牧師コラム 『祈りの家』 2019年3月10日

牧師 高橋勝義

 明日に期待し、良い未来があるようにと人は祈りをささげます。
 イエス様が、エルサレムにある神殿に入られた時の出来事です。(ルカ19:41~48)

 イスラエル人は、毎年神を礼拝するためにエルサレムの神殿に出かけて行くのですが、聖なる神を礼拝する時には、自分の罪の贖い(あがない)をしなければなりません。そのためには献げ物(いけにえの動物)が必要でした。
 しかし、遠方からエルサレムに向かう人々には、動物を連れて行く旅は大変です。
 そこで、神殿で動物を売る人々や両替商が現れたのです。
 いつしか、祈りの家であるはずの神殿は商売の場となり、不当な利益を得る場所になってしまい、それを憂えたイエス様は、商売人たちを追い出し始めたのです。
 神は、『今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。(Ⅱ歴代誌7:15,16)』と語っておられます。
 神殿は、お金儲けの場ではなく、祈りをささげる場です。
 イエス・キリストご自身が十字架で罪の犠牲となってくださったので、私たちのすべての罪が赦されること、日々神の恵みに守られていることへの感謝、また、心の内にあるすべてを神に注ぎ出して祈るのです。どのように祈って良いか分からない時も、私たちの内におられる聖霊が、祈りを導いてくださるのです。
 私たちを愛してやまない、まことの神がすべてにおいて最善をして下さると信じる信仰をもって祈ることが大切なのです。
 あなたは祈る時、どこに向かって、どのように祈っていますか?

2019年1月17日&2月21日 クラフト教室・支援報告 第184回&第185回

・参加者:1月17日:13名  2月21日:12名
・奉仕者:仙台教会7名 石巻教会 1名

1月のクラフト教室では、「お花の巾着袋」の一回目でした。新春にふさわしいピンクまたは薄紫の小花の可愛らしい巾着袋です。まず巾着の土台部分そして5枚の花びらを作りました。
2月は、「お花の巾着袋」の仕上げです。花びら5枚と土台となる部分を縫い合わせ、組み立てて行きました。最後にひもを通して可愛い巾着袋の出来上がりです。皆さん、順調に仕上げて、後の時間はゆっくりとおしゃべりタイムとなりました。
 チャペルタイムでは、株式会社ライオンの創始者小林富治郎についてお話ししました。事業に失敗し、進退窮まった彼は、北上川の橋の上から身を投げようとしたその瞬間、稲妻のように御言葉がひらめいたのでした。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブル12:11)
これはかつて受洗した神戸の教会の長田牧師が送ってくれた御言葉でした。「そうか、この試練は私を鍛え、成長させるためのものなのか。」と御言葉を受け取り、自殺を思いとどまったのでした。そして再び事業に取り組む勇気を奮い起こし、東京で新たな事業を始め、それがライオンへと発展したということでした。成功後、彼は、積極的に慈善事業を展開し、岡山孤児院などの開設に力を尽くしました。
 聖書は神様から人間に宛てられた手紙。励ましや慰め、生きる力また人生の指針を与えてくれる「奇跡の書物」です。聖書の言葉を受け取り、自分自身に当てはめるなら必ず力が与えられ、どんな試練も乗り越えることができるとお伝えしました。お一人ひとりの日々の歩みが、神様によって守られ、平安と希望に満ちたものとなりますように。
 厳しかった冬の間も守られてこの働きを続けることできました。いつもお祈りくださりご支援くださる兄姉に心から感謝致します。集われている方々の救いのために、準備に当たる奉仕者のために引き続きお祈りください。感謝しつつ。

                                            仙台福音自由教会
                                               吉田真知子

              

牧師コラム 『主がお入り用なのです』 2019年3月3日

牧師 高橋勝義

 「あの人は、箸にも棒にもかからない」と言われたら、悲しいですよね。
 反対に、「あの人にすべてを任せておけば大丈夫」と言われたら、嬉しいですよね。
 誰でも、『自分を必要とされたい』と思うものです。
 イエス様はエルサレムに向かう途中、二人の弟子に、まだだれも乗ったことのない子ロバを連れてくるように命じます。
 当然、ロバの持ち主たちは「どうして子ロバをほどくのか」と尋ねましたが、イエス様の指示通りに弟子たちは「主がお入り用なのです」と答えました。
 二人の弟子は、無事、ロバの子を連れて来ることが出来ました。
 そして、弟子たちは自分の上着をロバの背に掛けて、イエス様をお乗せしました。
 イエス様が進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷き、喜びのあまりに大声で「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」と神を賛美し始めたのです。(ルカ19:29~38)
まだ何の役にも立たないと思われる子ロバを、イエス様は用いられたのです。
 イザヤ書43章4節に「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたし(神)はあなたを愛している。」とあります。これは、『家柄、財産、地位、才能などがあるから「高価で尊く、愛する」のではなく、ありのままの私たちを「高価で」なおかつ「愛している」と、まことの神が、言って下さる。』という意味です。
 イエス様は、あなたをかけがえのない存在として認めてくださるから「主がお入り用なのです」とあなたに語るのです。この招きを真摯に受け止めイエス様に従いましょう。

