牧師コラム 『預言者ヨナのしるし』 2017年8月6日

 牧師 栗原延元

 聖書学者のある人が、イエスに、キリスト(救い主)である証拠としての奇蹟を求めました。そのときイエスは答えて言われました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:3941より)
 これから3回あるいは4回にわたり、(それ以上になるかも知れませんが)ヨナ書を学びます。ヨナ書は旧約聖書の預言書のひとつです。預言者ヨナの人物は、今の私たちにも大変興味深く、学べば学ぶほど親しみがわいてくると思うのです。その預言者ヨナの生涯のエピソードが(三日三晩大魚の腹の中にいた)が、イエスが救い主(キリスト)である証拠だと言うのです。
 ゆっくり、じっくり、ヨナ書を学んでいきましょう。

牧師コラム 『人生の土台』 2017年7月30日

牧師 高橋勝義

 

 地震の多い日本では、土台の良し悪しが、丈夫な建物になるかどうかを左右します。ですから、地盤を調べるなど土台造りには、時間と費用をかけます。
 ところで、人生には全く揺るがない土台というものがあるのでしょうか…。
 もしも、そのような土台があるとするならば、その上に自分の人生を築けば、きっと幸いな人生になるに違いありません。
 イエス・キリストは、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)』と語りました。
 なぜ、イエス・キリストが〔道〕であり、〔真理〕であり、〔いのち〕なのか。
 イエス・キリストが〔道〕なのは、私たちを〈まことの神〉へと導くからです。
 イエス・キリストは、私たちのすべての【罪】を身代わりに負い、十字架で死なれたので、私たちと〈まことの神〉を和解させて下さる〔真理〕なのです。
 イエス・キリストが〔いのち〕なのは、この方を【罪】からの救い主として信じる時、私たちを死の滅びから〈永遠のいのち〉へと移して下さるからです。
 イエス・キリストは、あなたを愛し、あなたと共に歩んで下さる〈神〉ですから、この方を人生の土台とするならば、様々な困難や試練に会う時、いつもあなたを慰め・励まし・助け・力づけて下さいます。あなたが、気力を失い、歩くことさえままならない時には、あなたを背負って下さるお方です。
 聖書は、『その人は…岩(イエス・キリスト)の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せた時も、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。(ルカ6:48)』と語っています。これは、神の約束です。

牧師コラム 『三つの教え』 2017年7月23日

牧師 高橋勝義

 

 イエス・キリストは、弟子たちに三つのことを教えました。

〈第一は、十分訓練を受けた者となること〉私たちは、本質的に楽な道を求めます。実は、怠け者なのかもしれません。ですから、弟子のパウロは、『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい』(ローマ12:11)と警告するのです。
 『十分訓練を受けた者』とは、イエス様を信じ、信頼して歩む人のことです。イエス様の教えが〔真実〕であることを日々の歩みの中で、まず、自分自身が、味わう。
 そうすれば、その教えを自信を持って、人々に教えることが出来るのです。
〈第二は、自分の目から梁(はり)を取る〉「目の梁」とは、自分は常に正しいとする高慢な心のことです。ですから、人の間違いにチェックを入れ、平気で『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』(ルカ6:42)と言うのです。
 しかし、聖書は、『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい』(ピリピ2:3)と語ります。まず、自分をわきまえること。そして、愛を持って話さなければ、どんなに正しい事も、相手の心には届きません。
〈第三は、良い実を結びなさい〉『人の口は、心に満ちているものを話します』(ルカ6:45)私たちの生まれながらの心は、【恨み・憎しみ・妬み・欺き】などで満ちています。このような心からは、日々、争いばかりが生まれます。
 聖書は、『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です』(ガラテヤ5:22,23)と語ります。
 心が、御霊に満たされていれば、本当に、良い実(御霊の実)を結ぶことが出来るのです。そのためには、それを妨げている悪い思いに気付くたびごとに【罪】を認め、十字架の血潮で聖めて頂くことが必要なのです。

牧師コラム 『あら探しからの解放』 2017年7月16日

牧師 高橋勝義

  イエス・キリストは、『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。』(ルカ6:37)と語りました。
この世の「さばく」とは、混乱したものを整理すること・道理にかなっているかどうかを明らかにすることです。
 
しかし、イエス様が『さばいてはいけません』と語られたことの意味は、「人のあら探しをしてはいけない」ということです。私たちが人をさばくのは、自分の価値観や基準で「人のあら探し」をする時です。
 
でも、ブーメランが、投げた人の所に必ず戻ってくるように、あら探しをして人を裁くと、その代償は必ず自分に戻ってきます。やられたらやり返す社会の中に生きている私たちの人間関係は、ますます悪化してしまいます。
 
イエス・キリストは、私たちのこの悪い習慣()に対して、真正面からそれを断ち切るように命じます。()を断ち切るために、『これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』(マタイ26:28)と語りました。
 『罪を赦すために多くの人のために流される』とは、まことの神を神としない、人が生まれながら持っている【罪】のために、イエス・キリストが身代わりとなって十字架で死なれたことです。
 それは、【罪】を赦す神の唯一の方法でした。
 
