2011年4月12日「石巻物資配布、民家清掃」

今日は教会員の方の関係で、先日出向いた大街道近辺の方の民家の清掃をさせて頂く事になっていましたので、物資配布所を開くグループと掃除グループに、現地で二手に分かれることにしました。掃除チームが奉仕したのは、床上1.2m程度まで浸水したお宅でした。ご自宅は原形をとどめたまま残っているのですが、あらゆる部屋が浸水して泥まみれになり、車は流され、自宅裏には流れてきた他人の車が突っ込んでおり、玄関~駐車場は厚い泥に覆われていました。瓦屋根も一部損傷しているようでした。幸い水道と電気は戻っていたので、高圧洗浄機を使用して全ての部屋を洗浄しました。また、屋根瓦にも応急処置としてブルーシートを被せました。そして玄関先のヘドロを土嚢袋100袋に詰め込み、山と積み上げました。ヘドロの重さを考えるとこれは本当に重労働でしたが、若いメンバーが大活躍してくれました。このお宅では、ご長男の方が津波で行方不明になってしまわれ、大きな悲しみの中にありました。僅かながらの奉仕が何かの励ましになって下さることを願うばかりでした。
一方、物資配布部隊は、このお宅から50mほど離れたアパートの駐車場でブルーシートを広げ、物資を並べました。この地域の方々は、洋服・寝具・日用品・食器等一切が浸水したり流れ去っていったという方が多くおられたようで、さながら争奪戦の様相を呈したと後から伺いました。本当に必要としている人に、必要なものが行き渡るように、物資配布の方法にも知恵が必要なことを学ばされました。およそ2時間ほどで、ワゴン車3台+普通車2台、合計5台分の物資がきれいに無くなったとのことでした。

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2011年4月11日「震災1ヶ月、ガス復旧!!、第4次ボランティアチーム到着」

今日は、震災から丁度1ヶ月でした。あっという間に時が経ちました。そして、その節目の日に、教会ではガスが復旧しました。1週間ほど前から近所でも「そろそろらしい」と噂されていましたが、ようやく、でした。これで、電気で風呂を沸かさなくても良くなります。また、ボランティアチームの方々にもシャワーを提供できるようになります。復旧に来て下さったのは、大阪ガスの方々でした。遠路はるばる、なれない東北でのお仕事には、本当に感謝なばかりです。
夜遅くには、関西そして北九州から、第4次のボランティアチームの皆さんが来て下さいました。群馬、京都、兵庫、岡山、遠くは北九州からフェリーと車を乗り継いで、最長25時間もかけて駆けつけて下さいました。その心意気と犠牲には、頭が下がる思いでした。年齢層も中学生から40代中盤までと、若いのも特徴でした。ただ、東北道であと2時間で仙台着というあたりで余震が発生し、路面点検のため通行止めとなり、一般道に下りなければならなかった皆さんは、本当に大変だったと思います。先日の大きな余震と言い、今回の地震がいまだ「現在進行形」であることを実感したことでした。

