牧師コラム 『神にはできる』 2019年1月20日

牧師 高橋勝義   

 「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」という若い指導者の質問に、イエス様は「神の教えを守るように」と答えました。
 しかし、「それらはすべて守っています」と断言する彼に対し、イエス様は「あなたの財産をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」と語られたのです。これを聞いたその人は、非常に悲しみ、去って行きました。なぜなら、彼は大変な金持ちだったからです。さらに、イエス様は言われました。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」
 人々は「それでは、だれが救われることができるでしょう」と驚きました。
 しかし、イエス様は『人にはできないことが、神にはできるのです』と言われました。
 イエス様に質問した青年の拠り所は、自分の正しい行い、そして財産でした。どちらも真面目に生きてきた証です。
 しかし、イエス様は、彼の心にある大切なものをも手離すように、すなわち、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか(マタイ16:26)」と語っているのです。

 「永遠のいのち」は、行いによっては決して得ることが出来ません。

 神の教えを完璧に守ることは、誰一人として出来ないからです。
 ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって(イエス・キリストの十字架は自分の罪の肩代わりであることを認める)人は救われ、「永遠のいのち」が与えられるのです。
 すべてが、神の成される御業であり、恵みであり、賜物(プレゼント)なのです。

牧師コラム 『祈りの姿勢』 2019年1月13日

 牧師 高橋勝義   

 祈りは、「苦しい時の神頼み」ではなく、まことの神との霊的な交わりであり、会話です。それは呼吸と同じで、生きるために不可欠なものなのです。
 ですから、イエス・キリストは、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」二つのたとえを話されました。

 その一つは、不正な裁判官のたとえ話しです(ルカ18:18)
 裁判官は、ひとりのやもめの訴えが、あまりにもうるさくて仕方がないために、彼女のための裁判をすることにしたというのです。
 イエス様は、このやもめのたとえから、あきらめずに神に期待して祈り続けることの大切さを教えられたのです。しかし、祈り続けることは、容易ではありません。だから、神が良くして下さった恵みの数々を思い出す時(103:2)、感謝と喜びが沸き上がり、その神に期待して祈り続けることが出来るのです。

 二つ目は、二人の人物の祈りのたとえ話しです(ルカ18:914)
 一人はパリサイ人で、彼は自分の行いの正しさを神に訴える祈りでした。もう一方の取税人は、遠く離れて立ち『神様、罪人の私をあわれんでください』と祈ったのです。
 イエス様は、神に義と認められたのは取税人の祈りであると言われました。なぜなら、取税人は、神を畏れ、神の前にへりくだっていたからです。
 そして、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです(ルカ18:14)」と語り、謙遜の大切さを教えられたのです。

 神は、 神を畏れ、神に期待して祈る人を待っておられるのです。

牧師コラム 『三つの問いかけ』 2019年1月6日

牧師 高橋勝義

 年の初めである元旦に、目標や計画を立てることは大切です。

 さて、パリサイ人たちに「神の国はいつ来るのか」と尋ねられたイエス様は、「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:20,21)」と答えられました。このイエス様の答えには、まことの神が、あなたに問いかけておられる大切な三つのことが隠されています。

 第一は、まことの神をどれくらい意識して生活しているか、です。
 喜ぶ時はもちろん、無力さを覚える時には、素直にそれを認め、神に頼る(祈る)ならば、神の平安と助け、そして守りの中で日々を過ごすことができるのです。

 第二は、突然やってくる世の終わりへの備えをしているか、です。
 私たちは、明日は今日と同じようにやって来る、と疑わずに眠りにつきます。しかし、聖書には私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、三日後によみがえり、天に帰られたイエス・キリストが再び地上に来られる(再臨)と、はっきり記されています。
救いの扉は、この再臨の時に閉じられるのです。

 第三は、神の国(天国)に入る確信を持っているか、です。
 イエス・キリストの十字架は、神から離れ、背を向けて歩んでいる私の罪のためであると信じる者には、『永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24) 』と聖書は約束しています。

 今年の計画の中に、神からの三つの問いかけを加えてみてはいかがでしょうか?

牧師コラム 『信仰とは…』 2019年1月1日

 牧師 高橋勝義

 「鰯の頭も信心から」とよく耳にしますが、これは昔、節分の夜にヒイラギのトゲと鰯の悪臭で鬼や悪を払うことが出来ると信じられていたことから、鰯の頭のようなつまらないものでも信じる人には、有り難いものになる。つまり、何を信じるかではなく、信心が大切だということを言っているようです。

 イエス様が、エルサレムに向かう途中のことでした。ハンセン病をわずらっていた十人の人が「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と声を張り上げて、助けを求めました。イエス様は彼らに「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われ、彼らはその言葉に従い祭司のところに行きました。ところが、その途中で癒されたのです。癒やされた十人の中で、引き返して来て、イエス様の足もとにひれ伏し、感謝したのはサマリア人ひとりだけでした。イエス様は、その彼に『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』と言われたのです。

