牧師コラム 『主イエスの十字架をめぐって』 2017年4月2日

      

 

牧師 栗原延元

                                     

今日は、主イエスの十字架をめぐる人々について学びます。第一に、ローマの兵士たちです。彼らは、シモンというクレネ人にイエスの十字架を無理やり背負わせ、「どくろ」と呼ばれた場所までイエスを連れ出し、そこでイエスを十字架につけ、イエスの着物をくじ引きで決めたうえで分けます。またイエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右にひとりは左に、十字架につけたのです。

第二に、道行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」第三に、祭司長たちも同じようにイエスをあざけって言った。「他人は救ったが自分は救えない。」第四に、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

イエスはこのように、ののしられ、あざけられたのですが、驚くべきことに、これらの人々のために、こう祈られたのです。「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でも分からないのです。」(ルカ23:34)

第五に、イエスの正面に立っていた百人隊長は、「この方はまことに神の子であった。」と言ったのです。イエスの十字架をめぐる、これらの人達のどこに私たちはっているのでしょうか。

牧師コラム 『権 威』 2017年3月26日

高橋勝義

※2017年4月2日から午前礼拝(10:30~11:45)になります

大きな地震が起こると、ニュース番組では、アナウンサーが「地震の権威者である○○先生から、今回の地震について説明をして頂きます」と紹介します。

権威とは、辞書によれば、「地位や立場によって他の者を服従させる力」、また、「ある分野において、知識や技術が抜きん出て優れていること」とあります。

イエス・キリストは、人々に神の国について教えました。

聖書は、『人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである』(ルカ4:32)と書き記しています。また、イエス・キリストは、ことばで、汚れた悪霊につかれた人から、汚れた霊を追い出しました。この出来事を目撃した人々は、権威と力に満ち溢れるイエス・キリストに驚愕しました。本当に、びっくりしたのです。

悪霊を服従させることが出来たのは、イエス・キリストご自身に権威と力があるからです。そのお方が、『誰かが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたし(イエス・キリスト)はその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世(あなた)を救うために来たのです。』(ヨハネ12:47)と語りました。

人は、神から離れた歩みをしているために、憎しみ・恨み・嫉妬・妬み・怒りなどに支配されています。これが、【罪】です。罪から私たちを救い出すために、権威と力あるお方が、その権威を使わずに、〔愛〕によって、救いを成し遂げられたのです。

その愛とは、イエス・キリストが、私たちのすべての罪を身代わりに負って、十字架で死なれたことです。それほどまでに、あなたは、神に愛されているのです。

牧師コラム 『閉じた心』 2017年3月19日

牧師 高橋勝義

私たちは、様々な経験をしながら人生を歩み、そこから、たくさんの知恵や知識を得ます。そして、問題が起きると、それらを用いて、乗り越えようとします。

しかし、そこには、勘違いや思い込みもあります。

人は、一度、「こうだ」と記憶してしまうと、間違いだと分かっていても、プライドが邪魔をして、その間違いを素直に正せなくなります。

ここで重要になってくるのが、「謙虚になる」という心です。

イエス・キリストが、ご自分の故郷に帰られた時のことです。

故郷に帰られる前に、ガリラヤへ行かれ、人々に神の国について教えました。人々は、イエス様の教えを喜んで聞き、イエス様を尊敬しました。

生まれ郷里ナザレの人々は、どうであったか?ガリラヤの人々のように、イエス様の教えを喜んで聞くどころか、丘のがけからイエス様を投げ落とそうとしたのです。郷里の人々には、イエス様を幼い頃から知っている事がかえってあだとなり、「大工の息子が救い主であるはずがない」と決めつけ、心を閉じてしまったからです。

十二弟子のひとりマタイは、『イエスは、彼らの不信仰の故に、そこで多くの奇跡をなさらなかった』(マタイ13:58)と書き記しています。

思い込みや先入観によって閉じた心は、イエス・キリストを正しく見ることが出来ないだけでなく、神様が与えようとしている素晴らしい約束を見出すことが出来ません。

思い込みや先入観を捨て、心を開いて聖書を読んでみてはいかかでしょうか?

イエス・キリストが、あなたにとってどんなお方かが見えてくるでしょう。

牧師コラム 『嘲弄の限りを受けて』 3月12日

牧師 栗原延元

イエスの教えと行為を書き録す四福音書とも、詳しく記しているのがイエスの受けた苦難についてです。

その姿は実に誰しもが顔をそむけたくなるものです。

 今回、学びますマルコの福音書の個所では、ローマの兵士たちがイエスの頭にいばらの冠を編んでかぶらせ、葦の棒で頭をたたいたり、顔につばきをかけたり、「ユダヤ人の王さま、ばんざい」と叫んで、ひざまずいて拝んだり、あざけりの限りを尽くしてから、十字架につけるために、ゴルゴダ(されこうべ)の丘に連れ出します。

 救い主(キリスト)が来られたとき、人々は、彼にどのような事をするかは、キリスト降誕七百年も前に、預言者イザヤによって詳述されていました。

 〈彼(キリスト)は、さげすまれ、人々からのけものにされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった〉(イザヤ53:3)

