今日は、週に一度の休養日です。このような救援の働きを続けていくとき、最も疲れるのがメンタルの部分です。あまりにも悲惨な被災地の状況を目にし続けていると、ある種の普通でない精神状態に陥ります。それまで自分が普通に行ってきた生活が、まるで罪を犯しているかのように感じられるのです。例えばストーブで暖を取ること。被災地の人々は寒さに凍えながらいるのに自分は…と思うと、ストーブのスイッチを入れることに罪責感を感じるようになるのです。同様のことが、テレビ、インターネット、お風呂、食事…と、あらゆることに適用してしまうのです。私もそのような思いに、特に最初の1週間、襲われました。非常に心が疲れました。そんなときに重要なのは、御言葉に立ち返ることです。今回特に支えになったのは、伝道者の書5:18~20の御言葉でした。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」
この御言葉によって私は、自分に与えられた使命は、主が与えて下さった物を疎んじるのではなく、むしろそれを心から喜び、そこに満足を見いだし、自分の分をわきまえて、精一杯それを楽しむことなのだ、ということを改めて学びました。そして、救援の働きもまた、ここに立たなければ長続きしないと悟ったのです。被災者に共感するあまり、自分の生活や健康を犠牲にして顧みない人もいるように思います。生来、正義感や愛の深い人にそういうタイプが多いように思います。しかし、主は、今自分に与えられているものをまず精一杯喜び感謝せよ、そこから自分の分に応じて働け、と教えて下さっているのです。私はこのことを理解した時、重荷から解放され、被災者の方と接しても途方に暮れることが無くなりました。
もう一つ重要な事は、必ず完全休養日を入れる、ということです。主は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と言われました。これは、救援の働きに就く者にもあてはまります。特に牧会者が働きをしているのなら、日曜日以外に休養日を入れなければ、必ず疲れてきます。主もそう命じておられます。…かくいう私も、実際には礼拝準備などで、半日以上仕事をしていたのですが、それでもやはり休息は必要なのです。