今日のメッセージ 『聖霊の証印』 2024年3月24日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記8章22~36節〕

 モーセはアロンに大祭司の装束を着せ、頭の上に油を注ぎ聖別しました。次にその子らにも祭司職の装束を着せ、アロンとその子らを祭司職に任じる任職を行ないました。アロンとその子らは雄羊の頭に手を置き、それは屠られ、モーセはその血を彼らの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗り、残りを祭壇の側面に振りかけ、脂肪及び輪形と薄焼きパン各一個も祭壇の上で、全焼のささげ物とともに焼いて煙にしました。アロンとその子らは会見の天幕の入り口で、その肉を煮て、任職のささげ物のかごの中にあるパンと一緒に食べ、残りは火で焼きました。祭司職の任命には七日を要するため、会見の天幕の入り口で七日の間、昼も夜もとどまり、主への務めを果たさなければなりません。それは、彼らが死ぬことがないようにと神が定められたからです。

 任職式は、神からの召しと祭司職に任ぜられたことを示す証印ですからとても重要です。では、この事は今の私たちにどう関わるのでしょうか。

 聖書は「神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました」(Ⅱコリント1:22) さらに「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」(エペソ1:13)と語っています。

 証印とは、証明のために押す印のことですから、神は私たちが救われていることを証明するために、私たちの内に聖霊を内住させてくださったのです。

 「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
(ローマ8:1)

今日のメッセージ 『御霊によって歩みなさい』 2024年3月17日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記8章1~21節〕

 神はアロンとその子らを神の働きに召し、モーセに油注ぎを行うように指示されました。アロンとその子ら、そして全会衆を幕屋の入り口に集め、アロンとその子らを水で洗い、その後アロンに祭司服を身につけさせます。モーセは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてと祭壇の上に七度振りまき、祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台の油注ぎを行い、それらを聖別しました。それからアロンの頭に油を注ぎ、彼を聖別しました。次にアロンの子らを連れて来て、彼らにも長服を着せ、装束を整えました。アロンとその子らは、罪のきよめのささげ物、また全焼のささげ物である雄牛の頭に手を置き、それを屠り、モーセはその血を祭壇の側面に振りかけ、その雄羊を全部、祭壇の上で焼いて煙にしました。すべて主が命じられたとおりにモーセは行いました。

 神は御自身の働きのために召した人、アロンの頭に、特別に油を注ぎました。この頭に油を注ぐ行為は、今の私たちにどう関わるのでしょうか。イエス様の昇天から50日後、約束された通り聖霊が下られました(使徒1:8)。炎のような舌が分かれて、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、他国のいろいろなことばで話し始めたのです(使徒2:3,4)。また、異邦人にも同じように聖霊が注がれました(使徒10:44)。この時から聖霊はイエス様を救い主と信じるすべての人の内にきてくださったのです。そして自分の力で頑張る歩みから、私たちの心に内住される神、聖霊に導かれる歩みへと移されたのです。

 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」                    (ガラテヤ5:16)

今日のメッセージ 『私たちの永遠の相続地』 2024年3月10日

 牧師 高橋勝義

〔レビ7章22~38節〕

 神は、動物の死骸にある脂肪、野獣にかみ裂かれた動物の脂肪、また、食物のささげ物として主に献げられた動物の脂肪を食べてはならない。また、イスラエルの民は、どこに住んでいても、鳥でも動物でもその血を食べてはならない、これを食べる者はみな、神の民から断ち切られる、と告げられました。そして神は、交わりのいけにえとしてささげられた胸肉、右のもも肉をアロンとその子らがイスラエルの民から受け取る永遠の割り当て(権利)と定められました。それは神が、レビ族は相続地を持ってはならないと定められた(民数記18:20)ゆえです。これから入る約束の地では、レビ族には受け取るべき割り当て地がないのです。

 それでは、私たちが受け取る割り当て地、相続地について考えてみましょう。

 イエス様と一緒に十字架にかけられた囚人が二人いました。そのうちの一人は、イエス様をののしりますが、もう一人は、自分の罪を認め「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と願いました。彼のこの告白に対して、イエス様は、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)」と言われたのです。同様に、イエス様を罪からの救い主と信じた私たちには、天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあるのです(Ⅱコリント5:1)。

 これこそが、イエス・キリストを救い主と信じる者が受け取る割り当て地であり、私たちの永遠の相続地なのです。ここでは、私たちの目の涙を神がことごとくぬぐい取って下さり、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもないのです(黙示21:4)。さあ、罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか(へブル12:1)。

今日のメッセージ 『狭い門から入りなさい』 2024年3月3日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記7章1~21節〕