 キリストが何故に苦しまなければならないか、その理由を知っていた者は、イエスと同時代の者は誰もいなかったのです。

 イエスが苦しまれたのは、人を罪と死から救う神の知恵なのです。

 この救いの知恵は、イエスを信じる者に開示されるのです。

2017年2月24日 サフランの会(第159回)

・日時:2017年2月24日  
・場所:石巻福音自由教会
・参加者:9名 (仮設2名、復興住宅2名、自宅5名)
・奉仕者:14名 (仙台教会 12名、 石巻教会  2名)

 

 当日、石巻は屋根に雪が薄く積もっており、仙台の道路状態が気になりました。しかし、仙台チ-ムの2台の車は予定通り無事到着。

 予定では参加者は14名でしたが、体調不良や病院予約日、はたまた数日前に確認をしてカレンダ-に丸印まで付けてあったのに、今日がその日であることに気付かず…等、結局参加者は9名になってしまいました。

 この9名の方々は、皆さん6年前の震災後に始まった仮設支援活動で知り合った方々ばかりです。現在はほとんどの方が自宅や復興住宅に落ち着かれています。しかし、この3月には、仮設が縮小集約され、仮設から仮設への引っ越しを余儀なくされる方もおられます。難儀なことです。

 そのような中、サフランの会では楽しく笑って過ごして頂きたいとプログラムを考え、祈り、準備しています。軽快なピアノの伴奏で「上を向いて歩こう」「幸せなら手をたたこう」「四季の歌」を歌い、そして「明日を守られるイエスさま」、最後は手話を交えて「主われを愛す」を大きな声で賛美しました。なんと素敵な表情でしょう…。

 そして、今回は仙台教会のご近所で石巻出身の方(この方も震災後の支援活動で教会に集われるようになった方です)が楽しい体操を教えて下さいました。

 続いて、深澤姉の生い立ちとイエス様に出会った証し。同じ時代を生きてきたみんなの心に響きました。そして、牧師のショ-トメッセ-ジ。

 炊き込みご飯、お吸い物、小豆かぼちゃのお昼を頂きながら、お茶する頃はそれぞれ深い話や楽しい話で盛り上がり時間が過ぎていきました。

 スポ-ツジェル、カリフォルニアの姉妹が編まれた襟巻き、トラクトを入れたおみやげの袋をお渡しし、来月の「3・11希望のコンサ-ト」での再会をお約束してお別れしました。

 いつも石巻宣教の為にお祈りくださり、ご支援くださっている諸教会の兄弟姉妹の皆様に心より感謝申し上げます。

  (高橋明美)

 

 

 

 

牧師コラム 『神の訓練』 2017年3月5日

 高橋勝義

 「獅子の子落とし」。わが子に厳しい訓練を与え、その器量を試すことで一人前に育てることが出来るというたとえです。実際には、母ライオンは非常に子煩悩、父ライオンは見た目によらず、意気地がないためこのような事はないようです。
 神の子であるイエス・キリストは、神から訓練を受けました。
 イエス・キリストが受けたこの訓練は、私たちが直面する個々の問題に対して、何を選択すればよいのか、その基準を私たちに教えてくれます。
 聖書は、『人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる(申命記8:3)』と語ります。「病は気から」とあるように、人は、心が健全でなければ、体を健康に保つことが出来ません。
 神の御言葉に信頼して歩む時、心は健全になるのです。
 また、『あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。(申命記6:13)』と語ります。人は、「権力と富」を追い求めますが、逆に、「権力と富」の虜になっているのではないでしょうか?
 本当にお仕えできるお方は、私たちを造られた神だけです。
 更に、『あなたがたの神、主を試みてはならない(申命記6:16)』と語ります。
 私たちは、解決できないことが起こると、神々と取引するような願掛けをします。
 聖書の神は、創造主の神であり、主権は、すべてこの神にあります。
 この神の御手にすべて任せて歩む時、希望を持って歩めるのです。

牧師コラム 『いのちの系図』 2017年2月26日

 高橋勝義

 「どこの馬の骨とも分からない」者は、信用できない。 「馬の骨」とは、素性の分からない人のことです。つまり、素性の分からない者をあざけって言う言葉ですが、言われた方は、不愉快な気分になり、悲しくなってしまいます。
 ここは、その人自身の人柄を見て、判断して欲しいところです。
 ところで、聖書は、イエス・キリストの系図を記しています。
 この系図は、私たちを『いのち』に導きます。そのいのちとは、『永遠のいのち』のことです。
 イエス・キリストの父ヨセフから系図をさかのぼっていった初めの人アダムとエバは、神と共に歩む幸いな道を捨てて、自分の力で生きる道を選びました。この時から、人は、人との信頼関係を築けなくなり、更に、女は、生みの苦しみを負い、男は、額に汗して糧を得なければならなくなりました。そこで、神は、昔から、永遠の昔から救いの道を備えられたのです。
 その救いの道とは、私たちの罪の身代わりとなられるイエス・キリストをこの世に遣わすことでした。なぜ、神は、ここまでされるのか?それは、私たちを愛しているからです。
 この事を受け取り、信じる時、私たちは、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)』とある約束を頂けるのです。
 ですから、イエス・キリストの系図は、私たちを『いのち』に導くのです。