今日のメッセージ 『狭い門から入りなさい』 2024年3月3日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記7章1~21節〕

 今日の聖書個所は、代償のささげ物、罪のきよめのささげ物、交わりのいけにえ(感謝のささげ物・誓願のささげ物)についての祭司への教えが記されています。

 代償のささげ物の脂肪はすべて、祭壇の上で、主への食物のささげ物として、焼いて煙にする。感謝のための交わりのいけにえをささげる時には一緒に種入りの輪形パンも献げ、肉はその日に食べ、朝まで残してはならない。誓願のささげ物は献げた日に食べ、残りは翌日食べてもよいが、三日目は火で焼く。汚れたものに触れた肉は火で焼き、食べてはならない。また汚れがある人が、交わりのいけにえの肉を食べるなら、その人は神の民から断ち切られ、また人の汚れや汚れた動物、またあらゆる汚れた忌むべきものに触れていながら、主に献げられた交わりのいけにえの肉を食べるなら、その人は神の民から断ち切られる、と語られました。かつて神は、「聖なる油と似たものを調合したり、作って嗅ぐ者((出30:33,38)は、自分の民の間から断ち切られる」と命じていました。神の権威を侮る者、また聖さを汚す者は、「神の民から切り離される」のです。それは、彼らに神の民であることの自覚と神の権威と聖さを教えるためでした。

 イエス様は「わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。(マタイ12:31)」と語りました。聖霊だけが人を救いに導くことができるからです(テトス3:5)。事実、私たちがイエス様を罪からの救い主と告白することができるのは、聖霊の働きと導きがあるからです(Ⅰコリント12:3)。

 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:13)

今日のメッセージ 『朝ごとに主にお会いする』 2023年2月25日

 牧師 高橋勝義

〔レビ6章8~30節〕

 今日の聖書個所には、全焼のささげ物、穀物のささげ物、アロンとその子らが任職の時主に献げるささげ物、罪のきよめのためのささげ物について記されています。

 全焼のささげ物は、一晩中、朝まで祭壇で焼き続け、祭壇の火は消してはならない。穀物のささげ物は、祭壇の上で焼いて煙にし、アロンの子らのうち男子はみな、残りの分を種なしパンにして会見の天幕の庭で食べる。しかし、祭司職に任せられるときの主へのささげ物は、すべて完全に焼き尽くし、食べてはならない。罪のきよめのためのささげ物は、全焼のささげ物が屠られる場所、主の前で屠られ、祭司の家系に属する男子はみな、それを聖なる所、会見の天幕の庭で食べる。これは最も聖なるものである。

 この「聖なる所、会見の天幕の庭で食べる」とは、神の御臨在の中で「最も聖なるもの」を食べること、つまり、神との交わりの中で、聖なる神の聖さにあずかることを意味します。

 イエス様を罪からの救い主と信じた私たちは、今や祭司とされ、同時に「光」の中に召されています(Ⅰペテロ2:9)。イエス様は「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)と語られました。その私たちが「光」また「聖」であるために必要なことは、日々の神との交わりです。それは「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない(ヨハネ15:5)」からです。

 神と交わることができるのは、イエス様の十字架ゆえであり、私たちはこの恵みの中に生かされているのです。ですから、神はあなたに「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。(エペソ5:8)」と勧めています。

今日のメッセージ 『貪欲に警戒しなさい』 2024年2月18日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記5章14節~6章7節〕

 今日の聖書個所は、三つの罪について扱っています。一つは主へのささげ物に関して気づかずに罪を犯したなら、代償のささげ物に五分の一を加え、償いとして傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。二つ目は主の戒めの一つでも自覚せずに、または気づかずに犯した場合には、過失の代償として傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。三つ目は、盗み、横領、着服、詐欺によって損害を被らせた場合、それらすべてを返し、さらに五分の一を加えて支払った上で、代償として傷のない雄羊一匹を主への代償のささげ物として祭司のところに連れて行く。祭司は、それぞれに宥めを行ない、そして彼は赦される。

 代償とは、他人に与えた損害の償いとして、それに相応するものを支払うことです。神が代償のささげ物を求められたのは、私たちの内に潜む貪欲がさまざまな問題を引き起こしてしまうことを気づかせ、自らの心を吟味するように教えるためでした。

 イエス様は「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(ルカ12:15)」と語りました。それは、豊かになることが幸せだと考えている私たちに対し、「永遠のいのち」こそが最も大切であることを教え諭すためなのです。では、なぜ貪欲に警戒しなければならないのでしょうか。貪欲が私たちの心を曇らせ、私たちを肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢へと走らせ、不正なむさぼりを引き起こしてしまうからです。

 「その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。」(エゼキエル33:15)

