牧師 高橋勝義 |
祈りは、「苦しい時の神頼み」ではなく、まことの神との霊的な交わりであり、会話です。それは呼吸と同じで、生きるために不可欠なものなのです。
ですから、イエス・キリストは、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」二つのたとえを話されました。
その一つは、不正な裁判官のたとえ話しです(ルカ18:1~8)。
裁判官は、ひとりのやもめの訴えが、あまりにもうるさくて仕方がないために、彼女のための裁判をすることにしたというのです。
イエス様は、このやもめのたとえから、あきらめずに神に期待して祈り続けることの大切さを教えられたのです。しかし、祈り続けることは、容易ではありません。だから、神が良くして下さった恵みの数々を思い出す時(詩103:2)、感謝と喜びが沸き上がり、その神に期待して祈り続けることが出来るのです。
二つ目は、二人の人物の祈りのたとえ話しです(ルカ18:9~14)。
一人はパリサイ人で、彼は自分の行いの正しさを神に訴える祈りでした。もう一方の取税人は、遠く離れて立ち『神様、罪人の私をあわれんでください』と祈ったのです。
イエス様は、神に義と認められたのは取税人の祈りであると言われました。なぜなら、取税人は、神を畏れ、神の前にへりくだっていたからです。
そして、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです(ルカ18:14)」と語り、謙遜の大切さを教えられたのです。
神は、 神を畏れ、神に期待して祈る人を待っておられるのです。