 今日の聖書個所は、代償のささげ物、罪のきよめのささげ物、交わりのいけにえ(感謝のささげ物・誓願のささげ物)についての祭司への教えが記されています。

 代償のささげ物の脂肪はすべて、祭壇の上で、主への食物のささげ物として、焼いて煙にする。感謝のための交わりのいけにえをささげる時には一緒に種入りの輪形パンも献げ、肉はその日に食べ、朝まで残してはならない。誓願のささげ物は献げた日に食べ、残りは翌日食べてもよいが、三日目は火で焼く。汚れたものに触れた肉は火で焼き、食べてはならない。また汚れがある人が、交わりのいけにえの肉を食べるなら、その人は神の民から断ち切られ、また人の汚れや汚れた動物、またあらゆる汚れた忌むべきものに触れていながら、主に献げられた交わりのいけにえの肉を食べるなら、その人は神の民から断ち切られる、と語られました。かつて神は、「聖なる油と似たものを調合したり、作って嗅ぐ者((出30:33,38)は、自分の民の間から断ち切られる」と命じていました。神の権威を侮る者、また聖さを汚す者は、「神の民から切り離される」のです。それは、彼らに神の民であることの自覚と神の権威と聖さを教えるためでした。

 イエス様は「わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。(マタイ12:31)」と語りました。聖霊だけが人を救いに導くことができるからです(テトス3:5)。事実、私たちがイエス様を罪からの救い主と告白することができるのは、聖霊の働きと導きがあるからです(Ⅰコリント12:3)。

 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:13)

今日のメッセージ 『朝ごとに主にお会いする』 2023年2月25日

 牧師 高橋勝義

〔レビ6章8~30節〕

 今日の聖書個所には、全焼のささげ物、穀物のささげ物、アロンとその子らが任職の時主に献げるささげ物、罪のきよめのためのささげ物について記されています。

 全焼のささげ物は、一晩中、朝まで祭壇で焼き続け、祭壇の火は消してはならない。穀物のささげ物は、祭壇の上で焼いて煙にし、アロンの子らのうち男子はみな、残りの分を種なしパンにして会見の天幕の庭で食べる。しかし、祭司職に任せられるときの主へのささげ物は、すべて完全に焼き尽くし、食べてはならない。罪のきよめのためのささげ物は、全焼のささげ物が屠られる場所、主の前で屠られ、祭司の家系に属する男子はみな、それを聖なる所、会見の天幕の庭で食べる。これは最も聖なるものである。

 この「聖なる所、会見の天幕の庭で食べる」とは、神の御臨在の中で「最も聖なるもの」を食べること、つまり、神との交わりの中で、聖なる神の聖さにあずかることを意味します。

 イエス様を罪からの救い主と信じた私たちは、今や祭司とされ、同時に「光」の中に召されています(Ⅰペテロ2:9)。イエス様は「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)と語られました。その私たちが「光」また「聖」であるために必要なことは、日々の神との交わりです。それは「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない(ヨハネ15:5)」からです。

 神と交わることができるのは、イエス様の十字架ゆえであり、私たちはこの恵みの中に生かされているのです。ですから、神はあなたに「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。(エペソ5:8)」と勧めています。

今日のメッセージ 『貪欲に警戒しなさい』 2024年2月18日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記5章14節~6章7節〕

 今日の聖書個所は、三つの罪について扱っています。一つは主へのささげ物に関して気づかずに罪を犯したなら、代償のささげ物に五分の一を加え、償いとして傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。二つ目は主の戒めの一つでも自覚せずに、または気づかずに犯した場合には、過失の代償として傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。三つ目は、盗み、横領、着服、詐欺によって損害を被らせた場合、それらすべてを返し、さらに五分の一を加えて支払った上で、代償として傷のない雄羊一匹を主への代償のささげ物として祭司のところに連れて行く。祭司は、それぞれに宥めを行ない、そして彼は赦される。

 代償とは、他人に与えた損害の償いとして、それに相応するものを支払うことです。神が代償のささげ物を求められたのは、私たちの内に潜む貪欲がさまざまな問題を引き起こしてしまうことを気づかせ、自らの心を吟味するように教えるためでした。

 イエス様は「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(ルカ12:15)」と語りました。それは、豊かになることが幸せだと考えている私たちに対し、「永遠のいのち」こそが最も大切であることを教え諭すためなのです。では、なぜ貪欲に警戒しなければならないのでしょうか。貪欲が私たちの心を曇らせ、私たちを肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢へと走らせ、不正なむさぼりを引き起こしてしまうからです。

 「その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。」(エゼキエル33:15)