 この出来事は、『信仰とは何か』を三つの観点から教えています。
 第一は、疑わずに信じて求めることです。
 「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という思いではなく、心をしっかりと定めて願う信仰が求められているのです。
 第二は、御言葉に信頼することです。
 イエス様から「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われた時に、自分の経験や知識に頼らず、また超自然的な奇蹟を渇望するのでもなく、素直に主のことばを信じ、従う信仰が求められているのです。
 第三に、神を信じることです。
 「神にとって不可能なことは何もない」お方を信じるのです。
 信仰とは、信じるお方と何を信じるかがとても重要なのです。

牧師コラム 『赦 し』 2018年12月30日

 牧師 高橋勝義   

 今年も残り2日です。あなたにとって、今年はどんな年だったでしょうか?
 楽しかったこと、その反対に腹立たしいこともあったことでしょう。
 イエス・キリストは、『一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。(ルカ17:4)』と語っています。
 人との関わりの中で生きている私たちは、多少の差はあっても、人間関係でつまずいた経験が必ずあるはずです。しかし、誰かをつまずかせたことよりも、自分が傷つき、つまずいたことの方をよく覚えているものです。その時の心の状態を思うと、苦々しさが湧いてきて、とても「赦す」ことなど考えられません。
 それなのに、イエス・キリストは、「赦しなさい」と命じておられます。
 イエス・キリストは、全く罪のないお方であるのに、十字架刑を受けました。そして、今まさに、息を引き取ろうとしているその瞬間『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)』と言われました。
 『彼ら』とは、愛の神から離れ、自分中心に生きている私たち自身のことをも言われたのですが、『彼ら(私たち)は自分がどんな歩みをしているのか、全く分からないまま生活しているのです。』ととりなしてくださったのです。
 イエス・キリストの十字架は、自分中心に生きてきた罪を認め、『ごめんなさい』と悔い改めた者に、赦しの道、新しい人生へと導いてくださるのです。
 あなたは、憎しみと恨みを残したまま年を越しますか?
 十字架の赦しを受け取り、神の助けによって自らも赦す人生へと歩んではいかがでしょうか…。

牧師コラム 『キリストのいのち』 2018年12月16日

牧師 高橋勝義

 最近、巷では「寿命100年時代をどう生きるか?」が話題になっています。
 しかし、どんなに寿命が延びたとしても、その先に待っているものは変わりません。
 さて、イエス・キリストは生まれる約700年も前に、その誕生が預言されていました。その聖書の預言には『(救い主イエス・キリストは) 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。(イザヤ42:3)』と記されています。この社会では、役に立たなければ、相手にされず、心は元気を失い、毎日が、憂鬱で、外にも出たくなくなります。まさに『傷んだ葦』『くすぶる灯芯』そのものです。
 人となってこの世に生まれたイエス・キリストは、ご自身も多くの試みを受け、苦しまれたお方です。人の痛みを本当に知っておられるお方ですから、このような弱さを覚える私たちを慰め、励ますことができるのです。
 では、『真実をもってさばきを執り行う』とは、どのような意味なのでしょうか?
 多くの人は、死後どこに行くのか、という問題を考えないようにして生きています。
 キリストがこの世に来られたのは、『世(あなた)をさばくためではなく、御子によって世が救われるため(ヨハネ3:17)』なのです。さばきの原因は、私たちを愛しておられる神から離れ、自分中心に生きている罪なのですが、この罪の刑罰をキリストは、身代わりに負い十字架の上で死んで下さったのです。
 ですから、この事実を受け入れ、キリストを罪からの救い主として信じるなら、そのさばきから救われるのです。寿命100年時代を遥かに超える永遠のいのちを与えて下さるお方、イエス・キリストがこの地上に来て下さったクリスマス。
 救い主のお誕生を心からお祝いしましょう。

牧師コラム 『忠 実』 2018年12月2日

牧師 高橋勝義

 「蒔かぬ種は生えぬ」という諺があります。何ら努力もしないで、良い結果を期待しても得られないという意味です。
 イエス様は、一人の管理人のたとえを話されました。
 この管理人は主人の財産を無駄遣いしている、と訴えられ仕事を失う危機に直面します。彼は「土を掘る力もないし、物乞いをするのは恥ずかしい」ので、主人の債務者一人ひとりを呼び、その債務を軽くしてやり、管理の仕事を辞めさせられても、恩を売っておいた人々が自分を家に迎え入れてくれるようにした、というのです。
 イエス様は、この管理人の不正行為そのものを奨励しているのではなく、危機に直面した時、尚も不正な富に頼り、知恵を絞って解決策を見出し、将来への備えをする抜け目のない、ずる賢い行為をほめたのです。
 なぜ、人は、富に執着するのか?それは、富がなければ、幸せになれないと信じているからです。だから、あらゆる知恵を用いて、富を得ようとしています。
 イエス様は、『どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。(ルカ16:13)』と語られます。
 あなたの心はどこに向いているのか、何を頼りにするのか、また、将来への備えが出来ているのか、とイエス様は問うているのです。
 「二兎追う者は一兎をも得ず」のたとえの如く、私たちを愛しておられる神に従うのか、それとも消えてなくなる富を選ぶのか…。
 あなたはどちらでしょうか。

