今日のメッセージ 『平和の君はろばに乗って』 2023年12月17日

 牧師 高橋勝義

〔ゼカリヤ9章9~10節〕

 十字架を目前に控えた日曜日、弟子たちは命じられた通りに「子ろば」を主の前に連れて来てきました。そしてイエス様はその「子ろば」に乗ってエルサレムに入城したのです。

 群衆は「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」と叫び迎えました。預言者ゼカリヤがイエス・キリストがこの世界に来られる約500年も前に、「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」と預言したことが、ここに成就したのです。またゼカリヤは続けて、「彼は諸国の民に平和を告げる」とも語っています。まさにイエス様は柔和な平和の君としてこの世に来られたのです。ところがイエス様御自身は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。(マタイ10:34)」と語られたのです。これは、どういうことなのでしょうか。

 イエス様が語られた平和とは神と和解することです。私たちの歩みは自分中心で、この世を愛し、神に背を向けたものです。これは神に敵対する(ヤコブ4:4)ことであり罪の根源なのです。イエス様の十字架は、私たちの罪を解決し、神との敵対関係から、神との和解(エペソ2:16)、神との平和(ローマ5:1)をもたらしてくださったのです。それゆえ、イエス様は「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるために来た」と語られたのです。(ルカ5:32)

 イエス様の招きを拒む者ではなく、招きに心を開き、神と和解し、神との平和の歩みをスタートさせませんか。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)

今日のメッセージ 『悲しみを知る慰め主』 2023年12月10日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ53章1~6節〕

 人は自分たちを守ってくれる指導者に、強くてリーダーシップに長けた人を求めます。特に不安定な時代になればなるほど、「強さ」を求めるものです。

 しかし、預言者イザヤが語った救い主像は、大国アッシリアの脅威にさらされていた南ユダ王国の民にとって、受け入れられるものではありませんでした。それは強い指導者ではなく「悲しみの人で、病を知っている」方であり、人々が慕うような見栄えもなく、むしろ蔑まれ、のけ者にされ、尊ばれないお方として語られたからでした。その預言通り、救い主としてこの世に来られたイエス・キリストは、無実であるにもかかわらず十字架刑による惨めな死を迎えました。「私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:4~5)」とあるのは、神がご自身に対する私たちの背きの罪と咎をこのキリストに負わせ、十字架によって処罰し、私たちを赦すための贖いを成し遂げるためだったのです。

 すべては、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって歩んでいる私たちを、探し出し、神の身元に再び招き入れるためでした。そのために、神はイエス・キリストをこの世に遣わされたのです。そして、「悲しみの人で、病を知っている」このお方は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」とあなたを招いておられます。

 今、あなたは、どこにいるのでしょうか、イエス様の懐に勇気をもって飛び込みましょう。 「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:18)

今日のメッセージ 『新しいいのちの始まり』 2023年12月3日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ11章1~5節〕

 ソロモン王の死後イスラエル王国は南北に分裂し、北王国イスラエルは隣国アッシリアに滅ぼされ、ホセア王を始めその十部族はアッシリアに捕らえ移されます。南王国ユダにもアッシリア王国の脅威が迫っていました。

 このような中で預言者イザヤは、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる(イザヤ9:6)」とイエス・キリストの誕生を預言しました。それは救い主が生まれる700年も前で、そのみどりごはダビデの父エッサイの子孫から生まれると告げたのです。しかし身分の低い羊飼いエッサイは、「エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない(Ⅱサムエル20:1)」と、軽んじられていました。

 それは私たちの救い主が、神でありながら、へりくだったお方であり、神としての権利を求めたり執着せず、しもべの姿をとり、人間と同じようになられ、この地上に来てくださったことを表しています(ピリピ2:6,7)。主は知恵と悟りの霊、思慮と力の霊に満ち、父なる神に従うことを喜びとし、外見や評判、うわさで人をさばくことをせず、弱い者や貧しい者の味方になってくださるお方なのです。それゆえ「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(マルコ2:17)」と語り、さらに「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移る。(ヨハネ5:24)」と約束されました。神は、あなたが高価で尊い存在だと語り、あなたを招いておられます。

 神が遣わされた救い主イエス・キリストの御降誕を心から感謝し、受け取りましょう。

今日のメッセージ 『永遠の住まい』 2023年11月26日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト40章1~33節〕

