今日のメッセージ 『天に国籍が与えられている恵み』 2023年5月28日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト28章1~21節〕

 神はモーセに、兄アロンとその息子たちナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルを聖別し、祭司として神に仕えさせるように命じました。そして大祭司アロンの装束として、神の栄光と美を表す聖なる胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を作るように命じます。胸当てには、十二部族を表すイスラエルの息子たちの名が彫られた十二個の宝石がはめ込まれ、エポデの両肩には二つの肩当てが付けられ、そこに載せられた縞めのうの石にもイスラエルの息子の名を刻むように示されました。

 大祭司アロンが主の前に出るときには、胸当てに刻まれた十二個の宝石、すなわち十二部族の名が常に主の前に覚えられたように、イエス様を罪からの救い主と信じる信仰によって、いのちの書にはっきりと記されたあなたの名は、神の前に覚えられているのです。

 永遠に存在され、変わることのない祭司職を持つイエス様が、私たちのためにとりなしをしてくださっているので、神に近づく私たちを完全に救うことができます(へブル7:24,25)。また、神は「勝利を得る者(イエス様を信じる者)は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。(黙示録3:5)」とまで約束してくださっているのです。私たちは、まことの神から離れ、自分勝手に歩んでいたにもかかわらず、イエス様の十字架を信じる信仰により、すべての罪が赦され、天国に国籍が与えられているのです。このような素晴らしい恵みをいただいているのですから、感謝と喜びをもって、このお方とともに御国を目指して歩んでいきましょう。

 「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヨシュア1:5)

コラム 『ありのままで』 2023年5月21日

 牧師 高橋勝義

 

 古稀を迎え、これまでの歩みを振り返っていた私の心に浮かんできたみことばが、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)」でした。待望の救い主が悲しみの人で、病を知っていた、というのです。事実、十字架の上で死なれた姿は、勝者ではなく敗者の姿にしか見えません。誰にも尊ばれず、蔑まれ、惨めな姿をさらしたのです。

 イエス・キリストは、十字架で死なれた三日後、よみがえられました。
死を打ち破り、真の勝利者となられたのです。聖書は、主が「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた(へブル4:15)」ゆえに、「試みられている者たちを助けることができる(へブル2:18)」お方であると語っています。ここに、大きな希望があるのです。

 ところで、私たちの生きる世界は、常に人の評価にさらされています。人の目を気にし、時には怯え、呻く苦しみさえも起こります。「は気から」というように、心が病めば、体にもその影響は現れてきます。自分が理解されない孤独に苦悩し、心も体も悲鳴をあげます。しかし、「悲しみの人で、病を知る」お方イエス・キリストが、誰にも理解されない、と感じているあなたのありのままを受け取ってくださるのです。主の前では、飾ることもなく、気を張ることもなく、ありのまま、肩の力を抜いて、大丈夫なのです。

 主イエス・キリストはこう言われます。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」

今日のメッセージ 『永遠のともしび』 2023年5月14日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト27章9~21節〕

 神は、モーセに、幕屋全体を囲う掛け幕と板や柱、台座などを作るように命じます。それは、全体の大きさが、南側百キュビト(約44.5m)、北側も百キュビト、西側が五十キュビト(約22.25m)、正面になる東側が五十キュビト、そして掛け幕の高さを五キュビト(約2.2m)とし、それぞれに撚り糸で織った亜麻布の掛け幕をかけて張り、幕屋に用いるすべての備品、すべての杭、庭のすべての杭は青銅で作る、でした。

 聖所の中は、真っ暗ですから明かりが必要です。その明かりとなる燭台のともしびを絶えずともしておくために質の良い純粋なオリーブ油を用意し、アロンとその子らは燭台のともしびを、夕方から朝まで主の前に整えるようにと、命じられました。

 イエス様は、サマリヤに行く途中、疲れて井戸のかたわらに腰をおろしていた時、水を汲みにきたサマリヤの女に「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます(ヨハネ4:14)」と語られました。それは、なくならない水についてではなく、私たちの心の中には決して消えることのないともしびが必要であることを語られたのです。

 そのともしびとは助け主(聖霊)のことです。イエス様は、ご自分が天に帰られたあと、聖霊が私たちとともにいて、助けてくださる、と約束してくださいました(ヨハネ14:16)。その約束通り、聖霊は私たちの内に住み、罪に死んでいた私たちの歩みを罪に打ち勝つ歩みへと変えてくださるのです(ローマ8:11)。なぜならイエス様を信じる者の内には、どんなときにも聖霊がおられ、このお方の力によって歩むことができるからです。

今日のメッセージ 『私の主、私の神』 2023年5月7日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト27章1~8節〕

