牧師コラム 『とこしえの王国』 2022年12月4日

 牧師 高橋勝義

〔Ⅱサムエル7:1~16〕
イスラエルの王となったダビデは、神の契約の箱をエルサレムに運び入れますが、自分は杉の家に住みながら、神の箱が未だに天幕の中にあることが心苦しく、預言者ナタンに相談します。その夜ナタンに「行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。~ わたしが、なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのかと、一度でも言ったことがあっただろうか。~ あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」と主のことばが告げられます。神が約束されたイスラエルの王座は、ダビデから息子ソロモンに引き継がれますが、ソロモンの不信仰により、国は分裂し、その後バビロンに滅ぼされてしまいます。

 キリストが生まれる約700年前、預言者イザヤは、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。(イザヤ9:6~7)」と救い主の誕生を預言します。時が満ち、御使いがマリアに「神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。(ルカ1:30~33)」と語ります。

 こうして、救い主イエス・キリストがダビデの家系から生まれ、ここに神の約束が、成就したのです。とこしえの王国の王座に座すお方、すなわち、キリストは、とこしえの王国(天の御国)に私たちを招くために、人となってこの世に来られたのです。

 あなたは、キリストの救いの招きを受け取られたでしょうか。
聖書は、キリストを信じる者の国籍は天にある(ピリピ3:20)と約束しています。

牧師コラム 『信仰の応答』 2022年11月27日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト20:18~26〕
神がモーセを通して十戒をイスラエルの民に授ける中、山は煙に包まれ、雷鳴、稲妻、角笛の音が鳴り響き、民は身震いしながら遠く離れて立っていました。

 民がモーセに「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」と願うと、モーセは「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたが正しく神を恐れ、罪から遠ざかるようになるためです。」と、告げます。神はさらに、「銀や金の神々を造ってはならない」と命じ、祭壇を土で造り、その上に全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げるように命じました。
これは、主を礼拝するためです。

 そして「わたしを礼拝するすべての場所であなたがたを祝福する」と約束されたのです。 シナイ山全体を震わす数々のしるしを通して、イスラエルの民は神への恐れに衿を正し、罪から遠ざかります、と心を定めて、「私たちは聞き従います」と信仰の応答をしました。

 これらの出来事はすべて神の御配慮、愛でした。しかし時が過ぎると、神へのささげ物やいけにえは、形だけのものとなってしまいました。そして神は今、私たちに「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(Ⅰサムエル15:22)」と、形式ではなく、キリストを信じた時の喜びに帰ることを促しています。ところで、あなたのささげる礼拝は、イエス・キリストを心から喜び、感謝する礼拝でしょうか。

牧師コラム 『人としての歩み』 2022年11月20日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト20:12~17〕
神がくださった十の戒めの後半は、人と人との関係に必要不可欠な戒めです。
第五はあなたの父と母を敬え、第六は殺してはならない、第七は姦淫してはならない、第八は盗んではならない、第九はあなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない、第十はあなたの隣人の家を欲してはならないです。

親との関係について、次に、人と人との関係について語られていますが、今から約3500年も前に、すでにこのような戒めが与えられていたことに驚かされます。
聖書には、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。(創 6:5)」とありますが、この戒めを与えてくださったお方、すなわち、天地万物の創造主である神が、私たちを愛するがゆえに幸せに生きるための「人としての道」を具体的に教えてくださったのです。

現代は科学も進歩し、生活も豊かになりましたが、残念ながら、人の心は今も昔も変わってはいません。特に私たちの心の中にある貪欲は、尽きることがありません。
聖書は「ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです(ヤコブ3:16)」と私たちに警告しています。
イエス・キリストは、私たちのすべての罪を十字架で身代わりに負い、罪の贖いを成し遂げてくださいました。それによって、私たちに神の愛が注がれていることが分かったのです。

 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」

牧師コラム 『わたしの他に神はいない』 2022年11月13日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト20:1~11〕
主はイスラエルを、エジプトの奴隷生活から、数々のしるしと不思議をおこなって、救い、導き出してくださったお方です。さらに、神の山シナイ山の麓で、神の民として歩むために必要な戒めを示してくださいました。

