今日のメッセージ 『神はすべてご存じ』 2023年2月26日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト23章1~9節〕

 ここでは、神がイスラエルの民に与えた十戒の第九番目、「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」についての具体的な説明と神の思いが語られています。
偽りやうわさ話、悪意の証言を禁じ、多数になびいて悪の側に立つことはもちろんのこと、反対に同情心から弱い者をことさら重んじることもしてはならないと言われます。
神は、あくまでも事実だけを語り、証言することを求めておられるのです。
また、あなたの敵の牛やロバが迷っているなら、必ず飼い主の元に連れ戻す。さらに、あなたを憎んでいる者のロバが重い荷の下敷きになっているなら、必ず彼と一緒に助け起こしてやるようにと言われます。それは同じ神の民、同胞に対してすべきことだからです。訴訟においても、貧しい者たちへのさばきを曲げないこと、賄賂を受け取らないことを定められました。賄賂は、聡明な人さえも盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからです。

 神は、私たちの心の中のはかりごとさえも、すべてご存じです(Ⅰコリント4:5)。それゆえ、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されていて、この神に対して私たちは申し開きをしなければなりません(へブル4:13)。このお方を恐れて生きることが正義と公平さを保つ鍵なのです。私たちはこの神の前に日々歩んでいるのですが、神に喜ばれる歩みからかけ離れた者であることも事実です。神に喜ばれる歩みは、自分の力では到底できません。それをご存じの神は、聖霊をこの世に送られ、このお方によって、キリストの死が私たちの罪のためであると私たちに悟らせ、神の愛を明らかにされたのです。

 この神の愛に生かされ、聖霊に満たされて歩む時、真の力が与えられるのです。

牧師コラム 『あなたの隣人は誰か』 2023年2月19日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト22章21~31節〕
かつてイスラエルの民は、エジプトで奴隷の民となっていました。しかし神は、彼らの叫びを聞かれ、モーセをリーダーとして遣わし、エジプトから救い出されたのです。ですから神は、神の民イスラエル人に自分たちがエジプトで奴隷であった時のことを思い出し、寄留者、やもめ、みなしごたちを、苦しめてはならないと諭します。また金銭の貸し借りなどにおいても、同族からは利息を取ってはならないとされたのです。

 さらに神は、「あなたがたは、わたしにとって聖なる者でなければならない」と命じられました。それは神ご自身が「聖」だからです。同時に、神は愛のお方ですから「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。(レビ19:18)」と命じました。ですから、「聖なる者」とは、自らの歩みの中に神の愛を実践する者のことです。

 イエス様はこのことについて、たとえ話し(ルカ10:25~37)を用いて語っておられます。そのたとえとは、強盗に襲われ、瀕死の重傷を負った人のそばを祭司、レビ人、サマリヤ人の三人が通りかかり、彼らが、どのように対応したのかを話され、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と問いかけました。「その人にあわれみ深い行いをした人です」との答えに、イエス様は「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われたのです。これは自分は正しいと自負する律法の専門家たちに語られたのですが、同時に、その場にいた人々にも語られているのです。

 ところで、私たちは、自分によくしてくれる人には親切にしますが、その逆もあるのではないでしょうか。

 あなたの内に住んでおられる聖霊の力により、神の愛を実践できるように祈りましょう。

牧師コラム 『あなたの神、主を愛しなさい』 2023年2月12日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト22章10~20節〕
神はアブラハムを選び、その子孫に、まことの神を全世界の人々に告げ知らせ、祝福する使命を託されました。ですから神の民イスラエルに、聖なる民として生きる掟(十戒)をさずけ、さらにそれを丁寧に説明されたのです。

 隣人に預けた家畜の損失に伴う償い、さらには、誘惑に負けて不道徳な関係を持った者への規定も示されました。これは神が結婚を尊び、その尊厳を教えるためでした。また、神は「呪術を行う女は生かしておいてはならない。~ (出22:18,19)」と厳しく戒めました。呪術とは魔術、オカルト、占い等で、これらは悪霊と関わる危険なことだからで、すべてはあなたの霊性を守る神の愛から出ている戒めなのです。さらに続く戒めは「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。(出2:20)」です。十戒の最初に「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない(出20:3)」とあるように、唯一の神以外の神々に簡単にいけにえを献げてしまう行為は、「聖絶されなければならない」ほどの非常に重い罪であることを神ははっきりと示されたのです。このように神は、日常生活に起きるいろいろな問題に対して細かなルールを定められましたが、これぐらいいいのではないか、みんなもやっているではないか、という安易な気持ちがもっとも危険なのです。

