2017年6月15日 バイパス東仮設支援 第166回

日 時:2017年6月15日(木)
場 所:バイパス東仮設
参加者:11人
奉仕者:仙台教会 5名  石巻教会:1名

 黄金色の穂を垂れた麦畑の中、まっすぐに伸びて行く道を、爽やかな風が吹き渡っていました。私たちが着くころには、もう石巻稲井の仮設には元気な声が響いていました。
 6月のクラフト教室は「ポケットティッシュ・カバー」を作りました。
真っ白いレースが可愛い小花の柄です。ピンク、ブルー、グレーの中から、2つ選んで作りました。今日は、いつもより比較的簡単にできましたので、皆さん手早く仕上げて、ゆっくりコーヒーを飲みながら、楽しそうにおしゃべりなさっていました。そのゆったりした穏やかな時間がとてもいい感じでした。
 チャペル・タイムは、「奇跡の人」ヘレン・ケラーを育てたサリバン先生についてお話しました。親に捨てられ、孤児院に預けられ、幼い弟の死、失明、精神の病気を患い、生きる力を無くし、ただ死を待つばかりの少女にひとりの看護師が愛を注ぎました。彼女は毎日サリバン先生の所に来て聖書のお話を聞かせました。その献身的な愛の業によって、彼女の心に一筋の光が差し込みました。少しずつ生きる力を回復したサリバン先生は、盲学校へ進む道が開かれました。優秀な成績で卒業した彼女は、ヘレン・ケラーの教育係として、仕事を得たのでした。それから50年片時も離れずヘレンの世話をし、全生涯を捧げて、ヘレンに愛を注ぎ続けました。サリバン先生こそ「奇跡の人」ではないでしょうか。一人の看護師を通して注がれたこの愛は見返りを求めない無償の愛です。神様は十字架によって私たち人類にこの愛を現してくださったのです。神様は求める全ての人にこの愛を与えてくださいます。皆さんにもこの愛を是非受け取っていただき、まことの命に生きるものとなっていただきたいと思いました。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」                   ヨハネ15:13
「いつまでも残るものは信仰と愛と希望です。その中で一番優れているのは愛です。」                   Ⅰコリント10:13
 今日もクラフト教室を通して、神様の愛をお伝えできたことを感謝致します。そして、全国の兄姉のお祈りと捧げものに支えられていますことを心から感謝申し上げます。
                        吉田真知子

牧師コラム 『本当の幸い』 2017年6月25日

牧師 高橋勝義

 

すべての人は、「幸い」を求めています。災いを願う人はいないでしょう。

聖書は『貧しい者、今飢え乾いている者、今泣いている者は、幸いである(ルカ6:20,21)』というのですが、なぜ、「幸い」なのでしょうか…。

貧しい者・今飢え乾いている者・今泣いている者とは、自分の弱さや足りなさに心を痛めている人のことです。

自己憐憫に陥って、自分を嘆いている人のことではありません。

弱さや足りなさとは、まことの神に対する信仰の足りなさ、また、神に従って歩めない自分に、葛藤し、もがき苦しみ、救いを求めている人のことです。

自分には望みがないと知っている人に対して、神は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』(Ⅱコリント12:9)と語っています。

白旗を挙げている人は、神にすべてをゆだねることができるので、〔神の力〕がその人の内に働くからです。

更に、聖書は『富んでいるあなた、今食べ飽きているあなた、今笑っているあなたは、「哀れな者」である(ルカ6:24,25)』と語っています。

なぜ、「哀れな者」なのでしょうか…。

それは、富んでいる・今食べ飽きている・今笑っている人は、自分の力がすべてであると思い、心が傲慢になり、人からの助けや忠告を聞こうとしないからです。

『私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』(ヘブル4:15)
 
本当の幸いとは、あなたの弱さをありのまま受け入れてくださるお方、即ち、イエス・キリストを信頼し、すべてをゆだね、従って歩む人のことなのです。 

牧師コラム 『使 命』 2017年6月18日

牧師 高橋勝義

 