 その戒め(十戒)の前半は、神との親しい関係を保つために必要不可欠な四つの戒めです。第一は主だけを礼拝する、第二は偶像をつくってはいけない、第三はいたずらに主の御名を唱えない、第四は安息日(神を礼拝する日)の遵守です。

 ところで、日本人の生活に深く浸透している神観は「汎神論(はんしんろん)」です。それは、万物には神が宿っており、一切が神そのものであるとする考えです。それゆえに、八百万(やおよろず)の神々が生み出されたのです。
しかし聖書に「山々が生まれる前から地と世界をあなたが生み出す前からとこしえからとこしえまであなたは神です。(詩篇90:2)」とあるように、天地を造られたまことの神は、ご自身が選び、備えたイスラエル民族を通して、ご自身こそがまことの神であることを世界に明らかにされました。同時に、イスラエルをエジプトから救い出されたまことの神は、イスラエル人だけの神ではなく、私たちすべての人の神でもあることを示しておられます。

 ところで、あなたにとって神は、困った時だけ頼る「神」になってはいませんか。

 とこしえからとこしえまで神であるお方は、あなたとともに歩むことを願っておられ「わたし(神)に聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである(箴言1:33)」とあなたに語りかけておられます。

牧師コラム 『主の御前に近づこう』 2022年11月6日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト19:9~25〕
エジプトを脱出したイスラエルは主の御翼に守られ、シナイ山の麓に導かれて来ました。 「私たちは主の言われたことをすべて行います」と応答するイスラエルの民に、主はモーセを通して、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、また民いる麓と主のご臨在される山との間に境界線を設けるようにと告げられます。三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響き、民が震え上がる中、主がシナイ山に降りて来られると、シナイ山は全山がかまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えました。 主は、モーセを山の頂に呼ばれ、モーセは登って行ったのです。

この後、主はイスラエルに聖所(幕屋)を造らせ、その中に至(し)聖所(せいじょ)を設けさせます。 それは「わたしは彼らのただ中に住む(出エ25:8)」ためでした。そして、大きな垂れ幕で仕切られた至聖所には、大祭司だけが年に1度の贖罪の日に、いけにえの動物の血を携え、入っていきました。しかし、イエス・キリストが私たちのすべての罪を負い、十字架の上で血を流され、罪の贖いを成し遂げてくださった時、「神殿の幕(至聖所の幕)が上から下まで真っ二つに裂けた(ルカ15:38)」のです。この至聖所の幕が裂けたことによって、神と私たちの間にあった仕切りが取り除かれ、私たちは神と自由に交わることができるようになったのです。
これは、神の愛であり、恵みなのです。

「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(へブル4:16)」

牧師コラム 『私たちの内で輝くイエス・キリスト』 2022年10月30日

 牧師 高橋勝義

 「クリスチャンは聖書を読み、ノンクリスチャンは信者を読む(見る)」と聞いたことがあります。確かに、私は毎日聖書を読みますが、果たして、そのみことばに信頼して生きているだろうか、また「神は愛です」と語りながら、自分はどれだけ神の愛が分かっているのだろうか、と自問自答を繰り返しているのも事実です。

 メッキの剝がれた金属は、光沢や美しさが消え、あっという間にサビまで出てきます。同じように、イエス様からずれてしまうと、私たちの心は、喜び、平安、感謝を失います。ですから聖書は、どのように歩めば良いのか、はっきりと、このように教えています。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい(へブル12:2)」とはいえ、頭で分かっていても、思うに任せないのが私たちでもあります。

 その私たちに向かって、イエス・キリストは「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである (Ⅱコリント12:9)」と語っておられます。どんな時でも、ありのままの姿を受け入れてくださる神の愛と恵みに感謝しつつ、不完全な私たちを通して、救い主なるイエス・キリストの福音を人々のもとにお届けできますように、神の愛が人々の心に届くことを心から願っています。私たちは弱くても、私たちの内で輝いてくださるイエス様に期待して歩んでいきましょう。

