牧師コラム 『祈 り』 2018年5月6日

 牧師 高橋勝義     

 誰でも一度ならず祈った経験が、あるのではないでしょうか…。
 今日の聖書箇所は、イエス・キリストが弟子たちに祈りを教えられたところです。
 まず、最初に、最も重要なことは、祈り願うお方です。
 そのお方とは、私たちを造られたまことの神です。そのお方と共に歩む時、人は正しい歩みが出来るようになるのです。ですから、毎日の生活の中で、まことの神をほめたたえ、感謝と敬愛の心をもって祈るようにと教えられました。
 次に、日ごとの糧を毎日お与えくださいと、祈りなさいと教えられました。
 それは、まことの神が、私たちの日々の暮らしに必要なものを全て備えてくださるからです。毎日の食事を始め、日ごとの恵みは当たり前のことではなく、私たちを愛しておられる神がくださるものなのです。
 更に、自らの罪の悔い改めと、人を赦せるように、また試みから守られるように、祈りなさいと教えられました。
 なぜなら、まことの神の前に、自分の罪を認め、悔い改める時、神はイエス・キリストの十字架のゆえに、すべての罪を赦してくださるからです。
 神との関係が正されると、人間関係も回復するのです。自分の力では赦すことが出来なくても、心の中におられる聖霊の助けによって赦すことが出来るのです。
 人
間の親には限界がありますが、まことの神には限界がありません。
 その神を自分の父と呼び、祈るようにイエス・キリストは教えているのです。
 あなたも「天のお父さん!」と祈ってみませんか…。

牧師コラム 『必要なことは一つだけ』 2018年4月29日

 牧師 高橋勝義    

 マルタはイエス様を家に迎えて、もてなしのために忙しく動き回っていました。
 しかし、妹のマリアはイエス様の足元に座り、主の言葉を聞いていました。
 マルタは、妹のこの態度にしびれを切らし「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。(ルカ10:40)」とお願いしたのです。
 イエス様は、『必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。(ルカ10:42)』と語ったのです。
 私たちは、事の大小にかかわらず、日々、決断しながら歩んでいます。
 時には、自分の手に負えないような大きな問題に直面することもあります。
 問題を解決しようと動き回れば回るほど、空回りし、冷静さを欠き、訳が分からなくなってしまいます。このような時、聖書は、『イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)』と語っています。
 まことの神の前に静まりなさいと、聖書が語るのは、神の守りを思い起こし、神に信頼することこそが、問題を解決する力であることを教えているのです。
マリアはイエス様の御言葉を聞き、心にとどめることを最優先にしたのです。
 ですから、主は、『必要なことは一つだけです』と語ったのです。
 聖書は、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる(マタイ4:4)』とあなたに語ります。

 あなたは、何を最優先にしますか…。

牧師コラム 『あなたの隣人は誰か』 2018年4月22日

 牧師 高橋勝義     

  今日の聖書の箇所では律法の専門家が、「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」とイエスを試すために問いかけました。
 彼は、当然、その答えを知っていましたが、当時、神に仕える職にある人々は、律法(規則)を守ることに熱心で、あわれみや弱さを顧みる神の愛から逸脱していました。
 イエスは、「律法には何と書いてありますか。」と問い返し、「『あなたの神、主を愛しなさい』と『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」と答えた彼に、「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と命じます。
 更に「私の隣人とは誰ですか」と尋ねる彼に、イエスは、たとえを話されたのです。

 《強盗に襲われ半殺し状態で倒れている人のそばを、祭司、レビ人、サマリヤ人の三人が通りかかります。神に仕える祭司とレビ人は、「身を汚してはならない」という律法を守り、見て見ぬふりをして反対側を通り過ぎて行ってしまいました。ところが、サマリア人は、かわいそうに思い、自分たちを嫌っているユダヤ人を助け、宿屋に連れて行き介抱したのです。翌日、宿屋の主人にお金を渡し『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言って出かけて行った、というのです。》