今日のメッセージ 『罪から離れよ』 2024年2月11日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記5章1~13節〕

 神は、イスラエルの民が証人としての責務を果たさなかった場合、汚れたものに触れた場合、誓ったことを果たさなかった場合、それらの一つにでも責めを覚えるなら、その罪を神の前に告白し、子羊、あるいはやぎの雌一匹、しかし羊、やぎを買う余裕がなければ山鳩、あるいは家鳩のひな二羽、さらにそれさえも手に入れられなかったなら、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として祭司のところに持って行くように定められました。そして祭司はその人の罪のための宥めを行ない、彼は赦される、と定めたのです。

 「膿を出す」とは組織、団体などの悪い慣習を根本から取り除くことで、放置すれば、取り返しのつかない状況を招きます。同様に罪も放置するなら、民全体が罪に支配されます。ですから、聖なる神は、神の民に聖なる歩みを求め、罪の宥めを定められたのです。

 「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6:5)」、これがこの世の姿です。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と証言した通り、イエス様は、私たちの罪のために十字架で血を流し、贖いを成し遂げてくださり、ご自身を信じる者を神の子どもとしてくださいました。そして、神のこどもとなった私たちを、あらゆる形の悪から離れる歩み(Ⅰテサロニケ5:22)へと導いてくださいました。ですが、それは自分の力では到底できません。そこで、神は助け主、即ち聖霊を私たちの内に住まわせてくださり、このお方の助けによって、悪から離れる力を与えてくださったのです。

 私たちの内に来てくださった聖霊の働きを妨げるものは罪です。ですから、罪の悔い改めが重要なのです。

今日のメッセージ 『全き赦し』 2024年2月4日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記4章13~35節〕

 今日の聖書箇所は、イスラエルの民全体、あるいは族長のだれか、会衆のだれかが過って罪を犯した場合の罪のきよめについてです。民全体の場合は代表の長老たちが若い雄牛を、族長の場合は傷のない雄やぎを、会衆の場合は傷のない雌やぎを祭司のところに連れて行き、それぞれが主の前でささげ物の頭に手を置き、主の前で屠ります。民の代表の長老は指を血に浸し、主の前で垂れ幕に向けてその血を七度振りまき、全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。族長と会衆の場合は、ささげ物の血を全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。それぞれ残りの血は、すべて祭壇の土台に流す。最上の部位、脂肪は祭壇で焼いて煙にする。これが主への芳ばしい香りとなり、彼らの罪は赦されるのです。このように罪の宥めを行うことにより、神は罪を赦されるのです。

 血を流す、すなわち、いのちによらなければ罪の赦しはありません。(へブル9:22)

 しかし今、イエス様がご自身のいのちを罪のささげ物として、私たちのために、ただ一度だけ献げてくださったゆえに、主を信じる人々を神は完全に救うことができるのです。イエス様の罪の宥めは、完全です。神はイエス様を罪からの救い主と信じるすべての人に対して「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない(へブル10:17)」と言われます。つまり、私たちの罪は完全に赦され、私たちは罪を離れ、神とともに生きる者にされました。

 ではその私たちは、どこへ向かえばよいのでしょうか。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)」

今日のメッセージ 『きよさとへりくだり』 2024年1月28日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記4章1~12節〕

 レビ記4章では、気づかずに主の戒めを破り罪に陥った場合について、祭司、会衆、族長、民衆のじゅんに教えています。今日の箇所は、油注がれた祭司が罪に陥った場合についてです。たとえ神に仕える祭司であっても、人間ですから罪は犯します。そこで、神は罪のきよめのささげ物として、傷のない若い雄牛を主に献げることを定められました。

 具体的には、雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠り、指を血に浸し、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまき、またその血を会見の天幕の中にある、祭壇の四隅の角に塗り、その残りの血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流すようにと定められました。祭司は神に仕え、罪の贖いの儀式を行なう民の霊的指導者ですから、“きよさ”と“へりくだり”が求められます。

 今、私たちはキリストの十字架によって罪赦され、さらに「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です(Ⅰペテロ2:9)」とあるように、祭司の役割が与えられています。その祭司としての“きよさ”に必要なのは、「自分の罪を告白するなら、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる(Ⅰヨハネ:9)」との約束に基づいた日々の罪の悔い改めです。また、弟子の足を洗われたイエス様のへりくだったお姿(ヨハネ13:15)や正しくさばかれる方にすべてをお任せになられた謙遜なお姿(Ⅰペテロ2:21~24)を模範とすることによって、私たちもへりくだった者にされるのです。

 黙々と十字架に従われたイエス様から目を離さずに歩みましょう。

 「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」(Ⅱコリント4:16)