 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)」

牧師コラム 『キリスト者の使命』 2022年10月23日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト19:1~8〕
モーセとイスラエルの民は、エジプトを出てから四十五日目に、シナイの荒野に入り、シナイ山の麓に宿営します。神はモーセを呼び、民に「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」と告げるように言いました。

 神の民として選び出されたイスラエルの父祖アブラハムは、その召しに従い、生まれ故郷を離れ、まだ見ぬ約束の地へと出発しました。そのアブラハムに与えられた約束は、イサク、ヤコブへと引き継がれていきます。そして今、まさにイスラエルを約束の地に導こうとされるこのとき、神はアブラハムを召しだした目的、すなわち、みこころを明らかにされたのです。

 そのみこころとは、イスラエルが「祭司の王国、聖なる国民」となり、全世界の国々に生けるまことの神を証しする使命です。私たちは、キリストを罪からの救い主と信じる者、すなわちアブラハムの霊的子孫です。それゆえイスラエルに与えられたこの使命は、私たちに与えられた使命でもあるのです。私たちは、生けるまことの神を礼拝し、神を知らない人々に神の愛と聖さを証しすることによって、与えられた使命を果たすことが出来るのです。

「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(Ⅰペテロ2:9)」

牧師コラム 『賜物を生かそう』 2022年10月16日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト18:13~27〕
モーセのもとにやって来たしゅうとのイテロは、モーセが民のためにしていることを見て、このままではモーセも民も疲れ果ててしまうと気づきました。そして「民を大中小のグループに分け、その長として、神を恐れ、力のある、誠実な人たちを選び、大きな問題以外は彼らにさばかせ、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。」と、神の導きの中で助言したのです。
モーセはイテロのこの助言を素直に受け入れ、謙虚に民に協力を求めました。

 聖書は「(主を信じる)あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です(Ⅰコリント12:27)」と語っています。さらに、教会とはキリストのからだである私たちのことを指しています(エペソ1:23)。このキリストのからだである教会(私たち)を建て上げる(主の栄光を現すものとする)ために、「御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださる(Ⅰコリント12:11)」のです。
ですから、主を信じる私たち一人ひとりには、必ず賜物が与えられています。
聖霊があなたに賜物を与えられたのは、あなたの賜物を用いて、主を信じる私たち(教会)が神の栄光を現すためなのです。

 ところで、あなたは、自分に与えられている賜物を自覚しているでしょうか。
あるいは、自分に与えられている賜物が何であるかを神に祈り求めていますか。

 「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい(Ⅰペテロ4:10)」

牧師コラム 『神の愛に動かされて』 2022年10月9日

 牧師 高橋勝義

2011年3月11日、東北の太平洋沖を震源とする大地震と巨大津波のニュースが全世界を駆け巡りました。それは人々に大きな衝撃を与え、被災地には世界各地から多くの支援が届けられ、ボランティアの方々もたくさん来てくださいました。世界中のクリスチャンが神に祈りの手を上げる中、福音自由の諸教会も直ちに動き出し、被災地支援活動が始まりました。

そして神は、この緊急支援活動の働きを、時間の経過とともに魂の救いの働きへと導き、震災前には教会がなかったこの地にキリストの愛を宣べ伝え、聖日の礼拝を捧げる教会を、との祈りに答えてくださったのです。そしてついに2014年の秋、献堂式を迎えました。それはこの地の魂を愛する神の熱心と、諸教会の祈り、そして尊い支援によるものでした。

お茶っこ会に来られているひとりのご婦人が、仮設にいた頃の教会の支援活動の様子を見て、「私もあの人たちのようになりたい」と思われたのだそうです。
このことを聞いた私は、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります(ヨハネ13:35)」と、主が語られたみことばを思い出しました。

イエス・キリストが私たちのために、十字架で死んでくださった愛のゆえに全世界の教会が喜んで犠牲を払う、その姿を通して、この地の方々の心にキリストの愛が届いたのです。

イエス・キリストの十字架の愛が、さらに深く人々の心に届き、「自分の口でイエスを主と告白し、心で神はイエスを死者の中からよみがえらせた(ローマ10:9)」と信じる魂が起こされ救われることを切に祈り願っています。