 幕屋に必要なすべてが完成し、いよいよ幕屋の設置が始まります。神はモーセに、第二年の第一日に会見の天幕である幕屋を設営するようにと命じ、幕屋は組み立てられました。

 聖所の奥は至聖所とし、さとしの板(十戒)を納め「宥めの蓋」をのせた箱を置き、仕切りの垂れ幕を掛けます。そして聖所の中に机、燭台、香壇を配置し、幕屋の庭には全焼のいけにえの祭壇、洗盤を配置し、すべての用具に油注ぎを行い、それらを聖別したのです。最後にアロンとその子らを、祭司として主に仕えさせるために水で洗いきよめ、アロンに聖なる装束を着せ、油注ぎを行って聖別し、彼の子らにも長服を着せました。彼らが油注がれたのは、イスラエルの民の罪の贖いを日々行う永遠の祭司職のためでした。

 私たちの救い主イエス・キリストは、十字架の上で流されたご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました(へブル9:12)。そして、今、永遠に神の右の座に着いておられます(へブル10:12)。そこは、人の手によって造られた幕屋ではなく、神によって設けられた幕屋であり、ここに主キリストはおられるのです(へブル8:2)。そして、日々私たちのためにとりなしをしてくださっています。(ローマ8:34)さらに私たちのために、天に住まいを用意し、私たちをご自身のもとに迎えて入れてくださるのです。(ヨハネ14:2,3)私たちには、天に人の手によらない永遠の住まいが用意されているのです。(Ⅱコリント5:1)ですから、イエス様が「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)と語られた御言葉に堅く立って、天国に用意されている永遠の住まいに向かって、この世の旅路を歩んで行きましょう。

今日のメッセージ 『忠実に使命を果たす』 2023年11月19日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト39章33~43節〕

 イスラエルの民は、幕屋に関するすべてのものを造り終え、それらをモーセのところに運んで行きました。モーセは、神から与えられた知恵と英知を用いて、神が命じられたとおり忠実に仕事を終えたイスラエルの民を祝福しました。

 聖書は「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です(Ⅰコリント12:27)」と語っていますが、神はご自身の栄光を現すために、教会、すなわちキリストのからだである私たち一人ひとりに、それぞれ賜物を分け与えているのです(Ⅰコリント12:11)。それはイスラエルの民が、神から与えられた知恵と英知を用い、忠実に幕屋建設の奉仕を行ったように、私たちも神から与えられた賜物を用いて、キリストのからだなる教会を建て上げるためです。キリストのからだである私たちが互いに愛し合い、それを通して世の人々に神の愛を伝えるためなのです。

 ここで重要なことは、神が与える賜物には優劣はなく、自分に与えられた賜物を忠実に用いることです。そうすれば、主は、あなたに『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21,23)と語ってくださいます。それゆえ、神が私たちに求めていることは、「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合う」(Ⅰペテロ4:10)ことなのです。

 その鍵は御霊によって歩むことです。私たちは、御霊の実として、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22,23)が与えられ、互いに仕え合う者に変えられていくのです。

今日のメッセージ 『信仰に生きる』 2023年11月12日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト39章1~32節〕

 幕屋建設の終わりは、大祭司が聖所で務めを行う時に着用する聖なる装束の制作でした。その青い装束の裾周りには、鈴と撚り糸で撚ったざくろが交互に取り付けられており、その上に身に着けるエポデの胸にはイスラエル十二部族の名が刻まれた十二個の宝石を埋め込んだ「さばきの胸当て」が取り付けられました。神は大祭司が聖所に入るとき、この胸当てが付けられたエポデを着なければならないと定めましたが、それはイスラエル十二部族の名が、絶えず主の前で覚えられるためです(出エジプト28:29)。このようにして民は主がモーセに命じられたとおりに行い、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕を終えたのです。

 十二部族の名が刻まれた「聖なる装束」を身に着けた大祭司が聖所に入るとき、民は自分たち一人ひとりが主の前に覚えられていると感じたことでしょう。

 ところで、神の都である御国に入ることができるのは、「子羊のいのちの書」に名が記されている者たちだけです(黙示録21:27)。子羊とはイエス・キリストのことであり、「いのちの書」には、キリストを罪からの救い主と信じた私たちの名が記されているのです。

 十二部族の名が主の前に覚えられているように、いのちの書に記されたあなたの名は、主の前に覚えられています。私たちは、神の恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。すべて神の賜物(プレゼント)です。私たちの行いによるのではありません。(エペソ2:8,9)しかし私たちは、自分の行いや義を拠り所としがちです。そこに満足感や達成感があるからです。

 そのような私たちに、神は「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい(Ⅱコリント13:5)」と問いかけておられます。

今日のメッセージ 『心の内を見られる神』 2023年11月5日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト38章1~31節〕