 神があなたに求めておられることは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申命記6:5)」なのです。

牧師コラム 『あなたの心の主人は誰ですか』 2023年2月5日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト22章1~9節〕
神の民イスラエルに神が与えられた十戒の「盗んではならない。(出エ20:15)」について、神は他人の所有物について、盗むという行為だけではなく、放たれた家畜が他人の畑を食い荒らしたり、出火して穀物や収穫前の畑を焼き尽くした場合にも、必ずその責任の償いをしなければならない、と定められました。また、金銭や物品を隣人に預けて、それがその家から盗まれた場合も、その盗人が二倍にして償わなければならないのはもちろんですが、盗人が見つからない場合には、預かった家の主人は神の前に出て、隣人の所有物に決して手を触れなかったと誓わなければならないと定めました。

 つまり、神は、「所有をめぐるすべての違反行為に関しては、それが、牛、ろば、羊、上着、またいかなる紛失物についてであれ、一方が『これは自分のものだ』と言うなら、 その双方の言い分を神の前に持ち出さなければならない。そして、神が有罪と宣告した者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。(出22:9)」と定められたのです。

 神は私たちの心に潜む貪欲が、あらゆるトラブルに発展することをご存知なので、このように細かく定められたのです。パウロは、「地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。(コロサイ3:5)」と語りました。欲しがる心、貪欲は人の心を支配していくからです。

 「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(マタイ6:24)」

 あなたの心の主人は、富ですか、それとも、イエス様でしょうか。

牧師コラム 『わが友、主イエスは』 2023年1月29日

 牧師 栗原延元

〔ヨハネの福音書15章13~17節〕

 賛美歌312番(いつくしみ深き友なるイエス)は、よく知られた賛美歌です。この歌を歌うたびに、私はイエス・キリストを親しく感じます。遥か遠くの彼方に救い主イエスがおられるのではなく私の近くに、いや私の側におられるように思うのです。

 イエス様の公生涯の最後の一週間、弟子たちに〈わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。〉(ヨハネ伝15:15)と語りました。救い主イエスは私たちをしもべとは呼ばず、私たちを友と呼んでいて下さるのです。何という栄光でしょう。私たちに多くの友がいることだと思うのですが、イエス様は私たちの友の中の友なのです。最大の友とは〈人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません〉(ヨハネ15:13)と弟子たちに話されたとおりに、イエスは十字架の上でいのちを捨てられたのですから、キリスト教会堂に「十字架」がかかげられているのは、神の愛のシンボルなのです。聖歌493番〈わがとも主イエスは、われを見い出し引き寄せたまいぬ愛の糸もて〉を歌って、救い主イエスをたたえていきたいと思います。

牧師コラム 『神の御前に誠実に歩む』 2023年1月22日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:28~36〕
神は人と人との争いから生じる問題だけではなく、家畜や敷地内で起こった事故などにも細かい定めを神の民イスラエル人にお与えになりました。

 牛が人を突いて死なせた場合、その牛を石で打ち殺すことで、牛の持ち主は罰を免れる。しかし突き癖があるのに牛の監視を怠っていたなら、その牛は石で打ち殺され、さらに持ち主も殺されなければならない。しかし、もし彼に償い金が科せられ、自分のいのちの贖いの代価を支払うならば、死を免れる。息子や娘を突いた時も、この規定のとおりに扱われました。さらに神は、もし男奴隷、女奴隷をその牛が突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺される、と定めたのです。当時、奴隷は主人の所有物で売買の対象でしたが、神は彼らをひとりの人格として認めておられたのです。また、ふたをしていない水溜めに、牛やろばが落ちた場合、その水溜めの持ち主は、家畜の持ち主に償い金を支払う。また牛が隣人の牛を突いて死なせた場合や突き癖がある牛の対策をしていなかった場合など、神は財産に関してもルールを定められたのです。