ですから、イエス・キリストの十字架は、あなたへの《愛と赦し》のしるしなのです。人は、このメッセージを信じ受け取る時、神の愛と赦しを知るのです。
 
神の愛は、えこひいきがなく、ありのままのあなたを受け入れて下さいます。
 
この神の愛の力が、「人のあら探し」してしまうあなたを解放し、人を赦す者へと変えるのです。

牧師コラム 『敵を愛する』 2017年7月9日

 牧師 高橋勝義

 イエス・キリストは、『あなたの敵を愛しなさい』(ルカ6:27)と何度も語りました。
 
「自分を愛してくれる人を愛する」、「自分に良いことをしてくれる人を愛する」ことは、誰でもしていることです。しかし、「敵」という言葉を「悪口を言う人」、「自分のことを嫌っている人」に置き換えた時、その人を愛することが出来るでしょうか…。
 
聖書は、『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません』(ヨハネ15:13)と語っています。同時に、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(Ⅰヨハネ4:10)とも語っています。
 
『人(イエス・キリスト)がその友(あなた)のためにいのちを捨てる』、即ち、イエス・キリストはあなたを【罪】から救い、永遠のいのちを与え、新しいいのちに生かす歩みへと導くために、ご自分のいのちを十字架で捨てて下さったのです。
 
これが、〔神の愛〕なのです。
 神の愛は、見返りを求めない無償の愛です。
 ところで、人は〔愛されること〕を味わうことなくして人を愛することは出来ません。〔愛〕がわからなければ、どう愛すれば良いのか分からないからです。
 
イエス・キリストは、ご自分のいのちを捨ててまであなたを愛して下さいました。神はこの愛を受け取り『あなたの敵を愛する者になりなさい』と語りかけるのです。
 
しかし、自分の力では、どう頑張っても人を愛することは出来ません。肝心なことは、イエス・キリストを信じ、神の力  (聖霊の助け)によって愛する者に変えて頂くことです。
 その時、あなたは敵をも愛する人に変えられるのです。

2017年6月22日 サフランの会 第167回

〇日時:2017年6月22日
〇場所:石巻福音自由教会
〇参加者 29名
〇奉仕者 同福(トンフォック)EFC 22名、仙台プレイズ コミュニティ チャーチ 7名
石巻EFC 2名  合計31名
〇プログラム
 ・肩もみタイム
 ・香港チ-ムによるゲ-ムタイム
・特別賛美
・飛入り参加…地元祝田の 袋小路 ほら丸氏 (元なんだこりゃ丸船長)による大漁節
 ・証し:同福EFCソニヤ姉
 ・メッセ-ジ:同福EFC ラム師
・会食とお交わり

 前日の激しい雨も上がり晴れ間の見える天気に感謝しつつ、しかし凄い強風に教会玄関のドアをありったけのレンガで押さえながらの集会スタ-トとなりました。
今回の「サフランの会」は香港の同福(トンフォック)福音自由教会のユースチームと仙台PC教会の阿見牧師が 教鞭をとっておられる拡大宣教会学院の神学生チームによるスペシャルな集会でした。阿見先生とは宮城ネットワ―クでお交わりを頂き、今回の企画もそのような中で導かれました。
 いつもの「サフランの会」は仮設ごとに皆さんをお招きして開いていましたが、遠くに引っ越された方も多く、今回から渡波の方々を中心に仮設の枠を取り外してみました。
 司会をする兄弟のカタコトの日本語(カンペを見ながら)も楽しく、皆さん孫の感覚でゲーム等を楽しんでおられました。
 いつもと違う雰囲気に、この6年間仮設支援活動で交流してきた地元漫談家の袋小路ほら丸氏が助け船を出してくださり、飛入りで大漁節を歌われると、大きな手拍子で会場が一体感に包まれまれました。まさに『あなたの町のあなたの教会』という雰囲気に、積み重ねられた信頼関係を強く感じ、神様に感謝しました。
 証しは、大好きだった父上を突然亡くされ、支えを失う失意の中で神様に出会ったソニア姉。父上を思い、言葉を詰まらせたソニア姉にお隣の席のおばあちゃんが「ソニアちゃん、頑張って!」と声を掛ける等、みなさん真剣に耳を傾けておられました。続くメッセージは同福EFC牧師のラム師がとりついで下さいました。
 キッチンから既に美味しそうな香が漂っていたお待ちかねの昼食は、本場の中華料理。
 香港チ-ムが到着と同時に取り掛かった手作り料理で異文化を堪能しました。
 今回は奉仕して下さる若者たちが備えられ、ほぼ1対1でお交わりをして下さったので十分におしゃべりが出来て、皆さん満足そうな表情でした。英語、広東語、渡波語(?)が飛び交い、笑い合う(不思議に通じ合う)時間でした。
 不思議な神様のおとり計らい、遠く香港から来て下さった兄姉、準備して下さった阿見先生御夫妻、またこの石巻宣教の為に絶えず祈り支えて下さる全国の教会の皆様に心からの感謝を申し上げます。 
 栄光が神様にありますように。
                                  (高橋明美)

