今日のメッセージ 『罪から離れよ』 2024年2月11日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記5章1~13節〕

 神は、イスラエルの民が証人としての責務を果たさなかった場合、汚れたものに触れた場合、誓ったことを果たさなかった場合、それらの一つにでも責めを覚えるなら、その罪を神の前に告白し、子羊、あるいはやぎの雌一匹、しかし羊、やぎを買う余裕がなければ山鳩、あるいは家鳩のひな二羽、さらにそれさえも手に入れられなかったなら、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として祭司のところに持って行くように定められました。そして祭司はその人の罪のための宥めを行ない、彼は赦される、と定めたのです。

 「膿を出す」とは組織、団体などの悪い慣習を根本から取り除くことで、放置すれば、取り返しのつかない状況を招きます。同様に罪も放置するなら、民全体が罪に支配されます。ですから、聖なる神は、神の民に聖なる歩みを求め、罪の宥めを定められたのです。

 「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6:5)」、これがこの世の姿です。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と証言した通り、イエス様は、私たちの罪のために十字架で血を流し、贖いを成し遂げてくださり、ご自身を信じる者を神の子どもとしてくださいました。そして、神のこどもとなった私たちを、あらゆる形の悪から離れる歩み(Ⅰテサロニケ5:22)へと導いてくださいました。ですが、それは自分の力では到底できません。そこで、神は助け主、即ち聖霊を私たちの内に住まわせてくださり、このお方の助けによって、悪から離れる力を与えてくださったのです。

 私たちの内に来てくださった聖霊の働きを妨げるものは罪です。ですから、罪の悔い改めが重要なのです。

今日のメッセージ 『全き赦し』 2024年2月4日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記4章13~35節〕

 今日の聖書箇所は、イスラエルの民全体、あるいは族長のだれか、会衆のだれかが過って罪を犯した場合の罪のきよめについてです。民全体の場合は代表の長老たちが若い雄牛を、族長の場合は傷のない雄やぎを、会衆の場合は傷のない雌やぎを祭司のところに連れて行き、それぞれが主の前でささげ物の頭に手を置き、主の前で屠ります。民の代表の長老は指を血に浸し、主の前で垂れ幕に向けてその血を七度振りまき、全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。族長と会衆の場合は、ささげ物の血を全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。それぞれ残りの血は、すべて祭壇の土台に流す。最上の部位、脂肪は祭壇で焼いて煙にする。これが主への芳ばしい香りとなり、彼らの罪は赦されるのです。このように罪の宥めを行うことにより、神は罪を赦されるのです。

 血を流す、すなわち、いのちによらなければ罪の赦しはありません。(へブル9:22)

 しかし今、イエス様がご自身のいのちを罪のささげ物として、私たちのために、ただ一度だけ献げてくださったゆえに、主を信じる人々を神は完全に救うことができるのです。イエス様の罪の宥めは、完全です。神はイエス様を罪からの救い主と信じるすべての人に対して「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない(へブル10:17)」と言われます。つまり、私たちの罪は完全に赦され、私たちは罪を離れ、神とともに生きる者にされました。

 ではその私たちは、どこへ向かえばよいのでしょうか。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)」

今日のメッセージ 『きよさとへりくだり』 2024年1月28日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記4章1~12節〕

 レビ記4章では、気づかずに主の戒めを破り罪に陥った場合について、祭司、会衆、族長、民衆のじゅんに教えています。今日の箇所は、油注がれた祭司が罪に陥った場合についてです。たとえ神に仕える祭司であっても、人間ですから罪は犯します。そこで、神は罪のきよめのささげ物として、傷のない若い雄牛を主に献げることを定められました。

 具体的には、雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠り、指を血に浸し、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまき、またその血を会見の天幕の中にある、祭壇の四隅の角に塗り、その残りの血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流すようにと定められました。祭司は神に仕え、罪の贖いの儀式を行なう民の霊的指導者ですから、“きよさ”と“へりくだり”が求められます。

 今、私たちはキリストの十字架によって罪赦され、さらに「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です(Ⅰペテロ2:9)」とあるように、祭司の役割が与えられています。その祭司としての“きよさ”に必要なのは、「自分の罪を告白するなら、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる(Ⅰヨハネ:9)」との約束に基づいた日々の罪の悔い改めです。また、弟子の足を洗われたイエス様のへりくだったお姿(ヨハネ13:15)や正しくさばかれる方にすべてをお任せになられた謙遜なお姿(Ⅰペテロ2:21~24)を模範とすることによって、私たちもへりくだった者にされるのです。

