牧師コラム 『主イエスは栄光を帯びて』 2016年7月3日

IMG_8506  栗原 延元 牧師

〈その時、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです〉
(マルコ13章26節)

先週に続いてマルコ13章14~27節を学びます。
この章はエルサレムの神殿崩壊の預言から、
いろいろな災害(戦争などの人災、地震などの自然災害)が述べられ、
その災いも、ユダヤなどの地域から、地の果てまで世界的に及ぶことが語られています。

主イエスは、〈わたしは、何もかも前もって話しました〉(23節)と
弟子たちと別れて御父のもとに帰る前に、気をつけるべきことを具体的に話したのです。
その苦難は、天地創造の初めから人類が経験したことのないようなものです。

〈太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます〉
(13章24,25節)を読むと、身の毛もよだつ恐ろしさを感じます。

終末の預言は、弟子たちを恐怖の底に投げ込むために、
主イエスは語られたのではありません。
究極的な勝利者としての御自身を明らかにしているのです。
十字架につけられた主イエスは、次に偉大な力と栄光を帯びてこられます。
ここに希望が輝いているのです。

牧師コラム 『気をつけるべきこと』 2016年6月26日

IMG_8506  栗原 延元 牧師

 

先日、車を走らせていたら「気をつけよう!雨の日、夕暮、交差点」の看板が
目に留まりました。
確かに、梅雨に入ったこの時季にタイムリーな交通標語です。

主イエスは、まもなく弟子たちと別れて、天に帰る前に、気をつけるべきことを
四項目に分けて話されました。
そのことがマルコ13章に書かれています。
今日、学ぶ3節から13節に、二つの気をつけるべきことが述べられています。

第一は〈人に惑わされない〉ことです。
主イエスは、ご自分が天に帰られた後の世界には、自分こそが救世主だという者が
一人や二人ではなく、大勢、現れるからです。
そして多くの人たちが惑わされるからだというのです。
主イエスが再び来られる時の様子はマルコ13章26節にはっきりと語られています。
また主イエスの再臨の前には、世の終末の前兆として、
戦争、地震、飢饉などが起こることが告げられています。

次にクリスチャンである故に為政者たちばかりでなく、
親、兄弟、子どもたちからさえも憎まれ、苦しめられるかも知れないということです。
信仰を全うするための覚悟を語っているのがこの章です。

牧師コラム 『あなたのかたわらにおられる神』 2016年6月19日

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聖徳太子の肖像画は、「お札の顔」として長きにわたって使用されたため、
広く知れるようになりました。
ところが、その聖徳太子は架空の人物であり、肖像画も本人ではないようです。
これには、とても驚いたとともに何が真実なのか、分からなくなりました。

世界の歴史は、イエス・キリストが生まれる前[B.C(紀元前)]と後[A.D(紀元)]で区切られ、
世界中で西暦という年号が用いられています。
ということは、「イエス・キリスト」が、歴史上の人物であり、
存在していたことを証明しているのです。

イエス様は、

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。
その聖書が、わたしについて証言しているのです。」と語っています。

あなたが、イエス・キリストを救い主として信じ、永遠のいのちをいただいたとき、
イエス・キリストは遠くにおられる神ではなく、
あなたとともに歩まれる神となってくださるのです。
イエス・キリストは、世の終わりまで、いつも、あなたとともにいますと、
約束してくださっています。

牧師コラム 『永遠のいのち』 2016年6月12日

IMG_8506  高橋 勝義 伝道師

人は、人間が作った神々を敬い、あがめています。
人間を創られた神様がおられるのに、その神様を敬わず、感謝もせず、
無視し、自分勝手なことばかりを続けています。
このような歩みの先は、滅びなのです。
なぜなら、聖書は

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
と語っているからです。

イエス様は、

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、
さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)」

と語られました。
また、「与えたいと思う者にいのちを与えます」とも語っています。

与えたい者とは、イエス様を救い主として信じる者のことです。
イエス様が備えられた「永遠のいのち」は、私たちを永遠の滅びから救い、
新しく造り変え、新しいいのちへと導きます。
この素晴らしい「永遠のいのち」は、イエス様のことばを聞いて、
イエス様を信じる者すべてに与えられるのです。今がその時です。

牧師コラム 『主イエスと子どもたち』 2016年6月5日

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〈そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された〉(マルコ10:16)。
主イエスの子どもたちへの愛があふれて出ている行為です。

しかし、イエスの弟子たちは、子どもたちを叱るのです。
そして神の国の真理を語ります。

〈神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。〉

子どものようにとは、自分を飾らないという事でしょうか。
ありのまま、そのままで、赤ちゃんはお母さんやお父さんに自分の身をゆだねます。
お母さんは、赤ちゃんに「ご褒美」としてお乳を与えません。
なぜなら、ご褒美は、立派な良い行為に対する報酬として与えられるものだからです。

神の国は、イエスを神と信じる者に恵みの賜物として与えられるものです。
人間の良い行いの報酬としてではありません。
主イエスの弟子たちは、この時、まだ恵みとは何たるかを知りませんでした。
彼らは、自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合っていたのです。
この彼らに子どもたちから学べと主は語るのです。

牧師コラム 『よくなりたいか』 2016年5月29日

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イエス様は、三十八年もの間、病気にかかっている人に、
「よくなりたいか」と問いかけました。
彼は、素直に「はい」とは言わず、
「池の中に私を入れてくれる人がいません」と答えました。
イエス様は、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じ、彼の病気を完全に直されました。

その後、宮で彼を見つけられたイエス様は、
「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。
そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」と語りました。
イエス様の「よくなりたいか」は、病気に対する問いかけですが、
実は、彼の心の状態に対しても問いかけているのです。

「罪を行っているものは、罪の奴隷であり、罪の中で死んでいる」と語っておられるように、
彼に、罪の生活をしないように、自分自身の生活を顧みるように諭されたのです。

「よくなりたいか」の問いは、私たちの内にある本音に対し、
本当は、どうして欲しいのか?」と問いかけているのです。

あなたは、イエス様の「よくなりたいか」の問いかけに、何と答えますか?