2011年4月7日「石巻物資配布デー、そして大きな余震」

今日は、昨日整備した石巻キリスト教会の物資配布所をオープンする日でした。まず整理券を作り、並んだ人に配って、5人ずつ中に入ってもらうようにしました。衣類は教会前に仕分けして並べ、コーヒーで暖まって頂けるようにし、同時にお米を炊いて炊き出しも行いました。11時のオープン前に、すでに20人以上の行列が出来ていました。 一方、移動物資配布部隊は、教会を後にして石巻市大街道という地域に向かいました。ここは浸水被害がひどかった地域で、1階は激しく浸水したが2階は無事という人が数多く住んでいる地域でした。彼らは1階のガレキやヘドロを必死で撤去し、清掃し、何とか住める状態にしようと悪戦苦闘していました。車やお金などの家財が流れてしまったので買い物にも行けない状態ですので、掃除用品や食料、下着、枕などを中心に、サマリタン・パースの物資集積所で物資を選んで、ワゴン車2台分の物資を持ち込みました。少し道の広い所でブルーシートを敷いただけの物資配布所には、こんなに沢山の人々がこんな場所に戻っていたのかと思うほどの人々がやってこられました。車からの荷出しが追いつかないほどでした。怒涛のように2時間が過ぎ、驚くべき事に、持参した物資が全て完全にはけてしまいました。けれども、最後におばあさんがやってこられました。「もう終わってしまったのですか。今日は朝から何も食べていないんです。何か食べ物はありますか」。心痛む言葉でした。立ち去っていった後に、もう一袋だけ食べ物の袋が出てきたため、急いで後を追いかけましたが見失ってしまいました。「この地域には無限の必要がある…」。そう確信するような出来事でした。
石巻キリスト教会の方に戻ると、丁度物資配布も終わりを迎えた頃でした。それまでに、190人分の整理券が配られ、中の物資もかなり減ったように見受けられました。受付係の話を聞くと、中には一旦家に帰り、服を着替えた上で二度、三度と列に並んでいた人もいたとのことでした。それほどに、求めが大きいということだったのでしょう。「明日はやらないの?」。何人もの人が同じ質問をしていかれました。第三次ボランティアチームは明日、帰還予定です。そのことから「やります」と即答できないのが、何とも痛い所でした。
こうして無事仙台に帰って来、これで今週も終わりかなと思っていた矢先、午後11時32分、突然非常に大きな揺れが仙台を襲いました。マグニチュード7.4、震度6強の、これまでで最大規模の余震でした。丁度入浴中であった私(門谷)は停電しないことを祈りながら揺れが収まるのを待ちましたが、無情にも再び電気は途絶え、家は再び真っ暗になりました。1~2分は揺れていたと思います。停電のために、前回あれほど重要と思った懐中電灯が、どこに置いたのか分からず、家の中を手探りでうろつく羽目に陥りました。裸ででした。前回の断水のことが瞬時に頭をよぎり、即座に水の確保に走りました。風呂に水を張った所、すでに水は濁った状態。これは「断水する…」と確信し、携帯用水タンクにも水を満たしました。やっと一息ついたときには、1時を回っていました。高速道路は通行止めとなり、明日の早朝に出発予定の第3次ボランティアチームの帰路にも暗雲が立ちこめてきました。余震と停電を経験したボランティアチームは、彼らだけでしょう。しかし、本震を経験している者にとっては「あの生活に戻るのか…」と思うと、憂鬱な気分になるものです。こうして、多くの人々が不安におののく中で、兎にも角にもその夜は過ぎていったのでした。

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2011年4月6日「石巻キリスト教会を物資配布所と化する」

今日は、午前中は祈祷会を行い、午後から再び基督兄弟団・石巻キリスト教会に向かいました。こちらの教会には先週、福音自由教会から集まったトラック一台分の物資をお届けしましたが、それらを用いて教会の中に物資配布所をつくり、地域の方々に開放するためです。伊藤宣子先生の指揮のもと、第三次隊のボランティアチームの方々は一斉に物資の仕分けと陳列を始めました。トイレットペーパーを積み上げ、医薬品を仕分け、携帯電話の充電器を分類し、オムツを10枚ずつ袋詰めする…。地道な作業ながら、皆生き生きと奉仕している姿が印象的でした。被災者の方々に少しでも分かりやすく並べようという配慮が、随所に感じられる配布所が、夕方までかかって無事できあがりました。総点数からすると1万はかるく超えており、品目数でも100以上はあったと思います。すでに、近隣の方々からは「いつ始めるのか」と矢のような催促が届いていました。この地域の大きな必要を痛感しながら、明日の開店に備えた次第でした。明日は、当教会の婦人有志も石巻市内で被害の大きい地域に自ら出向いていって「移動物資配布所」を設ける予定です。そういう訳で、大一番の一日になりそうです。