牧師コラム 『ヨセフ物語(前半)』 2019年2月24日

牧師 栗原延元

 前回(1/27)は、「陽はまた昇る」と題して、ヤコブの人生を転回させる出来事を学びました (創世記32章のヤボクの渡し) 。その後でヤコブは生まれ変わり、「イスラエル」と名乗るのです。この名がその後の神の選民となります。
 「アブラハム、イザク、ヤコブ」とイスラエルの族長の物語が、民族へ拡大する契機となったのがヨセフ物語です。ヨセフの生涯を貫く精神は「仕える」という事です。彼はまず、家族に仕えます。この中で、兄たちの反感を買って、エジプトに売られ、パロの廷臣、その侍従長ポティファルの奴隷として仕えますが、ぬれぎぬを着せられ、監獄に監禁され、囚人に仕えます。その後ヨセフは解放され、パロに仕え、エジプトの国難を救うようになり、最後は、自分を売った者たちに仕え、彼らの生命を救うことになるのです。
 ヨセフは波瀾万丈の生涯を送ります。その生涯を父ヤコブは《彼の弓はたるむことなく》(創世記49:23)と語っています。「弓はたるむことなく」とは、弓は張っているが弦がゆるんでいたことがないの意味です。ヨセフは、どんな環境の中に置かれても、そこで神と人とに仕える道を選んだのでしょう。ヨセフ物語は実に爽やかです。その爽やかさを今日の礼拝で感じていただけますように。

牧師コラム 『神の国への備え』 2019年2月17日

牧師 高橋勝義   

 イエス様は、ご自分が再び地上に戻って来られる(再臨)時まで、私たちがどのように過ごすべきかを教えるために、一つのたとえを話されました(ルカ19:1128)
 ある身分の高い人が、王位を受けるために遠い国に旅立つ時、しもべたちに十ミナのお金を与え、これで商売をするように命じます。身分の高い人とは、十字架に向かって進んで行かれるイエス様ことであり、商売を命じられたのは私たちのことです。イエス様は、王位を受けて帰って来た時(再臨)、しもべたちを呼び、もうけ話しを聞きます。そして彼らに「よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だった。(ルカ19:17)」と褒めるのです。ところが、ご主人を恐れ、お金を失わないように布に包んでしまっていたしもべには、悪い評価が下されたのです。
 イエス様が「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため(ルカ5:32)」と語ったように、今は救いの時です。
 しかし、イエス様が再びこの地上に来られると、さばきが行われるのです。
 再びこの地上に来られるまでのこの救いの時に、イエス様は、神の国の福音を私たちにゆだねられたのです。そして、私たちが、神の国の福音を宣べ伝える働きが出来るようにと、一人一人に「賜物」を与えてくださったのです。
 また、イエス様を信じるすべての人に内住しておられる聖霊が、私たちを励まし、助け、時には戒め、賜物が生かされるようにと導いてくださるのです。
 賜物に優劣はなく、忠実に用いる時に神の称賛が与えられるのです。
 あなたに与えられている賜物を布に包まず、聖霊にゆだね、用いましょう。

牧師コラム 『ザアカイ』 2019年2月10日

牧師 高橋勝義   

 今日はルカの福音書19章に登場する「ザアカイ」の話しです。
 当時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されていましたが、ローマ帝国は、税金を集める方法として、支配している国の人々を取税人に任命し、納税させていました。
しかも、いくら徴収するかは取税人にまかせ、一定額をローマに納めれば良いというきまりでしたから、当然のように取税人たちは必要以上のお金を取り立てました。
 「憎まれっ子世にはばかる」のたとえの如く、取税人は、嫌われ者・厄介者でした。ザアカイはその取税人のかしらでしたから、人々は彼に近寄らず、いつも孤独でした。
 その彼がイエス様のうわさを耳にし、近くを通られるお姿を見ようとしたのですが、背の低い彼は群衆に阻まれ、やむなくいちじく桑の木に登りました。
 イエス様はその場所に来ると、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」と言われたのです。
 人々は「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言いました。
 当のザアカイは、自分の名が呼ばれたことにも驚きましたが、ありのままの自分をすべて受け入れて下さるイエス様の愛に触れ、「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と約束したのです。彼の人生は、この瞬間から全く新しくされたのです。
 イエス様は、「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです(ルカ19:10)」と語られたように、まことの神から離れ、自分中心の歩みをして、さ迷っているあなたを捜し、救うために、この世に来て下さったのです。

牧師コラム 『わたしに何をして欲しいのか』 2019年2月3日

 牧師 高橋勝義   

 「私に何をして欲しいのか」と尋ねる人がいたとしたら、どうしますか?
 相手にもよるのでしょうが、自由に何でも願い事を言えるでしょうか…。
 聖書には、イエス様からこの質問を受けた盲人の記事が記されています。
 この盲目の人は、道端に座り、物乞いをしていたのですが、周りが騒がしいので、「これはいったい何事か」と尋ねました。そして、ナザレ人イエスがお通りになると知ると、大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び続けました。そんな彼に、イエス様が「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねたのです。彼は、即座に「主よ、目が見えるようにしてください」と答え、イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と言われたのです。すると、すぐに目が見えるようになり、彼は神をあがめながらイエスについて行ったのです。
 彼の姿を見たイエス様には、その願いは察しがつきます。それなのに、なぜ、あえて尋ねたのか…。それは、彼の本心を引き出し、確認させるためでした。
 人は、質問する相手の腹の中を探ります。警戒しながら色々考えますから、初めから素直にはなれません。しかし、これは痛い目に遭わないための処世術でもあります。
 盲目の彼は、自分の置かれている現実を自覚し、そのうえで、イエス様なら必ず自分を救って下さると信じて、願いをストレートに訴えたのです。

 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる(詩篇34:18)」と聖書に約束されている通りです。
 あなたも、心の中にある色々な思いをストレートに、イエス様にぶつけてみませんか?