![]() |
〔イザヤ53章1~6節〕
人は自分たちを守ってくれる指導者に、強くてリーダーシップに長けた人を求めます。特に不安定な時代になればなるほど、「強さ」を求めるものです。
しかし、預言者イザヤが語った救い主像は、大国アッシリアの脅威にさらされていた南ユダ王国の民にとって、受け入れられるものではありませんでした。それは強い指導者ではなく「悲しみの人で、病を知っている」方であり、人々が慕うような見栄えもなく、むしろ蔑まれ、のけ者にされ、尊ばれないお方として語られたからでした。その預言通り、救い主としてこの世に来られたイエス・キリストは、無実であるにもかかわらず十字架刑による惨めな死を迎えました。「私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:4~5)」とあるのは、神がご自身に対する私たちの背きの罪と咎をこのキリストに負わせ、十字架によって処罰し、私たちを赦すための贖いを成し遂げるためだったのです。
すべては、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって歩んでいる私たちを、探し出し、神の身元に再び招き入れるためでした。そのために、神はイエス・キリストをこの世に遣わされたのです。そして、「悲しみの人で、病を知っている」このお方は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」とあなたを招いておられます。
今、あなたは、どこにいるのでしょうか、イエス様の懐に勇気をもって飛び込みましょう。 「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:18)