牧師 高橋勝義 |
イエス様は『迷子になった一匹の羊』『紛失した銀貨』のたとえから、まことの神は失われた者を見つけるまで捜し続ける愛のお方である、ことを私たちに語りました。
それに続く三つ目のたとえは、本日の聖書箇所『失われた息子のたとえ』です。
父に財産を分けて欲しいと願った弟息子は、遠い国に旅立ち、財産を湯水のように使い果たしました。そして、激し飢饉が起こった時、彼を助ける人は誰もいませんでした。空腹で豚の餌で腹を満たしたいほどだった彼は我に返り、「罪を犯していることに気付き」、父のもとへ向かったのです。ところが、まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけ、駆け寄り彼の首を抱き、口づけし、『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』と言って祝宴を開いたのです。
どこにでもあるような話ですが、これは、神(創造主)と私たちの関係について語っています。
私たちは、私たちを造られた神から離れ、背を向け、それぞれ自分勝手な道に向かっていき、その歩みは迷子の羊のようにさまよっているのです。
「我に返った」弟は、そこが自分のいる場所ではないことを悟ったのです。
父なる神は、私たちが神のところに戻るのを妨げている罪をすべてイエス・キリストに負わせ、十字架の上で処罰することによって、ご自身との関係を修復し、私たちを滅びから救う道を備えられたのです。
あなたが、十字架を仰ぎ見て、神の方に向きを変えるならば、今のあなたがどんな状態であろうと父なる神はそのまま受け入れ、赦し、愛の御腕の中にあなたを包んで下さるのです。
立ち止まって、自分の人生を見つめなおしてみませんか?