 黙々と十字架に従われたイエス様から目を離さずに歩みましょう。

 「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」(Ⅱコリント4:16)

今日のメッセージ 『心の点検』 2024年1月21日

 牧師 高橋勝義

〔レビ3章1~17節〕

 人と人との関係が良好でなければ、自由で楽しい交わりはできません。ましてや、罪深い人間が聖なる神と交わるには、どうすればよいのでしょうか。

 そこで神は罪の贖いのための交わりのいけにえを献げ、さらに主への食物のささげ物として、その脂肪を献げるように定められました。全焼のささげ物と同様に、ささげ物の頭に手を置き、会見の天幕の入り口で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を祭壇の側面に振りかけます。そして、これをどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟とされたのです。

 ところで、人と人との交わりが、豊かになるためには何が必要でしょうか?

 イエス様は、神殿の祭壇に交わりのささげ物を献げようとしている時、人に恨まれていることを思い出したなら、まず相手と仲直りをしてから交わりのささげ物を献げなさい、牢に投げ込まれてからでは間に合いません、あなたを訴える人と一刻も早く和解をしなさい、と勧めています(マタイ5:23~26)。交わりのささげ物をする時、つまり、私たちが神の前に出る時には、まず静まって、心の点検をするように促されたのです。

 私たちにはイエス様の十字架のゆえに、動物による交わりのささげ物は必要ありません。イエス様が、御自身の十字架によって私たちを神と和解させてくださったからです(エペソ2:16)。そして、この神との和解が、人と人との交わりを豊かにするのです。イエス様の愛を知ることが(Ⅰヨハネ4:10)、自分の罪の赦しを知り、自らの心の点検になるのです。神との和解こそが、自分の罪深さを知り、私たちを謙遜な者へと導き(ピリピ2:3)、私たちの交わりを豊かにする鍵なのです。

 あなたは、この鍵を握っておられますか。

今日のメッセージ 『神の豊かな恵みの中で』 2024年1月14日

 高橋勝義

〔レビ2章1~16節〕

 創造主なる神はこの世界を造られ、私たちは神が造られたすべてのものから豊かな恵みを頂いて日々の生活を送っています。イエス様が「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。(マタイ6:26)」と言われたとおり、これは神からの賜物(プレゼント)なのです。

 このレビ記2章に記されている穀物のささげ物は、神の恵みへの感謝の表われです。穀物のささげ物は、祭司アロンとその子らのもとに持って行き、祭壇で焼かれ、神にささげられました。それは、神への芳ばしい香りとなり、神はそれを喜んでくださいました。その残りは、アロンとその子らのものとなり、それは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものとされました。穀物のささげものは腐敗を防ぐ塩で味をつけるように命じられましたが、これは神の契約が永遠に変わらず保たれることを現わしているのです。

 「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」とあるように、神は公平なお方です。この恵みによって、「主が良いものを下さるので私たちの大地は産物を産み出すのです(詩篇85:12)」。神は「あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前で礼拝しなければならない」(申命記26:10)と命じておられますが、私たちはこのような恵みを与えてくださる神に心から感謝し、喜びをもってささげ物をささげ、神を礼拝しているでしょうか。

 聖書が「世界とそれに満ちるものはわたしのものだ(詩篇50:12)」と語っているように、私たちは神の豊かな恵みの中で生かされているのです。

今日のメッセージ 『真の礼拝者』 2023年1月7日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記1章1~17節〕

 エジプトからイスラエルの民を救い出した神は、シナイ山でさとしの板に神の民としての歩みを記し(十戒)、その麓でモーセを通して幕屋造りを命じました。さらに、神の幕屋を中心にして約束の地を目指すイスラエルの民に、具体的な神との交わりについて、また聖なる国民としての生き方についても教えられたのです。それらを記したものがレビ記です。

 ノアは洪水の水が引き、地に降り立った時、まず祭壇を築き、全焼のささげ物を献げました(創8:20)。またアブラハムも、自分に現れてくださった主のために、その場所に祭壇を築きました(創12:7)。ノアもアブラハムも、自ら進んで、まず神を礼拝したのです。

 全焼のささげ物は、聖なる神を礼拝するために必要不可欠です。神が私たちの罪を、この動物の血というささげ物、すなわちいのちをもって罪を贖うようにしてくださったからです。そして民は聖なる神を礼拝したのです。

 しかし今は、イエス様がご自身のいのちを私たちの罪のために献げられ、罪の贖いを成し遂げてくださったゆえに(ヘブル7:27)、旧約の時代のような動物のささげ物は必要とせず、イエス様の十字架によって、聖なる神を礼拝し、自由に神と交わることができるのです。

