牧師コラム 『神の国を求めなさい』 2018年7月15日

牧師 高橋勝義

 

 

 世の男性は家族の為に身を粉にして働き、主婦もやりくりして生活を支えます。
 さらに、歳を重ねると人の世話にならず、出来るだけ健康でいたいと心配します。
 ところで、イエス・キリストは、『あなたがたのうち誰が、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか(ルカ12:25)』と語ります。
 確かにその通りで、必要以上の心配はからだの健康を損ねるばかりです。
 続いてイエス・キリストは『むしろ、あなたがたは御国(神の国)を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。(ルカ12:31)』と語りました。
 これは、私たちを造られた神は毎日の必要な物をよくご存知なので、御国の民にはそれを備えて下さるという約束です。

 この御国(神の国)とは、神のご支配が満ちているところ、の意味であり、さらに御国の国民になるには、新しく生まれる必要があるのです。

 どうすれば、人は新しく生まれることが出来るのか…。

 『神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました(Ⅰペテロ1:3)』とあるように、『(イエス・キリストが)私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3,4)』を信じることなのです。
 そうすれば、誰でも新しく生まれた者となり、神の国の民となるのです。
 あなたも神の国の民になり、まことの神の守りの中で生きる者になりませんか?

2018年6月21日 クラフト教室・支援報告 第179回

〇日 時:2018年6月21日(木)
〇参加者:12名
〇奉仕者:仙台教会7名、石巻教会1名
〇場 所:石巻福音自由教会

 「折りたたみキルトで作るハンドバッグ2」として5月からの続きです。
今回は、キルテイングを終えた布地をバッグの形に縫い上げて、ファスナーと持ち手を付けて完成となりました。中には、2個目の制作に入っている方もあり、作業の早さに驚かされます。次々と素敵なバッグが出来上って行きました。
 嬉しいことに、今回若いご婦人の方が加わってくださいました。ご主人のお仕事(復興事業)の都合で仙台から渡波に引っ越されてきたクリスチャンの方です。参加者の方々にとって、娘のような、孫のような方で、みんなの中に喜びが溢れました。

 チャペル・タイムでは、「アメリカ大陸を腕で歩いて横断した人」ボブ・ウイーランドさんについてお話ししました。彼はベトナム戦争に徴兵され、戦地で地雷を踏み、両足を付け根から失って帰国します。彼はその時のことをこう言っています。「ベトナムのジャングルで、神に見放されたと最初は思った。がやがて、生かされたと思うようになった。それから前向きになった・・・日々生きているのが奇跡だった。」と。彼はこの苦しみを通して神様と共に歩む人生に入り、パワーリフティング、トライアスロン、マラソンへの挑戦。そして貧しい人々のために寄付を募りながら、アメリカ大陸横断に挑戦します。多くの困難を乗り越えて、3年8ヶ月を費やして、とうとうゴールします。「これまでもこれからも、私は主イエス・キリストともに生きていく。主を思うと自然に力がわいてくる。」と証ししています。

 7年前の大きな苦難を乗り越えて新たな生活を始められた方々も、今また様々な困難に直面しておられます。どうか、この主に出会い主とともに歩んで行って頂きたい。そして主からどんな困難をも乗り越える力を与えられてほしいと心から願っています。

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」
                           ピリピ4:13

 いつもこの働きを覚えて祈っていただいていますこと、また皆様方の心のこもったご支援に支られていますことを心から感謝申し上げます。
 引き続き、女川、石巻の方々の救いのために、また奉仕者のためにお祈りください。
 よろしくお願い致します。
                            (吉田真知子)

      

牧師コラム 『神に対して富まない者』 2018年7月8日

 牧師 高橋勝義

 

 

 群集の中のひとりが「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」とイエス・キリストにお願いしました。すると、主は「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではない」(ルカ12:15)と語り、それを人々に教えるために、一つのたとえを話されました。
 ある金持ちの畑が大豊作となり、その作物を入れる場所が足りなくなりました。そこで、倉を壊し、もっと大きいのを建て、自分の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分も一杯物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:1619)
 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:20,21)

 神に対して富まない者とは、まことの神に背を向けて離れ、神の教えに聞き従わず、自分のことしか考えないで歩んでいる人のことです。
 つまり、人生の目的をどこに置いているのかが、問われているのです。
 ですから、イエス・キリストは『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。』(マタイ16:26)と私たちに問いかけています。
 イエス・キリストは、私たちに「永遠のいのち」を得させるためにこの世に来られました。
 あなたの人生の目的は、富ですか、それとも永遠のいのちですか…。

牧師コラム 『まことの神を恐れよ』 2018年7月1日

 牧師 高橋勝義

 

 