 創造の始めに、「彼ら(人間)が、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう(創1:26)」と神は仰せられました。この世界は神からの預かりものであり、その管理を私たち人間はゆだねられているのです。私たちは、忠実に、誠実に、与えられたこの世界を管理しなければなりません。

 『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21)』

牧師コラム 『復讐心を愛に』 2023年1月15日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:18~27〕
人が二人集まるだけで、そこには争いが起きる、とはよく言われることです。
聖書にも「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6:5)」と記されており、罪の性質を抱えた人間の日常には争いが絶えることがありません。私たちをよくご存知の神は、私たちの争いの行動がエスカレートしないように、そこに償いのルールを定められました。それが、「重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない(出エジプト21:23~25)」です。そこでは罪に対する報いは受けなくてはならないが、恨みからくる復讐は禁じています。

 まさにイエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちの中にある(生まれながらの)罪に対する報いを、罪のないキリストが身代わりに受けてくださったからなのです。神がこの償いのルールを定められたのは、私たちの心には、やられた以上の仕返しをしようとする復讐心が根深くあるからです。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』(ローマ12:19)」すべてをご存知で、あなたを愛する神にお任せすればよいのです。

 キリストが私たちに示されたのは、十字架の上でご自分のいのちを私たちの罪のためにささげられた愛であり、この愛に私たちが生きることを神は願っておられるのです。

 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」

牧師コラム 『私たちのいのちは神のもの』 2023年1月8日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:12~17〕
神は、殺意をもって人を打つ者(出21:12)、自分の父母を打つ者(出21:15)、また、人をさらった者(出21:15)、父母をのろう者(出21:15)は「必ず殺されなければならない」と定められました。それはいのちの尊さを教えると同時に、いのちの出発点である両親への敬意を教えるためでした。しかし、殺意はないが誤って人を殺してしまった時には、その人が逃れることができる場所を設けるようにもされました(出21:13)。

 これは復讐の連鎖を止めるためであり、神の愛から出たご配慮です。

 人を殺す動機は、自身の身勝手な思い、あるいは深く傷ついたことによる憎しみ、恨みからきます。また親をののしるのは、親への怒り、恨みが、その背景にあるからです。さらに親をののしることは、間接的に神をののしっていことにもなるのです。そして、人をさらう行為も、その人の人生を奪うことであり、結果として、その人を殺すことになります。

 聖書は「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)」と語っています。ある日突然、人にいのちが降って湧いてきたのではなく、神が人にいのちを与えたのです。
人を殺すという行為は、創造主なる神によって「いのち」が与えられた人間の生きる権利を奪い、殺された人と殺人者自身の内にある神のかたちを壊すことでもあるのです。 それゆえに、聖書は「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」と私たちに勧めています。それはイエス様ご自身が、神の御姿を捨て、私たちと同じ人となってくださったからです。

牧師コラム 『人間の尊厳』 2023年1月1日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト21:01~11〕
神がイスラエルの民に十戒を与えられたのは、神の民としての歩みに導くためでした。さらに神は、奴隷制度のあった時代の中で、様々な理由で奴隷になった弱い人々の尊厳にも心を向けられました。売買され、人として扱われない中で、守るべき定めを与えたのです。それは、ヘブル人男奴隷は六年間仕えた後七年目には解放される、という規定でした。またその男奴隷が、なおも主人の家で仕えたいなら、神に誓い、耳をきりで刺し通されたうえで、いつまでも主人に仕えることが許可されました。そして、女奴隷についても、人として扱われるように、さまざまな規定を定められました。

 神は「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と仰せられ、神のかたちとして私たち人間を創造されました。(創世記1:26,27)

 ここに人間の尊厳、私たちを愛する者として造られた神の思いを知ることができます。それゆえ、人間は、動物のように売り買いされる「もの」ではないのです。これらの規定は、「神のかたち」としての人間の尊厳が軽んじられないために、人間を「もの」扱いすることのないように、と神がご配慮された愛の定めなのです。さらに私たちは、イエス・キリストが十字架で刺し通され、そのいのちによる贖いによって、罪赦され、神のこどもとされました。 そして、地上にあっても、天においても、永遠に神に仕える喜びが許可されたのです。

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」

 神の私たちに対する思いは、初めから変わらず、これからも変わることはありません。