「終わりよければすべてよし」という諺があります。その意味は、物事は最終の結末がもっとも大事であり、途中の過程は問題にならないということです。
確かに、最後がうまくいくならば、様々な苦労も報いられるというものです。
しかし、途中の過程は、本当にどうでもいいのでしょうか?
心の隅では、ここに至るまでの過程を誰かに見ていて欲しい、隠れた労苦を知って欲しいと思うのも事実です。たとえ、今までの苦労が報われなかったとしても、その間の自分の歩みを知っている人が一人でもいれば、それだけで慰めとなるからです。
パウロは、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(Ⅰコリント人への手紙15章58節)」と語っています。
パウロが語る主とは、イエス・キリストのことですが、そのお方が『人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。(マタイの福音書16章27節)』と約束して下さっています。
人の評価は、常に、偏見や価値観、利害関係などに左右されますが、まことの神の評価は、えこひいきがなく、公平です。また、残された結果だけで判断するのではなく、途中の経過をも大切にして下さいます。
ですから、あなたの隠れた労苦が主にあって無駄になることは決してないのです。
あなたの歩みをつぶさに知っておられるお方、イエス・キリストと共に人生を歩みませんか?