天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と主は語られるのです。(創世記155)
 アブラハムは、主の語られたことは、そのとおりになる(アーメン)と信じたのです。キリスト教は、アーメンの宗教とも言われます。アーメンの意味は、「そのとおり」ということです。
 主の語られた事に「アーメン」と唱える人を、主は喜ばれるのです。