牧師コラム 『真に偉大なもの』 2016年5月22日

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主イエスの在世当時、エルサレムにはヘロデ神殿と呼ばれる
ユダヤ教の神殿が建っていました。
BC(紀元前)20年に着手し、AD(紀元)64年に完成したので、
主イエスの時代には建設中でしたが、ユダヤ人の誇る建造物でした。

イエスの弟子の一人が
「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」と
感嘆の声を上げますと、イエスは彼に言われました。

「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、
積まれたままで残ることは決してありません。」(マルコ13章1,2節)

主イエスは半永久的に続くと思われていたこの神殿の崩壊を預言するのです。
そして、AD(紀元)70年、ローマ帝国、ティトゥスによるエルサレム陥落によって
預言は成就するのです。

この当時のイエスの弟子たちの関心事は、エルサレムへの旅の途中でも、
イエスが捕らえられる直前にも、〈弟子の中で誰が一番偉いか〉でした。
彼らは、外側が立派に見えるものに心が奪われていました。
その弟子たちに真に大切なもの、永遠に残るものをイエスは語っておられるのです。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
見えないものを見る信仰こそが真に偉大なものなのです。

牧師コラム 『神は生きておられる』  2016年5月15日

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「礼拝」という言葉は、仏教とキリスト教では読み方も内容も全く違います。
仏教では、「らいはい」と読み、慎みと敬う心をもって合掌、頭を低く下げ、
仏・菩薩などを拝みます。
キリスト教は、「れいはい」と読み、神様を心から賛美し、神様の恵みに感謝します。

神社や寺院に祭られているものは、人間の手で作られたものです。
それらは、見ることも、聞くことも、食べることも、においをかぐことも出来ません。
ましてや、私たち人間に関心を寄せるはずがありません。
それなのに、人間は、人が作ったものであることを知りつつも、有り難く思い拝みます。

キリスト教は、どうでしょうか。神様を礼拝するのは、
神が生きておられるお方であり、私たちを創造されたお方だからです。
私たちを愛するが故に、私たちのすべての罪を十字架でイエス・キリストに負わせ、
救いの道を備えてくださったからです。
それゆえ、クリスチャンは、神様を心から賛美し、その恵みに感謝をささげるのです。

牧師コラム 『レプタ2つの献金』 2016年5月8日

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一レプタは当時イスラエルの最小単位の銅貨で、
一デナリ(一日の労賃)の128分の1に相当します。
ですから一レプタは、今の百円硬貨に当たるでしょうか。

このレプタ銅貨2枚をエルサレムの神殿に備えられていた献金箱に
投げ入れた人がいました。
この人は〈貧しいやもめ〉(マルコ12:42)でした。
その他大勢の金持ちが大金を投げ入れていました。
これがイエスの受難週の火曜日のおそらく夕方近くの頃ではなかったかと思います。

イエスは弟子たちを呼び寄せて、レプタ2枚を投げ入れたこのやもめを、
どの人よりもたくさんの献金をした人であると誉めました。
その理由がマルコ12:44に記されています。

〈みなは、有り余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、
あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。〉

この女は経済的には貧しくありましたが、信仰は豊かでした。
一日の生活費の全部を献げましたが、翌日からどのようにして生きるか
ということに対する思い煩いはなかったようです。

〈明日のための心配は無用です〉の御言葉(マタイ6:34)と
「明日を守られるイエスがおられる」の歌詞が私の心に響いていきます。

牧師コラム 『イエスの喜び』 2016年5月1日

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あなたの喜びは何でしょうか。
サッカーファンならベガルタ仙台が勝つことでしょうか。
野球が好きな人なら、楽天イーグルスが優勝することでしょうか。
人それぞれに喜びがあることでしょう。

しばらく日曜日の礼拝では、イエスの最後の一週間、
即ち受難週の出来事を学んでいます。
今日学ぶマルコ12:35は、誰も尋ねる者がいなくなった後に
イエスが尋ねたことから始まっています。

その質問は<どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう>です。
キリスト(救い主)がダビデの子孫として生まれることは、当時のユダヤ人は
分かっていました。
ダビデがイスラエル王国を確立して繁栄させたように、
キリストは地上にイスラエル王国を復興させると人々は考えていたようです。
しかし、イエスは詩篇110:1を引用し、ダビデがキリストなる主に望んでいたのは

<わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座についていなさい>と言われた神のみことばの成就でした。
イエス・キリストは、神の右の座につくことを最上の喜びとしておられました。
この喜びの故に十字架の苦難を耐え偲ばれたのです(ヘブル12:2)。