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2011年4月5日「続・陸前高田救援ミッション」

今日は、関西・九州から第3次ボランティアチームが昨晩現地入りされ、また野菜も沢山届いたこともあり、3/22以来二週間ぶりに、陸前高田市を再訪することにしました。行き先は前回と同じく老人ホーム「高寿園」と、陸前高田キリスト教会です。高寿園からは事前に野菜類と下着類が不足しているとの情報を得ていたため、それらを中心にセレクトして運ばせて頂きました。2週間ぶりに入った陸前高田市は、前回よりもガレキの整理が進んだ印象を受けました。折れ曲がったガソリンスタンドの給油装置が取り外されて地面も見えるようになっていたり、横倒しになって地面をふさいでいたクレーン車が取りのけられていたりしました。しかし、建物という建物が無くなっているという状況は変わらず、でした。高寿園に近づくと、パワーショベルがガレキ撤去中で行く手を阻まれ、遠回りを余儀なくされました。カーナビで検索しようにも、実際の道は橋が落ちていたり、ガレキでふさがっていたりで苦労し1時間以上、時間をロスしました。そんな中で、二人の男の子に道を尋ねる機会がありました。遊びから帰る途中のようでした。高寿園の生き方を尋ねると「僕たち、そこから来たんです。あっちからいけます」との元気の良い返事。故郷が見渡す限りの大破壊なのに、です。彼らの心には、癒しがたい傷跡が残っていることでしょう。そんな中でも懸命に生きている二人の姿に、打たれる思いがしました。
2週間ぶりの高寿園は、少し落ち着いているように見えました。私たちの他にも、2団体ほどが同時に支援物資を届けていました。2週間前には無かったことです。それを見て、大きめの避難所のニーズは、少しずつ充足されてきているのかも知れない、とも思いました。けれども、私たちが持参した生鮮野菜を差し入れる団体は少ないようで、やはり大変喜んで頂けました。
続いて陸前高田キリスト教会に向かうと、2週間前に私たちの行く手に立ちはだかったあの大きながれきの山が、綺麗に撤去されているではありませんか!前回を知っているのは私だけだったので、一人、感激を覚えていました。ところが、森田先生ご夫妻は留守でした。携帯で連絡を取ると、「あと10分で戻ります」とのこと。戻ってこられたお二人は、少しやつれた感じでした。「会堂に入ってお交わりしましょう!」の声に甘えて20~30分、皆でお話ししました。聞けば、大船渡にいる信徒さん宅まで物資を届けに行っていたとのこと。確かに、前回ガランドウだった会堂には沢山の物資がありました。他の教会や団体が届けてくれたものでしょう。しかし、それらは元は、先生ご夫妻にささげられた物です。それを、惜しげもなく与え尽くし、しかも自ら出向いてそれをする。仙台にいる私たちがするのならまだ分かります。けれどもここは大破壊の町・陸前高田です。電気も、水も、ガスも無い。その地で、普通の感覚ならば「自分用にキープしておきたい」と守りに入るでしょう。そうしたとしても誰も責めるはずがありません。ところが奥様は言いました。「神様は、与えていれば、与えて下さるのよ!」と。奥様は、ご自身膝の靱帯が切れている状態です。にもかかわらず、あちこちと動き回り、信徒のこと、近隣の方のことを気にかけている。「何という信仰か!」と思いました。打たれる思いがしました。「自分の信仰は生ぬるい…」とも思わされた瞬間でした。ところで、私たちが教会を訪問したのと丁度、同じ時間に、別の団体の車が支援物資を持ってやってこられました。「ラジオで、この地区が物資不足と聞いたモンで…」。手ぬぐいを頭に巻いた20~30代の青年たちでした。近所の人々がやってこられ、遠慮がちに受け取っていかれました。道路が開通したということは、こういう支援が受けられるようになったということなのか、と思わされた時でした。
帰りがけに、前回は見なかった海岸部を見ました。地盤沈下が著しく、海岸沿いのホテルは、一部が海になっていました。橋は流され、コンクリートの建物がその脇で横たわっていました。この町の復興は、長く険しい道のりになりそうです。日が落ちはじめ、灯り一つ無い荒野となった町を見渡しながら、主の憐れみをお祈り致しました。