 ノア、アブラハム、イサク、ヤコブは、神の愛と慈しみを覚えるたびに祭壇を築いて、神に感謝し礼拝をささげました。そして、神はアブラハムとの個人的な関係から、約束通りイスラエルの神となられたのです。さらに、モーセを通して、神の民として歩むために「十戒」を与え、さらに、ご自分を礼拝するための幕屋と、その中に祭壇を作るように命じられたのです。祭壇は、「罪のきよめのささげ物」と「全焼のささげ物」をささげる場所ですから、火で燃えないように、アカシヤ材に青銅をかぶせ、そのほかの灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿もみな青銅で作ります。罪ある人間が聖い神にお会いするには「罪のきよめのささげ物」「全焼のいけにえ」を献げる祭壇が必要不可欠であったからです。

 しかし私たちは今、イエス・キリストが十字架で「罪のきよめのささげ物」となってくださったゆえに、ささげ物なしに、神と自由にお会いできる恵みを頂いています。

 弟子のトマスは、イエス様がよみがえられたと聞いても、疑り深く慎重な性格から信じることが出来ませんでした。そのトマスに、よみがえられたイエス様が現れてくださり、復活の主に直接お会いした瞬間、彼は「私の主、私の神よ。(ヨハネ20:28)」と告白しました。

 私たちの日常には様々な問題や困難が起こりますが、こここそが神の愛と恵みを知る時なのです。トマスに復活の主が現れてくださったように、主はあなたにもふれてくださいます。この時「私の主、私の神」になるのです。

 「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」(詩篇23:6)

今日のメッセージ 『仕切りは取り除かれた』 2023年4月30日

 牧師 高橋勝義

 

〔出エジプト26章15~37節〕

 つづいて幕屋(聖所)の壁について、神は次のように命じられました。

 それはアカシヤ材で作り、その横木にも、すべてに金をかぶせる。壁板が金で覆われた聖所の内部は、燭台の灯で照らされ、まばゆいばかりに輝き、神の栄光が表されました。また、青、紫、緋色の撚り糸で織った亜麻布にケルビムを織り出した垂れ幕を作り、金をかぶせた四本の柱に、金の鉤で取り付けられました。その垂れ幕で仕切られた奥は至聖所(しせいじょ)で、そこに「あかしの箱」と、その上に「宥めの蓋」を置くように命じられました。ケルビムの垂れ幕で仕切られた至聖所は罪の贖いを行う聖なる場所であり、そこには年に一度だけ、罪の贖いをする大祭司だけしか入ることが許されていませんでした。

 神と私たちの関係について、聖書は「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2)」と語ります。しかし、キリストが、十字架の上で息を引き取られたとき「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(マルコ15:38)」のです。神殿の幕とは、至聖所を遮る垂れ幕のことであり、キリストが、神との仕切りとなっている“罪”を、十字架の上で、ご自分のいのちと引き換えに解決してくださったゆえに、仕切りの幕は裂けたのです。神は「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)」と、罪からの解放をあなたに語りかけておられます。

 あなたの罪はイエス・キリストを信じる告白によって解決されるのです。

今日のメッセージ 『たましいの牧者キリスト』 2023年4月23日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト26章1~14節〕

 次に神が命じたのは、幕屋の幕を作る、というものでした。

 内幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、神の臨在と栄光を表すケルビムを織り出すように命じられました。その内幕の上に、やぎの毛の幕をかけ、その上に赤くなめした雄羊の皮の幕をかけ、最後にじゅごんの皮の幕をかぶせます。つまり、幕屋は四重構造なのです。約束の地に向かう荒野の旅ですから、天幕は強い日差しや風雨にも耐えるように作られましたが、外見的には決して見栄えのするものではありませんでした。

 しかし、このケルビムが織りだされた幕屋の中は、大祭司がすべての罪の贖いを行う場所であり、最も聖なるところだったのです。

 聖書は、やがてこの世に来られる救い主について「彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)」と語っています。弟子のヨハネも、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。(ヨハネ1:11)」と証言し、同じく弟子のペテロも、キリストについて「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」と証言しています。

 イスラエルの人々が待ち望んでいた救い主とは全くかけ離れた姿、まるで聖所を覆う幕のように、見栄えのしない、何の力もない姿に映ったのです。しかしキリストは、ご自分のいのちをささげて、私たちのすべての罪の贖いをなされ、私たちのたましいの牧者となってくださいました。

 このキリストのもとに、今、帰ろうではありませんか。

今日のメッセージ 『私の内に来られたまことの光』 2023年4月16日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト25章31~40節〕