 イエス・キリストは、パリサイ人の偽善に気をつけるようにと語りました。
偽善とは表と裏が違う二重人格的な生き方ですが、人々はパリサイ人の、人に良く見せる偽善に気づくどころか、彼ら指導者たちの言動を恐れていました。
 しかし、イエス・キリストは、『殺した後で、ゲヘナ(地獄)に投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:5)』と語られたのです。たとえ、うわべをいかに善人のように見せかけたとしても、『おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない(ルカ12:2)』のように、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる神の前では、すべてが明らかにされるからです。
 聖書は、『神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)』と記しています。
 また、『人間には、一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まっている(へブル9:27)』とも記しています。
 まことの神は、私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしました。そして、イエスを信じる者が滅びではなく、永遠のいのちを持つために、彼にすべての罪を負わせ、十字架刑で罪の処罰をされたのです。(ヨハネ3:16)
 『まことの神を恐れよ』とは、神はゲヘナに投げ込む権威を持っておられるお方であり、しかし私たちをそこから救い出して下る愛のお方であること、この事実を畏れと感謝をもって受け取り、このお方に聞き従う歩みをすることなのです。

牧師コラム 『さらにすぐれた故郷』 2018年6月24日

  牧師 栗原延元

 今回からしばらく、アブラハムについて学びます。
彼のことについては新約聖書のヘブル書11章8~19節にその信仰の生涯の要点がまとめられていますが、ひとことばで言うならば、アブラハムは「さらにすぐれた故郷」にあこがれてこの地上の生涯(波乱に満ち、次々に起こる困難に耐え)を送った人でした。
 アブラハムは75歳のとき、天の神の声に聞き従い、故郷を出立します。ヘブル書の著者は、「どこに行くのかを知らないで、出て行きました」と言います。一見無謀な行動のように見えますが、このアブラハムの心の中には、神が設計し建設された天の都を目ざす思いが芽生えていたのです。
 ですから、どこに行くのかを知らなかったと言われていますが、アブラハムは、どこに行ったとしても、何をなすべきなのかということを知っていました。それは、私どもは、地上では旅人であり寄留者であるということです。
 私どものまことの故郷は天にあるのですから、天に国籍を持つ者として、この地上では、慎み深く謙虚に歩まなければなりません。
 地上に宝をたくわえる生活ではなく、天に宝を積む者となることを、聖書から学んでいきます。

牧師コラム 『熱心さからくる矛盾』 2018年6月17日

牧師 高橋勝義

 

 

 矛盾ということわざは、どんな盾(たて)でも突き通すという「矛(ほこ)」と、どんな矛でも防ぐという「盾」を同時に売ろうとしている話しから来ています。
 物事の道理が一貫せず、つじつまの合わない話しなのは誰にでも分かります。
 イエス・キリストが、パリサイ人の家の食事に招かれ時のことです。
 当時、食事の前には、手を洗う慣わしになっていたのですが、イエス・キリストは、用意された器で手を洗うことをしませんでした。
 パリサイ人は、これに驚きました。そこで、イエス・キリストは、『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています(ルカ11:39)』と語り、また、彼らの高慢な態度と偽善を非難したのです。
 これを聞いていた律法の専門家たちは、自分たちも侮辱されていると怒ります。
 すると、今度は、律法の専門家たちに『人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。(ルカ11:46)』と語ったのです。
 イエス・キリストは、本来守るべきまことの神の教えよりも、いつのまにか、先祖たちの言い伝えの方を優先するようになっていることを非難したのです。
 彼らは、イエス様の忠告を受け入れられません。
 なぜなら、熱心が暴走し、自分たちの考えこそが正しいとなり、自らの姿が見えなくなっていたからです。
 ですから、聖書は「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい(Ⅱペテロ1:20)」と戒めています。
 大事なことは、素直に、神の語られた御言葉を毎日の生活の中に当てはめて歩むことなのです。

牧師コラム 『闇から光へ』 2018年6月10日

 牧師 高橋勝義     

 蛍光塗料は、光を蓄え、暗くなると、吸収した光を発散させて輝きます。
 しかし、その欠点は光を受けないと輝けないということです。
 イエス・キリストは、『からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)』と語りました。
 また、『わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネ12:46)』とも語っています。
 イエス・キリストは、私たちが「闇の中にいる」と言っていますが、闇の中にいるとは、まことの神に背を向け、自分の考えこそ正しいと信じる自己中心の人生を送っていることです。これが、聖書の示す罪なのです。
 罪がもたらすものは、「憎しみ・恨み・妬み・偽り」などです。これらが、人間関係を壊し、自分自身も傷つけます。心が病めば、からだも病むのです。
 この闇の中から脱出する方法は、光であるイエス・キリストを信じることです。
 しかし、人は自分が闇の中にいることが分かりません。
 十字架は、私たちが闇の中にいることを教え、光に導きます。
 ところが、私たちの心の目が曇っていると、光を見ているにもかかわらず、光が全く見えないのです。
 イエス・キリストは、私たちを闇の中(罪の中)から救い出すためにこの世に来られ、十字架の上で、私たちのすべての罪の身代わりとなって死なれました。
 この事実を受け入れ、イエス・キリストを信じる者となって、あなたも、闇から光の中を歩む人生に変わる道を求めてはみませんか…。