今日のメッセージ 『罪から離れよ』 2024年2月11日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記5章1~13節〕

 神は、イスラエルの民が証人としての責務を果たさなかった場合、汚れたものに触れた場合、誓ったことを果たさなかった場合、それらの一つにでも責めを覚えるなら、その罪を神の前に告白し、子羊、あるいはやぎの雌一匹、しかし羊、やぎを買う余裕がなければ山鳩、あるいは家鳩のひな二羽、さらにそれさえも手に入れられなかったなら、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として祭司のところに持って行くように定められました。そして祭司はその人の罪のための宥めを行ない、彼は赦される、と定めたのです。

 「膿を出す」とは組織、団体などの悪い慣習を根本から取り除くことで、放置すれば、取り返しのつかない状況を招きます。同様に罪も放置するなら、民全体が罪に支配されます。ですから、聖なる神は、神の民に聖なる歩みを求め、罪の宥めを定められたのです。

 「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6:5)」、これがこの世の姿です。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と証言した通り、イエス様は、私たちの罪のために十字架で血を流し、贖いを成し遂げてくださり、ご自身を信じる者を神の子どもとしてくださいました。そして、神のこどもとなった私たちを、あらゆる形の悪から離れる歩み(Ⅰテサロニケ5:22)へと導いてくださいました。ですが、それは自分の力では到底できません。そこで、神は助け主、即ち聖霊を私たちの内に住まわせてくださり、このお方の助けによって、悪から離れる力を与えてくださったのです。

 私たちの内に来てくださった聖霊の働きを妨げるものは罪です。ですから、罪の悔い改めが重要なのです。

今日のメッセージ 『全き赦し』 2024年2月4日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記4章13~35節〕

 今日の聖書箇所は、イスラエルの民全体、あるいは族長のだれか、会衆のだれかが過って罪を犯した場合の罪のきよめについてです。民全体の場合は代表の長老たちが若い雄牛を、族長の場合は傷のない雄やぎを、会衆の場合は傷のない雌やぎを祭司のところに連れて行き、それぞれが主の前でささげ物の頭に手を置き、主の前で屠ります。民の代表の長老は指を血に浸し、主の前で垂れ幕に向けてその血を七度振りまき、全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。族長と会衆の場合は、ささげ物の血を全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。それぞれ残りの血は、すべて祭壇の土台に流す。最上の部位、脂肪は祭壇で焼いて煙にする。これが主への芳ばしい香りとなり、彼らの罪は赦されるのです。このように罪の宥めを行うことにより、神は罪を赦されるのです。

 血を流す、すなわち、いのちによらなければ罪の赦しはありません。(へブル9:22)

 しかし今、イエス様がご自身のいのちを罪のささげ物として、私たちのために、ただ一度だけ献げてくださったゆえに、主を信じる人々を神は完全に救うことができるのです。イエス様の罪の宥めは、完全です。神はイエス様を罪からの救い主と信じるすべての人に対して「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない(へブル10:17)」と言われます。つまり、私たちの罪は完全に赦され、私たちは罪を離れ、神とともに生きる者にされました。

 ではその私たちは、どこへ向かえばよいのでしょうか。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)」

今日のメッセージ 『きよさとへりくだり』 2024年1月28日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記4章1~12節〕

 レビ記4章では、気づかずに主の戒めを破り罪に陥った場合について、祭司、会衆、族長、民衆のじゅんに教えています。今日の箇所は、油注がれた祭司が罪に陥った場合についてです。たとえ神に仕える祭司であっても、人間ですから罪は犯します。そこで、神は罪のきよめのささげ物として、傷のない若い雄牛を主に献げることを定められました。

 具体的には、雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠り、指を血に浸し、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまき、またその血を会見の天幕の中にある、祭壇の四隅の角に塗り、その残りの血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流すようにと定められました。祭司は神に仕え、罪の贖いの儀式を行なう民の霊的指導者ですから、“きよさ”と“へりくだり”が求められます。

 今、私たちはキリストの十字架によって罪赦され、さらに「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です(Ⅰペテロ2:9)」とあるように、祭司の役割が与えられています。その祭司としての“きよさ”に必要なのは、「自分の罪を告白するなら、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる(Ⅰヨハネ:9)」との約束に基づいた日々の罪の悔い改めです。また、弟子の足を洗われたイエス様のへりくだったお姿(ヨハネ13:15)や正しくさばかれる方にすべてをお任せになられた謙遜なお姿(Ⅰペテロ2:21~24)を模範とすることによって、私たちもへりくだった者にされるのです。

 黙々と十字架に従われたイエス様から目を離さずに歩みましょう。

 「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」(Ⅱコリント4:16)

今日のメッセージ 『心の点検』 2024年1月21日

 牧師 高橋勝義

〔レビ3章1~17節〕

 人と人との関係が良好でなければ、自由で楽しい交わりはできません。ましてや、罪深い人間が聖なる神と交わるには、どうすればよいのでしょうか。

 そこで神は罪の贖いのための交わりのいけにえを献げ、さらに主への食物のささげ物として、その脂肪を献げるように定められました。全焼のささげ物と同様に、ささげ物の頭に手を置き、会見の天幕の入り口で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を祭壇の側面に振りかけます。そして、これをどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟とされたのです。

 ところで、人と人との交わりが、豊かになるためには何が必要でしょうか?