使命とは、与えられた重大な務め、責任をもって果たさなければならない任務のことです。イエス・キリストは、弟子の中から、祈りをもって十二人の弟子を選び〔使徒〕という名をつけました。その十二使徒たちの〈使命〉とは、全世界に〔福音〕を宣べ伝え、キリストの復活の証人となることでした。

キリストの復活が、私たちを【罪】から救い、死からいのちへと移し、《永遠のいのち》を得させて下さる、この良い知らせが、〔福音〕です。

選ばれた十二人は、この世の知者・権力者・身分の高い者ではなく、漁師であり、人々から嫌われている取税人であり、ごくごく普通の人たちでした。

その彼らが、福音を宣べ伝えるという〈使命〉を果たすことが出来たのは、キリストの復活を目撃したことと、“聖霊”に導かれて歩んだからなのです。

同じように、神は、イエス・キリストを救い主として信じる者に【罪】からの救いと共に〈使命〉をくださいました。

その使命とは、『地の塩(マタイ5:13)』になることです。料理に欠かせない塩のように、私たちが人々によい影響を与える者にならせていただくことです。

さらに『世界の光(マタイ5:14)』になることも使命です。暗闇を照らし、周りを明るくする光のような存在、愛を届ける者になることです。

十二使徒が全世界に宣べ伝え、そして今日、私たちの元に届いた、この〔福音〕を信じる時、あなたは『地の塩』、『世界の光』、愛を運ぶ者にならせて頂けるのです。

そして、〔福音〕は、真にあなたを生かす“源”となるのです 

牧師コラム 『誰のための安息日か』 2017年6月11日

牧師 高橋勝義
   

明治9年(1876年)3月12日、官庁の定休日を日曜日、土曜日を半休とする政府からの通達が出るまで、日本には、決まった休日はありませんでした。

聖書は、『主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それ故、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト20:11)』……『六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。(出エジプト31:15)』と語っています。

神は、世界の創造の初めから人間のために〈休み〉を定めました。なぜなら、私たちを造られた神は、私たちに休息が必要であることをよく御存知だからです。

初め、安息日は、「土曜日」でした。では、いつから、日曜日が、安息日になったのでしょうか?それは、イエス・キリストが、私たちの【罪】のすべてを身代わりに負い、十字架で死なれ、三日目の日曜日の朝によみがえられた時からです。

イエス・キリストのよみがえりは、私たちに永遠のいのちを与え、新しい歩みへと導き入れます。これが、〔救い〕です。

イエス・キリストを救い主として信じる人々が、日曜日の朝、主のよみがえりを喜び、神の愛と恵みに感謝し、救いを与えて下さったイエス・キリストを賛美するために、集まるようになったのです。

ですから、日曜日(安息日)は、からだと心の休みであると同時に、私たちに救いを与えて下さった神の愛と恵みに感謝し、その神を賛美、礼拝するためにあるのです。イエス様が『人の子は、安息日の主です』(ルカ6:5)と語っている通りです。

牧師コラム 『死にて葬られ』 2017年6月4日

牧師 栗原延元

死んだ人に対して、残った人のなすべきことは、その人を丁重に葬ることです。しかしその人が犯罪人として刑死した場合はどうでしょうか。イエスは十字架の極刑を受けたのです。だれしもこのような人を葬るのをためらうでしょう。イエスの場合もそうでした。他人(ひと)の目を恐れて、イエスの12弟子たちは逃げてしまっていたのです。イエスの生前は、弟子であることを隠していた2人の人が、イエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従ってイエスを墓に納めたのです。

今日学びますマルコの福音書には、イエスを葬った、アリマタヤのヨセフが登場します。彼はユダヤ議会(サンヘドリン)の有力な議員でしたが、議員たちのイエスを亡き者としようとする協議には賛同していませんでした。議員たちの行動に心を痛めていたようです。イエスの十字架上の死の様子を知って、ヨセフは〈思い切ってピラとのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。〉(マルコ15:43)のです。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から取り降ろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った、自分の墓に納めたのです。