牧師コラム 『石の枕に』 2018年11月25日

 牧師 栗原延元

 前回(1021)は、アブラハムの息子イサクの結婚について学びました。今回はイサクの息子ヤコブの生涯を学びます。
 ヤコブは双子の弟として、生まれます。生まれてくるとき、兄(エサウ)のかかとをつかんでいたので、「押しのける者」という名(ヤコブ)とつけられました。
 出産のときからそれに先立ち、母の胎内にいるとき、すでにこの二人はぶつかり合っていたのです。ヤコブと兄エサウの格闘は創世記の物語の中で興味をそそるものです。
 今日は、兄エサウの殺意を逃れて、(何故エサウが弟ヤコブを殺そうとしたかは創世記27章が詳しく描いています)母リベカの故郷(カラン)に旅立つところを学びます。「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。」(創世記2811)石を枕にして野宿するとは、なんと心細く、寂しいことでしょう。その夜、ヤコブは夢を見るのです。天からはしごが地に向けて立てられ神の使いたちが、そのはしごを上り下りし、主の使いがヤコブのかたわらに立つのです。主なる神と出会うことによって、ヤコブは、苦難を乗りこえて行くのです。

牧師コラム 『天の父なる神の愛』 2018年11月18日

 牧師 高橋勝義     

 イエス様は『迷子になった一匹の羊』『紛失した銀貨』のたとえから、まことの神は失われた者を見つけるまで捜し続ける愛のお方である、ことを私たちに語りました。
 それに続く三つ目のたとえは、本日の聖書箇所『失われた息子のたとえ』です。
 父に財産を分けて欲しいと願った弟息子は、遠い国に旅立ち、財産を湯水のように使い果たしました。そして、激し飢饉が起こった時、彼を助ける人は誰もいませんでした。空腹で豚の餌で腹を満たしたいほどだった彼は我に返り、「罪を犯していることに気付き」、父のもとへ向かったのです。ところが、まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけ、駆け寄り彼の首を抱き、口づけし、『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』と言って祝宴を開いたのです。
 どこにでもあるような話ですが、これは、神(創造主)と私たちの関係について語っています。
 私たちは、私たちを造られた神から離れ、背を向け、それぞれ自分勝手な道に向かっていき、その歩みは迷子の羊のようにさまよっているのです。
 「我に返った」弟は、そこが自分のいる場所ではないことを悟ったのです。
 父なる神は、私たちが神のところに戻るのを妨げている罪をすべてイエス・キリストに負わせ、十字架の上で処罰することによって、ご自身との関係を修復し、私たちを滅びから救う道を備えられたのです。
 あなたが、十字架を仰ぎ見て、神の方に向きを変えるならば、今のあなたがどんな状態であろうと父なる神はそのまま受け入れ、赦し、愛の御腕の中にあなたを包んで下さるのです。
 立ち止まって、自分の人生を見つめなおしてみませんか?

牧師コラム 『天で起こる大いなる喜び』 2018年11月11日

牧師 高橋勝義     

 「喜怒哀楽」と言う言葉があるように、人は、様々な出来事に会うと、喜び・怒り・悲しみ・楽しみの四つの感情が湧き出てきます。
 イエス・キリストは、『あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。(ルカの福音書157)』と語りました。
 それと同じようにとは、「羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたので、その人は九十九匹を野に残し、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩き、見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、人々を呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」というたとえ話のことです。
 いなくなった一匹の羊とは、私たちのことです。
 では、なぜ、いなくなったのか?
 それは、私たちを造られた神のところから出て行ってしまったからです。
 まことの神は、いなくなった一匹の羊を見つけ出すまで、捜し続けて下さるお方なのですが、私たちは「まことの神の声」を聞こうとしないのです。
 時満ちて、神は私たちに対するご自身の愛を知らせるために、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、神に従わない私たちの罪を代わりに負わせ、十字架の上で処罰したのです。
 十字架を仰ぎ見て、自分の罪のために、イエス・キリストが死んで下さったことを認め、神に立ち返る(悔い改める)と、天では大きな喜びが沸き上がるのです。
 それは、まことの神のもとに戻って来た喜びの大歓声です。
 あなたは、かけがえのない存在として神に愛されているのです。