 何という恵みであり、感謝なことではないでしょうか。

 神は、あなたが真の礼拝者になることを待っておられます。

 「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。(ヨハ4:23,24)」

今日のメッセージ 『神が備える新しい道』 2024年1月1日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ43章15~19節〕

 「東京砂漠」という歌がヒットしたことがありました。ビルの谷間には人が溢れ、やさしさも見失う砂漠のような都会…。しかし便利になった今日も、人の心は相変わらず砂漠状態ではないでしょうか。

 かつて、イスラエルは、エジプトで奴隷状態でしたが、神はモーセを遣わし、彼らを救い出します。しかし、奴隷(イスラエル)を取り戻そうと、エジプト軍が追い迫ってきたとき神は紅海を風で二つに分け、海の底に道を造り、イスラエルの民はその道を通って、無事、脱出することができました。このようなことができる全能の神が「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。」と私たちに語ります。それは、「必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」と約束する神が、私たちの人生に新たな道を導いてくださるからです。

 この道について、イエス様は「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」と語られました。砂漠状態にある私たちの心の中に、本物の愛を注ごうとされているのです。さらに神は「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─主のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」と約束してくださっています。

 神はあなたに「見よ、わたしは新しいことを行う」と語っているではありませんか。さあ、あなたの人生という道にイエス様をお迎えして、新しい年を始めましょう。

今日のメッセージ 『神とともに歩む』 2023年12月31日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト40章34~38節〕

 「旅は道連れ世は情け」とは、旅に道連れがいると心強いように、人生の旅路も周りと仲良く、助け合って生きていくことが大切だ、という意味です。

 モーセは、神が命じられた通りに、幕屋の設営を行い、すべての仕事を終えました。すると、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちたため、モーセは会見の天幕に入ることができませんでした。イスラエルの民は、旅路の間、いつも雲が幕屋の上から離れて動き出すと、そのあとに従って旅立ち、雲が動くのをやめるとそこにとどまり、動き出すまでじっと待ちました。昼は幕屋の上に主の雲がかかり、夜は雲の中に火が輝きました。

 イスラエルの旅路を導かれるのは、彼らをエジプトから救い出された神であり、いつでも、どこででも、どんな時にも、神は彼らともに歩んでくださるお方でした。幕屋の上に昼は主の雲が、夜は雲の中に火があることが、彼らへのしるしでした。

 アブラハムは神のことばを信じた信仰によって義と認められた、と聖書が語っているように、イエス様を罪からの救い主と信じる信仰によって、私たちはアブラハムの霊的子孫であると聖書は語ります(ガラテヤ3:6,7)。それはイスラエルを救い出すために、エジプトに不思議な御業を下した同じ神が、あなたの神となってくださることを意味します。あなたは、人生の旅路に最も強力な道連れを得たことになるのです。

 「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ46:4)」と語ってくださる神を信頼し、感謝と喜びをもって、ぶれることなく神に従って行きましょう。

今日のメッセージ 『私たちのために救い主が生まれる』 2023年12月24日

 牧師 高橋勝義

〔マタイ1章18~25節〕

 赤ん坊の産声が闇に響き、母マリアは生まれたばかりの赤子を腕の中に抱き、布にくるんで飼葉桶に寝かせます。その寝顔を見守るのは、両親と家畜小屋の動物たちだけでした。預言者イザヤが、「主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエル(神が私たちとともにおられる)と呼ぶ。(イザヤ7:14)」と、その誕生の約700年前に語ったことが、ここに成就したのです。

 このよき知らせを、神はまず夜番をしていた貧しい羊飼いたちに知らせました。御使いが彼らの前に現れ「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)」と語ったのです。彼らは、それを確かめるべく出かけて行き、御使いが語ったとおりだったので、神をあがめながら、帰って行ったのです。

 神の御姿を捨て、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられた、とありますが、まさにキリストは家畜小屋でお生まれになったのです。それだけではなく、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました(ピリピ2: 6,7,8)。

罪ある私たちは、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」ゆえに、その私たちの身代わりとなって、罪のためのいけにえになられたのです (ヘブル9:26) 。神は、私たちがひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つために(ヨハネ3:16)、キリストをこの世に遣わすことをご計画されたのです。

 すべては、あなたのためです。あなたのために、救い主をこの世に生まれさせてくださった神の愛に心から感謝し、喜んで、イエス・キリストを心にお迎えしましょう。