 イエスは、「この三人の中で誰が、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と聞きました。彼は、「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えたので、イエスは「あなたも行って、同じようにしなさい」と命じます。(ルカ10:2537)
 彼は、御言葉を知っているのに真摯に向き合わず、日常生活の中で実践しようとしませんでした。彼のこの傲慢を、イエス・キリストは、戒め、そして、分け隔てなく愛される「神の愛」を教えられたのです。
 ところで、あなたの隣人は誰ですか。

牧師コラム 『カインとアベル』 2018年4月15日

 牧師 栗原延元

 今日は創世記4章を学びます。
 この章は〈人はその妻エバを知った。彼女はみごもってカインを生み、「私は主によってひとりの男子を得た。」と言った。〉をアダムとエバの夫婦に子が与えられ、人間の世界が、夫婦、親子、兄弟関係へと拡大、多様化していく姿が描かれています。それに伴って、神のみことばに背を向けた罪人としての人間の問題も拡大し、複雑化して行きます。
 文明とは、前章で示された罪の厳粛な事実とそれに対する神のあわれみへの個人個人の対応の集積として性格づけられていく(舟喜信)のです。
 しかし、文明は「神のあわれみ」を前提としている以上、ひとたび人が犯した罪によってもはや何の可能性も残されていない暗黒の文明ではないのです。
 むしろ神が介入され、神が語られるところにいつも「光」を見ることが出来るのです。
 文明の暗黒の最たるものは、殺人です。しかも兄(カイン)が弟(アベル)を殺すという骨肉の争いが創世記4章に書かれているのです。
 そのキッカケが主へのささげ物をするカインとアベルの姿勢であったところに罪の恐ろしさが顔を出しているのです。詳しくは礼拝の中で語ります。

 

2018年3月15日 バイパス東仮設支援 第176回

日時:2018年3月15日(木)
場所:バイパス東仮設
参加者:12名
奉仕者:7名(仙台教会6名、石巻教会1名)

 今日は、石巻井内のバイパス東仮設で行う「最後のクラフト教室」となりました。仮設の皆様からのご提案で、「お茶会」を行うことになりました。
 最初は、唱歌や懐かしい歌を歌いました。「四季のうた」、「かっこう」の輪唱、そして「思い出のアルバム」「今日の日はさようなら」。大きな声で、気持ちを込めて歌ってくださいました。楽しい振り付けの体操で身体をほぐした後、脳トレ「難読漢字クイズ・お魚編」にチャレンジしました。さすがお魚の町、女川の方々、ほとんど正解でした。
 心も体もほぐれた後、3月10日石巻福音自由教会で行われた「希望のコンサート」のCDから、キャサリン・ポーターさんのハープの演奏「さくらさくら」と信仰の証しを聞いて頂きました。キャサリンさんの飾らない真実な証しと力強い演奏にじっと耳を傾けてくださいました。
 昼食のお弁当をいただきながら、テーブルごとに歓談の時を持ちました。この7年間の様々なことを思い出して、涙ぐんでいる方もおられました。あっという間の7年。今、新しい歩みが、やっと始まったばかりです。いろいろなことが、まだまだ整理されないまま、心の中にしまったままの方がほとんどです。心の復興、本当の癒しはこれからだと強く思わされました。6年半、住み慣れた仮設住宅、みんなで集まった集会所も3月で閉じられます。思いがけず、「ここの生活は楽しかった」という声も聞かれました。これから再スタートとなる教会での「クラフト教室」のことも楽しみにしてくださっているようでした。教会が、被災された方々の心の拠り所となりますように、神様の愛が、おひとりおひとりの心に届いて、信じる心を起こさせてくださいますように。

 2012年、蕨福音自由教会の兄姉が支援活動に来てくださった時、米国福音自由教会の宣教師ギルバート夫妻やロング夫妻と共に、主に導かれるようにして、この仮設を訪れてくださいました。その後、間もなくここで知りあった方を通して両宣教師によるクラフト教室が始められたのです。2年後、一次的に帰国しなければならなくなった両宣教師に代わって、仙台福音自由教会のパッチワーク教室のメンバーが引き継ぎ、4年間クラフト教室を続けることができました。初めは聖書のことはあまり自由に話せない雰囲気がありましたが、徐々に信仰の話もできるようになりました。多くの方々の篤い祈りとご支援に支えられたことを心から感謝致します。
 4月からは、石巻福音自由教会に場所を移して、クラフト教室が行えるようになったことを感謝致します。引き続き、集まってくださる方々の魂の救いのために、また、奉仕者が整えられて心から仕えることができますようにお祈り頂けたら幸いです。
 よろしくお願い致します。
                                吉田真知子

