牧師 高橋勝義 |
〔出エジプト26章1~14節〕
次に神が命じたのは、幕屋の幕を作る、というものでした。
内幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、神の臨在と栄光を表すケルビムを織り出すように命じられました。その内幕の上に、やぎの毛の幕をかけ、その上に赤くなめした雄羊の皮の幕をかけ、最後にじゅごんの皮の幕をかぶせます。つまり、幕屋は四重構造なのです。約束の地に向かう荒野の旅ですから、天幕は強い日差しや風雨にも耐えるように作られましたが、外見的には決して見栄えのするものではありませんでした。
しかし、このケルビムが織りだされた幕屋の中は、大祭司がすべての罪の贖いを行う場所であり、最も聖なるところだったのです。
聖書は、やがてこの世に来られる救い主について「彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)」と語っています。弟子のヨハネも、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。(ヨハネ1:11)」と証言し、同じく弟子のペテロも、キリストについて「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」と証言しています。
イスラエルの人々が待ち望んでいた救い主とは全くかけ離れた姿、まるで聖所を覆う幕のように、見栄えのしない、何の力もない姿に映ったのです。しかしキリストは、ご自分のいのちをささげて、私たちのすべての罪の贖いをなされ、私たちのたましいの牧者となってくださいました。
このキリストのもとに、今、帰ろうではありませんか。