 神はイスラエルを神の民とし、彼らに神の幕屋建設とその中に納める「契約の箱」「贖いのふた」「机」等をつくるように命じ、さらに燭台を作るように命じられます。その燭台は純金を槌で打ち、台座の上の一本の中心の幹から両側に、それぞれ三本の枝を出し、その幹と六つの枝にはアーモンドの花の形をしたがくが付けられ、それぞれともしび皿がのせられています。この「七枝の燭台」とすべての器具(七つのともしび皿、芯切りばさみ、芯取り皿)は純金一タラントで作らなければならない。そして最後に「よく注意して、山であなたに示された型どおりに作らなければならない」と神は命じられたのです。

 幕で覆われた聖所には窓がないため、唯一の“光”は燭台の明かりだけです。それゆえに、祭司は燭台の明かり、すなわち、燭台の“光”がなければ何もできません。

 同様に私たちの人生にも道しるべとなる“光”が必要です。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行っているからです。このさまよう原因は、神に背を向けて歩んでいる私たちの罪にあります。

 イエス・キリストは、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」と語り、その原因となっている罪を取り除くために、私たちの罪を身代わりに負い、十字架の上で罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして信じる者の心の内に、まことの光であるイエス・キリストが来てくださり、私たちの歩みを闇から光へと移し、導いてくださるのです。

 「あなた(イエス・キリスト)のみことばは私の足のともしび私の道の光です(詩篇119:105)」

今日のメッセージ 『新しいいのちのみなもと』 2023年4月9日

 牧師 高橋勝義

〔ルカ24:1~12〕

 無実の罪で捕らえられたイエス・キリストは、金曜日の午前9時頃に十字架につけられ、午後3時頃、「完了した」と言われて息を引き取られました。

 しかし安息日の時刻が迫る中で、主は新しい墓に急ぎ埋葬されたのです。

 それから三日後、すなわち週の初めの日曜日の明け方早く、女たちが準備しておいた香料を手に墓に行くと、墓を封印していた大きな石はわきに転がされ、そこに二人の御使いがいました。そして、「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ24:5,6)」と告げたのです。女たちはイエスの語られたことばを思い出し、急ぎ、十一弟子とほかの人々に、一部始終を報告しますが、誰も信じませんでした。しかしペテロだけは、立ち上がり、走って墓に行き、かがんで中をのぞき込み、この出来事に驚きながら自分のところに帰ったのです。

 死は私たちにとって絶望と悲しみであり、誰もそれを避けることができません。

 しかし、キリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、このお方を救い主と信じる信仰によって義と認められるために、よみがえられたことにより、神は死の絶望と悲しみを、新しいいのちに生きる希望へと変えられました。すなわち神は、主を救い主と信じる私たちに永遠のいのちを与え、御国(天国)を受け継ぐ者にしてくださったのです(エペソ1:11)。

 私たちを罪の縄目から解放し、新しい真のいのちを与えてくださるキリストの復活は、それを自分の目で確かめたペテロを始め、主を信じる弟子たちによって、全世界に宣べ伝えられ、私たちの元に届けられたのです。

今日のメッセージ 『神のさとしに生きる』 2023年4月2日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト25:10~30〕

 神はモーセに、さとしの板(十戒)を入れる箱を作るように、次のように命じました。「わたしが与えるさとしの板を納める箱をアカシヤ材で、長さ二キュビト半(約1.11m)、幅をキュビト半、高さを一キュビト半(約67cm)とする。この箱を担いで運ぶための棒もアカシヤ材で作り、それを箱の両側の環に通す。その棒は箱の環に差し込んだままで、外さず、棒には金をかぶせる。また、純金で『宥めの蓋』を作り、その一部として、ケルビムをその両端に作る。ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。」

 私たちがさとしの板(十戒)の教えを守ろうとするなら、自の罪深さに落胆するばかりです。神が契約の箱を「宥めの蓋」で覆ったのは、罪ある者が安易にさとしの板に触れてはならないことを教え、さらに罪を贖うためには宥めが必要であることを教えるためでした。

 イエス・キリストがすべての人々の罪のための宥めのささげ物となられた(Ⅰヨハネ2:2)ゆえに、今、私たちは神と和解ができ(エペソ2:16)、神と自由に交わる恵みをいただいているのです。さらに神は私たちに、ご自身のみことばが記されている聖書を備えてくださいました。それは私たちがみことばによって励まされ、神の子どもとしての歩みを知るためです。

 それゆえ、使徒パウロは「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(使徒20:32)」と語っています。

 聖書は私たちの霊的なご飯です。毎日食事をするように、聖書を読むことが私たちの魂を養うカギなのです。神のみことばから、日々新たな力をいただいて歩んでいきましょう。