2011年4月4日「続・石巻救援ミッション」

今日は、昨晩から夜を徹して埼玉の地より駆けつけて下さった横山師、牧師、日名神学生を、早朝にお迎え致しました。先生方は、大量の生鮮野菜をワゴン車一杯に積み込んで駆けつけて下さいました。被災地では、保存食料はあっても野菜は皆無に等しい、という場所があります。そのような場所では栄養が炭水化物に偏ってしまい、体調を崩しやすくなります。その意味でも野菜は重要ですから感謝です。
先生方に休憩をとって頂いた後、再び石巻の地を目指しました。今日は、同盟福音のGさんから頼まれた個人宅への物資輸送ミッション、そして泥に使った基督兄弟団・石巻キリスト教会の掃除ミッションが任務です。このため、高圧洗浄機を持参しました。これは数年前、我が家の下水管が詰まったときに購入したもので、普段あまり使う機会が無かったのですが、浸水被害を受けた場所の清掃では、恐ろしいほど大活躍してくれます(もちろん、こんな形で生かされるとは、購入当初は予想だにしませんでしたが…)。
石巻行きはもうこれで三度目になりますが、ガソリン事情の好転に伴って別の問題が発生しました。「渋滞」です。仙台と石巻を結ぶ国道45号線が大渋滞で、非常に時間がかかり、順調なら1時間45分の所が、2時間30分もかかってしまいました。しかし、渋滞を迂回する際に石巻港方面を回ったため、津波の被害のすさまじさをまた体験することができました。このあたりの津波の高さは、おそらく4~5m程度と予想されますが、大穴の開いた道路、おもちゃのように転がったディーゼル機関車、製紙会社の倉庫に散乱していた、水を吸って使い物にならなくなった巨大なロール紙、なぎ倒された防波堤、漏れ出たオイルに引火したためと思われる、焼け焦げた小学校…。陸前高田や女川町のような「何もない廃墟」とはまた違った、恐るべき被害の実体でした。
そうこうして、やっと到着したのは、石巻市幸町の民家にお住まいのTさんご夫妻でした。水産加工会社を営むTさんは、津波で会社の設備を失いました。ご自宅には自動車が逆さまに飛び込んでおり、母屋には10m先の別の家の上半分が流れてきて斜めに倒れかかるという、恐ろしい構図でした。物資をお届けすると、ガレージで火をおこしていたTさんは私たちにコーヒーを振る舞って下さいました。しばらく、震災から今までの話を伺いました。ここで私たちは、石巻の治安悪化の現状を肌で体験することになりました。被災した家屋から高価なギターを持ち出す高校生。死体の指ごと切り取って指輪を奪う強盗もいたとのことです。もちろん、電気・水・ガスは全く戻っていません。そういう中でも、避難所にいた人が次々と「自宅」に戻って来ています。たとえ浸水し、壊れかかっていようとも、強盗に家財を奪われるよりはましだからです。しかし、夜はどれほど不安が大きいことでしょうか。それでもTさんは、「起こった事は仕方の無いことだ。もう自分はどうやって会社を再建するか、それを考えているんだ。明日はまず重機を2台呼んで、このガレキを撤去する。会社の従業員にも連絡を付けている所だ」と、力強く語って下さいました。私であれば途方に暮れそうな所ですが、何という強さでしょうか。これが東北気質、というものだと私は実感したのでした。但し、もちろんそこには「押し殺した思い」もあるのです。心の中に溜められて、出てこないものがあるのです。彼らがイエス様にそれを打ち明け、知って頂くことができたなら、どんなにか、楽になるだろうか…。そう思いながら、お届けした物資が少しでもキリストの愛を伝えるものであるよう祈るばかりでした。
さて、コーヒーを頂いて少し遅れてしまったのですが、無事石巻キリスト教会に到着し、早速清掃ミッションを行いました。木造家屋の床に水を吹き付ける、という経験は、滅多にあるものではありません。畳が全部ダメになってしまったために、杉材が剥き出しになった床は真っ黒でしたが、幸い高圧洗浄機で見違えるほど綺麗になりました。それと平行して、二手に分かれたもう一方のチームは、翌々日をめどに始めようとしている物資配布所の準備に追われました。膨大な数の段ボール箱をどのように配置すれば最も効率的か。色々と知恵を絞り、めどが付いた所で夕暮れになり、翌日に持ち越すことにしました。この教会で奮闘しておられたのは、基督兄弟団・仙台教会の伊藤牧師の娘さんで、東京で伝道師として労しておられる伊藤宣子先生でした。パワフルに立ち回るその姿には、私たちも大いに励まされるものがありました。
こうして帰路につき、もう少しで教会という所で、大橋先生をリーダーとする関西からの第三次・ボランティアチームが到着したとの知らせが入りました。今日は、夕方にも名古屋から物資を積んだトラックも来て下さっていました。本当に感謝でした。明後日はまた石巻教会に向かいます。

2011年4月3日「四度目の礼拝」

今日は、震災以後、四回目の聖日礼拝でした。徐々にガソリンの状況が好転してきたこともあり、今日の礼拝には129名の方が集われました。インターネット同時中継には10名の方が参加されました。先週まで来られなかった方と3週間ぶりに顔を合わせ、震災の体験を共有し、励まし合い、祈り合うことができる。未曾有の大災害の中で、それまで漠然と思いを寄せてきた「八百万の神」に祈るわけにも行かず、「誰に祈ったら良いのか」と途方に暮れる人々の中にあって、天地をお造りになられた主を礼拝できることは、何という幸いでしょうか。キリスト者であることの恵みは、このような困難な中で、なおいっそう強められているように思います。
中高生会では、卒業した3名の高校生を送り出す歓送会を行い、盛況でした。このような震災の最中で、新しい地に旅立っていくことは、特別な思いがすることでしょう。けれども、信仰は逆境によって強められる、ということも事実です。彼らを見ていると、そういう強さがすでに感じられつつありますから感謝です。神様の恵みが豊かにあることを願うばかりです。

