牧師コラム 『越えられない大きな淵』 2018年12月9日

牧師 高橋勝義

 金銭を好むパリサイ人に、イエス様はたとえ話しをされます。
『毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの門前に、できものだらけの貧しいラザロという男がいた。しばらくして、ラザロは死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。金持ちは、よみで苦しみながら目を上げると、アブラハムの懐にいるラザロが見えたので、「父アブラハムよ、私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、彼をよこしてください」と懇願した。しかし、アブラハムは「私たちとおまえたちの間には大きな淵があるので、渡ろうとしても渡れず、越えて来ることもできない」と告げる。金持ちは、残してきた兄弟五人を思い、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、「彼らに警告してください。」と懇願しますが、アブラハムは「彼らはモーセと預言者の言うことを聞くがよい。」と答えます。なおも、金持ちは「死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。」と食い下がるのですが、アブラハムの答えは「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れない。」でした。(ルカ16:1431)
 聖書は、「人間は一度死ぬここと死後さばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と語ります。
 死後、私たちを待ち受ける絶望と苦しみをイエス・キリストは十字架の上で代わりに受けて下さいました。
 誰でも、イエス・キリストをからの救い主として信じる時、死からいのちに移され、絶望と苦しみから救われるのです。
 越えられない大きな淵を越えさせて下さるお方が、イエス・キリストなのです。