牧師 高橋勝義 |
〔レビ記4章13~35節〕
今日の聖書箇所は、イスラエルの民全体、あるいは族長のだれか、会衆のだれかが過って罪を犯した場合の罪のきよめについてです。民全体の場合は代表の長老たちが若い雄牛を、族長の場合は傷のない雄やぎを、会衆の場合は傷のない雌やぎを祭司のところに連れて行き、それぞれが主の前でささげ物の頭に手を置き、主の前で屠ります。民の代表の長老は指を血に浸し、主の前で垂れ幕に向けてその血を七度振りまき、全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。族長と会衆の場合は、ささげ物の血を全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。それぞれ残りの血は、すべて祭壇の土台に流す。最上の部位、脂肪は祭壇で焼いて煙にする。これが主への芳ばしい香りとなり、彼らの罪は赦されるのです。このように罪の宥めを行うことにより、神は罪を赦されるのです。
血を流す、すなわち、いのちによらなければ罪の赦しはありません。(へブル9:22)
しかし今、イエス様がご自身のいのちを罪のささげ物として、私たちのために、ただ一度だけ献げてくださったゆえに、主を信じる人々を神は完全に救うことができるのです。イエス様の罪の宥めは、完全です。神はイエス様を罪からの救い主と信じるすべての人に対して「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない(へブル10:17)」と言われます。つまり、私たちの罪は完全に赦され、私たちは罪を離れ、神とともに生きる者にされました。
ではその私たちは、どこへ向かえばよいのでしょうか。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)」
牧師 高橋勝義