2011年4月2日「しばしの休息」

今日は、週に一度の休養日です。このような救援の働きを続けていくとき、最も疲れるのがメンタルの部分です。あまりにも悲惨な被災地の状況を目にし続けていると、ある種の普通でない精神状態に陥ります。それまで自分が普通に行ってきた生活が、まるで罪を犯しているかのように感じられるのです。例えばストーブで暖を取ること。被災地の人々は寒さに凍えながらいるのに自分は…と思うと、ストーブのスイッチを入れることに罪責感を感じるようになるのです。同様のことが、テレビ、インターネット、お風呂、食事…と、あらゆることに適用してしまうのです。私もそのような思いに、特に最初の1週間、襲われました。非常に心が疲れました。そんなときに重要なのは、御言葉に立ち返ることです。今回特に支えになったのは、伝道者の書5:18~20の御言葉でした。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」
この御言葉によって私は、自分に与えられた使命は、主が与えて下さった物を疎んじるのではなく、むしろそれを心から喜び、そこに満足を見いだし、自分の分をわきまえて、精一杯それを楽しむことなのだ、ということを改めて学びました。そして、救援の働きもまた、ここに立たなければ長続きしないと悟ったのです。被災者に共感するあまり、自分の生活や健康を犠牲にして顧みない人もいるように思います。生来、正義感や愛の深い人にそういうタイプが多いように思います。しかし、主は、今自分に与えられているものをまず精一杯喜び感謝せよ、そこから自分の分に応じて働け、と教えて下さっているのです。私はこのことを理解した時、重荷から解放され、被災者の方と接しても途方に暮れることが無くなりました。
もう一つ重要な事は、必ず完全休養日を入れる、ということです。主は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と言われました。これは、救援の働きに就く者にもあてはまります。特に牧会者が働きをしているのなら、日曜日以外に休養日を入れなければ、必ず疲れてきます。主もそう命じておられます。…かくいう私も、実際には礼拝準備などで、半日以上仕事をしていたのですが、それでもやはり休息は必要なのです。

2011年4月1日「第二次ボランティア帰還、名取方面救援ミッション」

今日は、早朝4時30分に、第二次ボランティア隊が、関西及び広島に向けて旅立って行かれました。関西へは12時間、の道のりは1500km以上、20時間にもおよぶ長い道のりです。このような長い距離にもかかわらず駆けつけて下さった先生方や兄弟姉妹に、頭の下がる思いが致しました。
さて、残った仙台教会メンバーと中部チーム1名とは、これまで一度も行っていなかった、仙台より南の地域に物資を届けることに致しました。中でも名取市は、あのNHKが空撮映像で津波を同時中継した閖上海岸・荒浜地区があります。仙台からは車で30分程度と、それほど遠くはありません(それだけに私にはあの映像は衝撃であり、涙を禁じ得ないものでした)。目指したのは、保守バプテスト同盟・ニューライフ名取教会(大沼孝師)でした。教会訪問に先立って閖上地区を見て回りましたが、ここでも私たちは5~6メートル以上の津波の跡に出会いました。「布のようなものが塔に巻き付いている…?」と思って近づくと、実はその布はスチール製であることが分かって驚愕したり、コンクリートの防波堤が跡形もなく鉄骨ごと吹き飛ばされているのを見ると、戦慄を覚えました。もう一つ興味深かったことは、電柱や樹木がみな同じ方向を向いて倒れていることです。津波が来た方向がそれだったのでした。ただし、そのようにして廃墟となった海岸線から数km内陸に入ると、もうそこにはマクドナルドが営業しており、国道には車がバンバン走っています。そのような中で、ボウリング場が「ご遺体安置所」として利用されていました。そのギャップのあまりの激しさには、くらくらするほどでした。
そのような中で教会は一体どうなっているのだろう…と思いつつ訪問しましたが、幸い教会は津波到達点から数キロ離れた所にあり、会堂は全く無傷でした。KGK元主事のO先生が温かくお迎え下さり、学生主体の支援チーム一同、良き交わりを頂きました。物資は足りているとのことでした。確かに、まわりのスーパー等も普通に営業していました。先生によれば、最初の1週間ほどは、給水車の列に12時間並ぶなど、非常に厳しかったが、今はもうほとんど回復している、とのことでした。名取はガスの回復も早く、市内で不通となっているのはごく僅か、ということでした。折角物資を持ってきたのでどこか必要な所にと、その後避難所や教会を3箇所ほど回りましたが、避難所では足りている、との(予想通りの)お返事。教会はお留守でした。結局、この日はこの働きが始まって以来初めて、どこにも物資を降ろさずに帰って来ました。ただ、O先生との交わりを頂けたこと、また名取方面はほぼ物資は行き渡っているということが分かったことは、大きな収穫でした。 ちなみに、当教会のガスは依然として不通です。