 幕屋建設は祭壇、洗盤、幕屋の庭と続いていきます。祭壇はイスラエルの民の罪を贖うためのいけにえを焼いて煙にし、神との和解を執り行うところです。それはアカシア材で作られ、四隅に角が作られ、青銅がかぶせられました。また、洗いのための洗盤は、アロンとその子たち祭司が、手と足を洗い清める場所であり、その材料も青銅です。当時の女性にとって、磨いた青銅は鏡として用いる貴重なものでした。聖書がわざわざ「会見の天幕の入り口で務めをした女たちの鏡で洗盤を作った」と記しているということは、その女性たちが、大切な鏡を喜んで心から神の幕屋建設のために献げたことが分かります。

 この箇所を読みながら、私は、「使徒の働き5:1~11」に記されているアナニアとサッピラ夫婦を思い出しました。使徒たちが復活された主イエス・キリストを証しする中で、大勢の人々が喜んで持てる物を献げていました。そのひとりバルナバは、所有していた畑を売り、その代金を使徒たちの足もとに置きます。それを見ていたアナニアとサッピラ夫婦も、同じことをするのですが、二人は代金の一部を自分たちのために取り置きながら、すべてを献げたように装ったのです。その彼らにペテロは「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と告げます。私たちの行動や言動には、少なからず、人の評価を得たいという思いが潜んでいます。それゆえ、私たちは常に、神に喜ばれない思いが潜んでいないか、主に教えていただく必要があるのです。なぜなら、「主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされる(Ⅰコリント4:5)」お方だからです。

 「見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである(ヨブ28:28)」

コラム 『神の御手の中で』 2023年10月29日

 牧師 高橋勝義

 世界が直面する気候変動はこの地でも深刻です。毎年八月中旬には海水温が下がり、牡蠣は放卵し、ぷっくり美味しくなるのだそうですが、今年はそれが遅れ、収穫解禁は例年より一ヶ月遅い明日からです。

 そんな中、教会ではお茶っこ会で映画「海嶺」の上映会をおこないました。原作は幕末時代のモリソン号事件をもとに三浦綾子さんが執筆された小説です。

 米を満載して江戸に向かった千石船が嵐により漂流、岩吉、音吉、久吉の三人だけがアメリカに漂着し、港湾会社のクリスチャンによって救出されます。やっと帰国の道が開かれ、彼らはマカオで待機する中、宣教師の聖書(ヨハネの福音書とヨハネ書簡)和訳に手をかします。みことばにふれる日々の中で、キリシタンになれば帰国後、お上に殺されることを恐れ、福音には固く心を閉ざしていました。いよいよ、彼らを乗せた米国船モリソン号は、浦賀港を目前にしますが、非情にも「異国船打払令」により砲撃され追い返されてしまうのです。 しかし、小説の最後には「そうか。お上(国)がわしらを見捨てても、決して見捨てぬ者(お方)がいるのや」と神への希望が記されています。

 人生は何が起こるか分からない不安でいっぱいです。モーセの後継者ヨシュアも、自分がイスラエルの民を導けるのか、不安でした。しかし神は「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。(ヨシュア1:9)」と約束されました。同様に私たちも決して見捨てないこの神の御手の中で生かされているのです。

今日のメッセージ 『神の愛の警告』 2023年10月22日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト37章1~29節〕

 幕屋の次にイスラエルの民は、聖所の中に備える備品として、さとしの箱(契約の箱)、机、燭台、香の祭壇、さらに聖なる注ぎの油と純粋な香り高い香を作りました。さとしの箱の上の「宥めの蓋」には、両翼を上の方に広げた二つのケルビムが置かれ、この中に、神の教えが記されている「さとしの二枚の板」が納められるのです。燭台は純金で、台座と支柱から出る六本の枝に、アーモンドの花の形を槌で打って作りました。アーモンドはいのちの象徴であり、燭台は聖所の中を照らす光となりました。けれども人の手で作られたこれらすべては、今は失われ、消え去ってしまいました。

 しかし、今日も私たちの主キリストは、天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます(へブル8:1,2)。それは、主が十字架で流されたご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたからです(へブル9:12)。ですから、私たちは行いによるのではなく、キリストを罪からの救い主と信じる信仰によって救われるのです(エペソ2:5)。

 ところが、いつの間にか、キリスト者の中に、行いを重視しする律法主義の人々が現れてきたため、パウロは「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(ガラテ3:1)」と嘆きました。同様に私たちも行いを頑張ることで救いを達成しようとしてしまいます。

 主は私たちに、「わたしはあなたに忠告する。~目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。(黙示録3:18)」と、十字架の主を見上げるように愛の警告を語ります。