神の御子イエスは死にて葬られたのです。人が最後に体験するのが葬られることです。イエスの人としての事業が完成したのです。それ故にキリストは〈完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった〉(ヘブル5:9)のです。 

2017年5月25日 サフランの会 第165回

〇日時:2017525

〇場所:石巻福音自由教会

〇参加者 9

〇奉仕者 仙台EFC4名、石巻EFC 2名)

〇プログラム

・歌(幸せなら手をたたこう・上を向いて歩こう・四季の歌・明日を守られるイエス様)

・脳トレ手遊びと楽しい体操

 ・証し:赤羽姉

 ・ショ-トメッセ-ジ:高橋師

・会食とお交わり

 

 

朝から小雨の天気でしたが、皆さん笑顔でお迎えを待っていてくださいました。

今回は震災後の大変な時を万石浦仮設で共に過ごされた方々を教会にお招きするサフランの会でした。ほとんどの方が復興住宅や再建した自宅に引っ越されています。遠くに引っ越されて来ることが出来なかった方もおられます。でも、顔を合わせると欠席者の消息やデ-サ-ビ情報、健康情報等話は尽きません。また、皆さんカラオケが大好きなので、歌の時間は大きな声で歌われます。

いつものように「いい声は口角を上げて笑顔で!」のアドバイスに笑顔、笑顔…昔馴染みの曲目の中に入れてある「明日を守られるイエス様」の賛美も大合唱です。🎶 明日はどんな日か私は知らない。晴れか嵐か曇りになるか、私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから明日は私にはわからないけど明日を守られるイエスがおられる🎶 この賛美を歌われるみなさんがイエス様の守りとやすらぎを得られますように、と祈らずにはおられません。

証しは赤羽姉、いつも支援活動やコンサ-トの司会などで身近な存在の姉の話に皆さん心を開いて聞いておられました。聖書の話は「ルカ15:46いなくなった1匹の羊」でした。私たちは迷子の子羊、イエス様は今も捜し続けておられます。

いつものように楽しい昼食はおしゃべりと食事を頂くのとで口も手も大忙しです。

最後に全員で記念写真撮影をしてお開きとなりました。

この石巻宣教の為に絶えず祈り、支えて下さる全国の教会の皆様に心からの感謝を申し上げます。栄光が神様にありますように。

 

                           (高橋明美)

 

   

2017年5月18日 バイパス東仮設支援 第164回

日 時:2017518()

場 所:バイパス東仮設

参加者:12

奉仕者:仙台教会5名、石巻教会1名

 

  新緑が目にもまぶしい三陸道を一路石巻へ。仮設の集会所には、参加者の方々が、早々、集って来てくださっていました。ほとんどの方は、女川に引っ越しを終え、車に乗り合せて来てくださったのです。また、「みんなにお世話になるのが心苦しいので、もう教室は止める」と言われていたSさんも来てくださっていました。久しぶりの再会に、思わずハグして喜び合いました。90才を過ぎ、一人暮らしであるSさんを、皆さんが心配して声をかけ、連れて来てくださったのでした。

 今日のクラフトは、「布で作るスズラン」。花の1個1個が、とても小さいので、苦労されていましたが、いつも通り楽しくおしゃべりしながら、針を進めて行きました。まっ白な小さな花をつけたスズランが1本出来上がりました。ガラスの花瓶も用意されていましたので、お家に帰っても季節を楽しんで頂けそうです。

 チャペル・タイムでは、母の日にちなんで、めぐみさんの母「横田早紀江さん」の信仰から学びました。横田さんは、祈りつつ、40年もずっと娘のめぐみさんが帰って来るのを待っています。神様もまた私たちが帰って来ることを、ずっと待っていてくださいます。神様の所に帰るとは、「正直に自分の気持ちを注ぎ出して祈ることです」とお話しました。