牧師コラム 『先立ち行く復活の主イエス』

  牧師 栗原延元

 私たちは、これからの事を考えると、「心配」が先立ちます。一方、今までの事を振り返ると、後悔することが多くなります。
これからの事(あしたの事)、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかの事などについてイエスは〈あすのための心配は無用です。あすのことは、あすが心配します〉と大ぜいの人に語りました。その真意は、天の父なる神は私たちのこの世の必要をご存知ですから、先のことを心配しないで、今日、しなければならないことを一生懸命しなさい、という事のようです。
今日、学びますのは、イエスが復活したことを伝えるマルコの福音書16章です。イエスの弟子たち3婦人が葬られたイエスに香料を塗りに行こうと墓に向かいます。道々、彼女たちは、「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」と話し合っていたのです。墓に着いてみると石がすでにころがしてあった。墓の中に真白な長い衣をまとった青年がおり、「イエスは、よみがえられ、あなたがたより先に、ガリラヤに行かれ、そこでお会いできます」と婦人たちに語るのです。
今日の礼拝の中で、この青年の語ったことについて、学びます。
…あなたの席が用意してあります。

2017年6月15日 バイパス東仮設支援 第166回

日 時:2017年6月15日(木)
場 所:バイパス東仮設
参加者:11人
奉仕者:仙台教会 5名  石巻教会:1名

 黄金色の穂を垂れた麦畑の中、まっすぐに伸びて行く道を、爽やかな風が吹き渡っていました。私たちが着くころには、もう石巻稲井の仮設には元気な声が響いていました。
 6月のクラフト教室は「ポケットティッシュ・カバー」を作りました。
真っ白いレースが可愛い小花の柄です。ピンク、ブルー、グレーの中から、2つ選んで作りました。今日は、いつもより比較的簡単にできましたので、皆さん手早く仕上げて、ゆっくりコーヒーを飲みながら、楽しそうにおしゃべりなさっていました。そのゆったりした穏やかな時間がとてもいい感じでした。
 チャペル・タイムは、「奇跡の人」ヘレン・ケラーを育てたサリバン先生についてお話しました。親に捨てられ、孤児院に預けられ、幼い弟の死、失明、精神の病気を患い、生きる力を無くし、ただ死を待つばかりの少女にひとりの看護師が愛を注ぎました。彼女は毎日サリバン先生の所に来て聖書のお話を聞かせました。その献身的な愛の業によって、彼女の心に一筋の光が差し込みました。少しずつ生きる力を回復したサリバン先生は、盲学校へ進む道が開かれました。優秀な成績で卒業した彼女は、ヘレン・ケラーの教育係として、仕事を得たのでした。それから50年片時も離れずヘレンの世話をし、全生涯を捧げて、ヘレンに愛を注ぎ続けました。サリバン先生こそ「奇跡の人」ではないでしょうか。一人の看護師を通して注がれたこの愛は見返りを求めない無償の愛です。神様は十字架によって私たち人類にこの愛を現してくださったのです。神様は求める全ての人にこの愛を与えてくださいます。皆さんにもこの愛を是非受け取っていただき、まことの命に生きるものとなっていただきたいと思いました。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」                   ヨハネ15:13
「いつまでも残るものは信仰と愛と希望です。その中で一番優れているのは愛です。」                   Ⅰコリント10:13
 今日もクラフト教室を通して、神様の愛をお伝えできたことを感謝致します。そして、全国の兄姉のお祈りと捧げものに支えられていますことを心から感謝申し上げます。
                        吉田真知子

牧師コラム 『本当の幸い』 2017年6月25日

牧師 高橋勝義

 

すべての人は、「幸い」を求めています。災いを願う人はいないでしょう。

聖書は『貧しい者、今飢え乾いている者、今泣いている者は、幸いである(ルカ6:20,21)』というのですが、なぜ、「幸い」なのでしょうか…。

貧しい者・今飢え乾いている者・今泣いている者とは、自分の弱さや足りなさに心を痛めている人のことです。

自己憐憫に陥って、自分を嘆いている人のことではありません。

弱さや足りなさとは、まことの神に対する信仰の足りなさ、また、神に従って歩めない自分に、葛藤し、もがき苦しみ、救いを求めている人のことです。

自分には望みがないと知っている人に対して、神は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』(Ⅱコリント12:9)と語っています。

白旗を挙げている人は、神にすべてをゆだねることができるので、〔神の力〕がその人の内に働くからです。

更に、聖書は『富んでいるあなた、今食べ飽きているあなた、今笑っているあなたは、「哀れな者」である(ルカ6:24,25)』と語っています。

なぜ、「哀れな者」なのでしょうか…。

それは、富んでいる・今食べ飽きている・今笑っている人は、自分の力がすべてであると思い、心が傲慢になり、人からの助けや忠告を聞こうとしないからです。

『私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』(ヘブル4:15)
 
本当の幸いとは、あなたの弱さをありのまま受け入れてくださるお方、即ち、イエス・キリストを信頼し、すべてをゆだね、従って歩む人のことなのです。