2011年3月31日「第二回・気仙沼救援ミッション」

今日はこのはたらきが始まって以来最大の規模で行われたのが、今日の気仙沼ミッションでした。教会員の関係者12箇所、そして今日からやっと定期便の運行が再開された気仙沼大島への物資輸送が加わり、合計13箇所に届こうというプロジェクトでした。このために三台の車を用意しました。広島チームの2.75tトラックには大島行きの物資を、教会車と関西チームのバンには残り12箇所向けの物資を搭載し、総勢15名が参加しました。出発が遅くなりましたが、2時半頃、無事に見地に到着しました。すでに一度、キングスガーデンへの物資輸送ミッションで来ているのですが、今日はあまりにも届ける箇所が多いため、二手に分かれて同時並行で届けました。それに先だって、気仙沼港をざっと見ましたが、K先生は「ここは船の墓場だね…」とポツリと語られました。その通り、見上げるような大きさの船(1000トンクラスもあったと思います)が陸地に乗り上げたり、焼け焦げたりしていました。港に近い家屋はコンクリート製の建物が多いためか倒壊こそ少ないものの、やはり壊滅状態でした。印象的だったのは、地盤が下がったことで「海が異様に近い」ことでした。満潮時・大潮時などは大量の海水が入ってきそうな状況でした。岸壁も、ところによっては海水が入り込んで水に浸かっていました。その海水にもオイルが浮かび、うっすらと異臭を放っています。港の完全復旧には年単位の時間がかかりそうでした。そのような中で気仙沼市内を回る班は、通行止めの道に悩まされつつも、なんとか2時間ほどで任務を終えました。また、大島への物資は、「ひまわり」という本来客船として用いられている船の座席に、荷物を搭載して運んで頂きました。船長のSさんのお話によれば「地震が発生した直後に、船を守るため沖合に出た。やがて山のような津波がやってきた。舳先を波にツッコミながら波を上ると、10メートルの谷に落っこちるような感覚だった。波は何派にも分かれてきた。恐ろしかった」ということでした。このように、船を守ることができた船主の方は、ごく僅かしかいませんでした。このため、気仙沼大島への補給は非常に限られ、地震発生当初1週間は、補給は皆無に等しかったそうです。野菜、下着、カイロ、衛生用品、防寒具、ストーブ、灯油、電池などあらゆる種類のものを船に乗せて頂き、1時間後、「無事に受け取りました!」と、大島の災害対策本部のSさんよりお電話を頂きました。お届けした物資が有効に生かされることは本当に感謝でした。
一方、大谷海岸・本吉の9箇所を回る班は、海岸沿いの荒れた道に悩まされながら進んでいました。がれきが行く手を遮り、併走する線路は押し流され幅10cm程度に縮まっていたり、パンクの恐怖と闘いながら、3時間を費やしてようやくmission completeとなりました。途中千厩(せんまや)で合流して帰仙したメンバーには、心地よい疲労が漂っていました。ボランティアスタッフ9名は翌日早朝に旅立ちです。本当に良き働きをして下さり感謝でした。
この日、もう一つ驚いたことは、一関インターチェンジのすぐ近くの給油所が夜半にもかかわらず営業しており、なおかつ給油待ちの行列が10台ほどしかなかったことです。同じ日に仙台ではまだ500メートルは並んでいただけに、なおさらおどろきでした。地方中核都市の中でも人口が比較的少ない所では、もう燃料事情はすっかり平常に戻って来たように思いました。但し、足元を見られていたのか、1リットル166円とベラボーに高価でしたが・・。