 チャペル・タイムの後、Sさんは「みことば」を指さして「時々、家で、これ読んでるよ」と言ってくださいました。みことばが心にとどまり、神様が信仰の実を結んでくださいますように。

  「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」         (イザヤ4915

 

 教会の庭に咲いていたスズランの花をつんで、お土産に差し上げました。

 神様の愛が、お一人お一人の心に届きますように。

今日もこのように、支援活動を続けさせていただけたことを感謝して。

                            吉田真知子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

牧師コラム 『新たなる歩みへ』 2017年5月28日

牧師 高橋勝義

 石巻出身の漫画家、石ノ森章太郎の代表作に「仮面ライダー」があります。
 主人公は、敵を前にすると変身し、悪をやっつけるという物語です。
 ところで、あなたも、全く新しい自分に変わりたいと思ったことはありませんか?
 イエス・キリストは、『新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません(ルカ5:38)』と語りました。新しいぶどう酒は、皮袋の中でも発酵し続けます。
 新しい皮袋は、皮に柔軟性があるので、ぶどう酒が発酵して膨らんでも、耐えることが出来ますが、古い皮袋は裂けてしまいます。
 この新しいぶどう酒とは、《福音》を意味しています。
 福音とは、イエス・キリストが、私たちの【罪】の全てを負い、身代わりとなって十字架で死なれたこと。
 そして、それを信じる時、罪赦され、永遠のいのちが与えられるという良き知らせのことです。
 この良き知らせ(福音)を受け取る時、イエス・キリストのよみがえりのいのち、即ち、新しいいのちを頂いて、あなたは〔新しい歩みへ〕と踏み出すのです。
 新しい皮袋とは、〈新しい心〉のことです。
 私たちは、自分中心で生きてきたので、神から離れて生きることが【罪】であることを知らず、認めることができません。
 けれども、聖霊が私たちの内に働かれる時、私たちの心に【罪】を教え、誤りに気付かせ、〈新しい心〉にさせるのです。
 新しい心が、福音を受け入れ、真の神への信仰があなたの中で育つのです。

 聖書は、『誰でもキリストの内にあるならその人は新しく造られた者です古いものは過ぎ去って見よすべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)』と語ります。

 これは、神の約束です。外見が変わるのではなく、イエス・キリストの新しいいのちによって、心が一新され、内側から変えられて、新たなる歩みが始まるのです。

牧師コラム 『招かれた客』  2017年5月21日

牧師 高橋勝義

子どもは、家にお客様が来るのを楽しみにしています。なぜなら、お土産の楽しみがあるからです。しかし、必ずしも、良いお客ばかりではありません。

イエス・キリストは、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです』(ルカ5:32)と語りました。
 誰を招いているかは、明らかです。自分は正しいと自負している人ではなく、自分を罪人であることを認めている人です。

【罪】とは、何でしょうか?

【罪】とは、神から離れ、自分中心に生きることです。
 
その結果、人は、自分の肉(自分中心)の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う歩みを続けています。このような歩みは、創造主の神から御怒りを受ける〕のです。

ですから、イエス・キリストは、『罪人を招いて、悔い改めさせるために来た』と語るのです。なぜなら、神の御怒りからあなたを救うために、この世に来られからです。

それ故、イエス様は、この招きを受け入れるかどうか、あなたに問いかけています。

イエス様の招きに応じるには、【自分が罪人である】ことを認めることです。自分が、【罪人】であることを認めなければ、悔い改めはできません。

その【悔い改め】とは、「神様、ごめんなさい。私は今まで神から離れ、自分勝手な歩みをしていましたが、これからは、神に従って生きます。」と自分の意志で決断し、自分中心の生き方から神中心の生き方に方向転換することです。この方向転換が、神の御怒り〕からあなたを救うのです。

それだけではありません。
 
あなたは、永遠のいのちを得て、イエス・キリストの復活のいのち、即ち、新しいいのちを頂き、新たな歩みへと踏み出すのです。