 イエス様は、神殿の祭壇に交わりのささげ物を献げようとしている時、人に恨まれていることを思い出したなら、まず相手と仲直りをしてから交わりのささげ物を献げなさい、牢に投げ込まれてからでは間に合いません、あなたを訴える人と一刻も早く和解をしなさい、と勧めています(マタイ5:23~26)。交わりのささげ物をする時、つまり、私たちが神の前に出る時には、まず静まって、心の点検をするように促されたのです。

 私たちにはイエス様の十字架のゆえに、動物による交わりのささげ物は必要ありません。イエス様が、御自身の十字架によって私たちを神と和解させてくださったからです(エペソ2:16)。そして、この神との和解が、人と人との交わりを豊かにするのです。イエス様の愛を知ることが(Ⅰヨハネ4:10)、自分の罪の赦しを知り、自らの心の点検になるのです。神との和解こそが、自分の罪深さを知り、私たちを謙遜な者へと導き(ピリピ2:3)、私たちの交わりを豊かにする鍵なのです。

 あなたは、この鍵を握っておられますか。

今日のメッセージ 『神の豊かな恵みの中で』 2024年1月14日

 高橋勝義

〔レビ2章1~16節〕

 創造主なる神はこの世界を造られ、私たちは神が造られたすべてのものから豊かな恵みを頂いて日々の生活を送っています。イエス様が「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。(マタイ6:26)」と言われたとおり、これは神からの賜物(プレゼント)なのです。

 このレビ記2章に記されている穀物のささげ物は、神の恵みへの感謝の表われです。穀物のささげ物は、祭司アロンとその子らのもとに持って行き、祭壇で焼かれ、神にささげられました。それは、神への芳ばしい香りとなり、神はそれを喜んでくださいました。その残りは、アロンとその子らのものとなり、それは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものとされました。穀物のささげものは腐敗を防ぐ塩で味をつけるように命じられましたが、これは神の契約が永遠に変わらず保たれることを現わしているのです。

 「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」とあるように、神は公平なお方です。この恵みによって、「主が良いものを下さるので私たちの大地は産物を産み出すのです(詩篇85:12)」。神は「あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前で礼拝しなければならない」(申命記26:10)と命じておられますが、私たちはこのような恵みを与えてくださる神に心から感謝し、喜びをもってささげ物をささげ、神を礼拝しているでしょうか。

 聖書が「世界とそれに満ちるものはわたしのものだ(詩篇50:12)」と語っているように、私たちは神の豊かな恵みの中で生かされているのです。

今日のメッセージ 『真の礼拝者』 2023年1月7日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記1章1~17節〕

 エジプトからイスラエルの民を救い出した神は、シナイ山でさとしの板に神の民としての歩みを記し(十戒)、その麓でモーセを通して幕屋造りを命じました。さらに、神の幕屋を中心にして約束の地を目指すイスラエルの民に、具体的な神との交わりについて、また聖なる国民としての生き方についても教えられたのです。それらを記したものがレビ記です。

 ノアは洪水の水が引き、地に降り立った時、まず祭壇を築き、全焼のささげ物を献げました(創8:20)。またアブラハムも、自分に現れてくださった主のために、その場所に祭壇を築きました(創12:7)。ノアもアブラハムも、自ら進んで、まず神を礼拝したのです。

 全焼のささげ物は、聖なる神を礼拝するために必要不可欠です。神が私たちの罪を、この動物の血というささげ物、すなわちいのちをもって罪を贖うようにしてくださったからです。そして民は聖なる神を礼拝したのです。

 しかし今は、イエス様がご自身のいのちを私たちの罪のために献げられ、罪の贖いを成し遂げてくださったゆえに(ヘブル7:27)、旧約の時代のような動物のささげ物は必要とせず、イエス様の十字架によって、聖なる神を礼拝し、自由に神と交わることができるのです。

 何という恵みであり、感謝なことではないでしょうか。

 神は、あなたが真の礼拝者になることを待っておられます。

 「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。(ヨハ4:23,24)」