  

牧師コラム 『名が天に書き記される』 2018年4月8日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストによって、町に遣わされた七十二人の弟子たちは、帰って来るなり「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」(ルカ10:17)と喜びの報告をしました。
 ところが、イエスは、弟子たちに『霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』(ルカ10:20)と語ったのです。なぜ、このように語ったのでしょうか。
 聖書は、世の終わりについて『見よ、わたし(イエス・キリス)はすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。』(黙示22:12)と語っています。
 世の終わりの時には、まことの神を認めず、背を向けて歩んで来た【罪】に対するさばきがあるのです。それ故、イエス・キリストは、このさばきから私たちを救うために、その罪を身代わりに負い、十字架で死なれたのです。
 すべての人を神のさばきから救うためです。
 さばきから救われるために必要なことは、自分の罪を認め、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることです。
 その時、あなたの名は天に書き記されるのです。
 ですから、イエス・キリストは、あなたの名が天に書き記されることを人生の最優先にしなさいと語るのです。
 あなたにとって、人生の中で最優先しているものとは何でしょうか…。
 イエス・キリストは、『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか』(マルコ8:36)とあなたに語りかけておられます。

牧師コラム 『よみがえられたイエス』 2018年4月1日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストは、十字架の上で死なれ、墓に葬られました。
 日曜日の朝、マグダラのマリヤともう一人のマリヤは、墓に行き、御使いに『ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。(マタイ28:6)』と告げられたのです。
 さらに、イエス様は、弟子たちの前に現れ、ご自身が幽霊ではなく、からだをもってよみがえったことを示すために、焼いた魚を食べられたのです。

 人間の理性や常識では、とても考えられないことですが、天地万物を造られたまことの神には『不可能なことは何もありません(ルカ1:37)』なのです。

 このイエス・キリストのよみがえりは、私たちの人生にどう関わるのでしょうか。
 第一に、イエス・キリストのよみがえりは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたのですが、これは終わりの日に、私たちもよみがえることの証なのです。
 第二に、イエス・キリストのよみがえりは、よみがえられた新しいいのちを私たちに与えます。このいのちを頂いて、私たちは、新しい人生へと踏み出すのです。

 ですから、イエス・キリストのよみがえりは、とても重要なのです。
 では、どうすれば、この素晴らしい新しいいのちを頂くことが出来るのか。
 聖書が、『御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)』。また、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)』と語っているように、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることなのです。

牧師コラム 『神の国が近づいた』 2018年3月25日

 牧師 高橋勝義     

 天気予報のない時代、「夕焼けになると次の日は晴れる」と人々は経験から言っていました。先人たちの知恵は、今も私たちを助けています。
 そのような先人たちの知恵をもってしても、解決できないのが人の死です。
 聖書にも『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。(3:11)』とあるように、死は誰でも気になることなのです。
 私たちの将来、即ち、死後について教えてくれる指針はあるのでしょうか。
 イエス・キリストは、『時が満ち、神の国が近づいたから、悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)』と語り、神の国の福音を人々に宣べ伝えました。
 神の国が近づいたことが、私たちの人生にどう関わるのでしょうか。
 実はこの福音が、この問題の解決を示すものなのです。
 イエス・キリストの十字架は、神の国が近づいたことの〔しるし〕であり、指針だからです。ですから、イエス・キリストは『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)』と語りました。
 神の国の福音を信じるとは、まことの神から離れ背を向けていた罪の歩みをやめ、神とともに歩む道へと方向転換することです。これが、悔い改めです。
 罪の赦しと滅びからの救い、永遠のいのちを備えられたイエス・キリストは、『生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。(ヨハネ11:26)』と今日もあなたに問いかけているのです。