この日は、当教会有志により毎週一回行われている物資配布の日でした。今回向かったのは、石巻市の南東側に位置する牡鹿半島の付け根にある万石橋を渡ってすぐのコンビニエンスストアの駐車場です。この地域では、まだまだ物資が行き届いていない部分が有り、道路も傷んでいる部分があるとのことで、物資配布の必要が大きいと判断してのことでした。 今回は事前にアナウンスをして行った事もあり、到着前からすでに100名以上の被災者の方々が待っていて下さいました。5月にしてはかなりの日差しが照りつける中で、辛抱強くお待ち下さった被災者の方々を見る時、頭が下がる思いでした。今回は、レジャーテーブルを用意して、ドリンクサービスも実施しました。多くの方々が立ち寄って休憩していかれ、また体験をお話し下さいました。
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2011年5月19日 「石巻~女川~雄勝町視察」
今日は、翌日の月一度の婦人向け伝道集会の準備のため、石巻での物資配布はお休みとなりました。
そこで、私の家族を連れて、再び石巻から女川、雄勝町、そして南三陸町方面を視察することにしました。最近は、三陸道はほとんど渋滞することはなくなり、仙台から石巻は1時間15分程度で移動できるようになりました。4月頃の渋滞(2時間半以上!)が嘘のようです。
今回の石巻訪問で一番変化を感じたのは、石巻大橋から湊~鹿妻~渡波と向かう国道398号線の道路沿いに、何本か真新しい電柱が立ち始めたことです。この地区は、石巻でも最も被害の大きい地帯ですが、そこにあっても電気の復旧に向けた足がかりが築かれています。そして、渡波地区においても、あちこちで既存の電線の修復が急ピッチで行われていました。感謝なことでした。そして、石巻~女川に向かう道では、以前は砂利道であった所に新しくアスファルトが敷かれていました。地盤沈下によってもたらされた満潮時の浸水を食い止めるためだと思いますが、道路全体が30cmほどかさ上げされているのが非常に印象的でした。
女川から先では、海岸沿いの398号が土砂崩れのために通行止めになっており、山の中を抜ける細い道だけが通行可となっていました。普通車がやっと通れる広さですので、女川から先に行こうとしている方は注意が必要です。それにしても、5/9に訪れた時は何の問題も無かったのですが、わずか10日間で土砂崩れが起こったということでしょうか。
次に雄勝町に達しました。ここは「雄勝硯」で全国的に有名な町ですが、残念ながら、町全体が跡形も無くなっています。下の動画を見て頂けると、それがよく分かると思います。コンクリートの建物以外は、何一つ残っていません。三階建ての雄勝中学校は、最上階まで津波が押し寄せていました。生活の再建は依然として困難であることは、容易に見て取れました。
[See post to watch Flash video]続いて南三陸町を目指して398号を北上しましたが、北上川にたどり着いた時点で大きな問題が発生しました。新北上大橋が通行不能状態で、南三陸町に向かうには、内陸部を大回りしなければならないのです。時間の関係でそれは難しかったため、前回同様北上川を西進して帰路に就くことにしました。北上川左岸の堤防は、この10日間で急ピッチで修復が進んでいました。この分だと、そう遠くないうちに仮設道路も「仮設」ではなくなるものと思われます。詳しくは、下の動画をご覧下さい。 [See post to watch Flash video]
2011年5月12日 「石巻市渡波地区 支援物資配布」
この日は、毎週木曜日に行っている、石巻市への支援物資配布デーでした。今回は、5/9から当教会に宿泊されながら各地でボランティア活動をして下さっている、東海聖書神学塾の神学生の皆さんが協力して下さいました。また、マイクロバスも提供して下さり、多くの物資と人員を運ぶことが出来ました。感謝です。
今回の配布場所は、以前一度お邪魔した、渡波(わたのは)地区の万石橋のたもとにあるT酒店の駐車場をお借りして行いました。多くの方々が物資を受け取りに来て下さいました。
今回はまた、いままでにない試みとして、珈琲コーナーを設置することにしました。持参したコーヒーを味わって頂きながら、来て下さった方々の震災体験をお伺い致しました。東海聖書神学塾の神学生の方々が、じっくりと聞いて下さり、被災者の方々も時間を忘れて話して下さった方もいたようです。被災地は、すこしずつ心のケアが重要な段階に来ています。これからは、耳のボランティアがもっと求められるように思います。
この日は大雨の予報でしたが、物資配布時間の時はなんとか守られ、帰仙後に雨が降りました。全てが主の御手の中にあった物資配布でした。
2011年5月11日 「海外福音自由視察チーム来仙」
昨晩から、海外の福音自由教会(アメリカ、香港、シンガポール)の責任者の先生方や信徒の方々が、はるばる宮城に来て下さいました。そして、祈祷会に出席して下さるとともに、Karl Lahr先生(アメリカ福音自由教会 ‘Reach Global’ 責任者)がメッセージを取り次いで下さいました。通訳は、広島福音自由教会の北野先生でした。先生は、「このような状況にある皆さんに、どのような言葉をかければよいか、正直に言って非常に難しいことです。しかし、主が皆さんをこの時、この場所に置いておられた、ということは確かなことです。私たちは、そのようにして主が摂理を持って置かれたそれぞれの地で、主の使命を果たしていく必要があるのです」と、力強くメッセージを語って下さいました。
今回はまた、アメリカミネソタ州より、Sさんご夫妻も駆けつけて下さいました。私(門谷)の両親の親しい友人であり、今回教会でアピールしてくださり、尊い義援金を携えて来て下さいました。このように遠く離れた地から直接の支援を頂けることは思ってもいなかったことであり、本当に励まされることでした。
食事の交わりも大いに祝され、普段、他の福音自由教会と距離があるためにあまり交わりが持てない教会員にとっては、一足飛びに海外の福音自由の皆さんとの交わりが与えられる貴重な機会となりました。
昼食後は、一同で再び石巻~女川の視察に出かけました。海外から初めて被災地を回った方々は、二ヶ月を経てもなおほとんど変わらない惨状の被災地に息を飲んでおられました。
石巻教会に行った時、ちょうど2時46分を迎えました。そう、この日は震災から丁度2ヶ月の日でした。行政無線で黙祷を呼びかける放送が流れ、一同、それぞれの場所で、主のいやしと顧みを祈ったのでした。
2011年5月9日 「石巻・女川町・南三陸方面再訪」
今日は、米国の自分の教会にてアピールをして下さり、義援金を集めて下さったSさんご夫妻が、日本滞在中に私たちの教会を訪ねて下さいました。Sさんは、私の生まれ故郷であるミネソタ州セントポール郊外に数十年に渡って住んでおられる熱い信仰者のご夫妻でした。
今日の目的地は石巻市と女川町でした。私自身、被災地を訪れるのは3週間ぶりでした。最初の石巻では、石巻港沿岸を通りました。こちらでは、以前は散乱していたコンテナが整然と積み上げられていたり、南浜町に以前は無かった巨大なガレキ撤去場が出現したりと、変化を感じさせるものでした。次に向かったのは、渡波(わたのは)地区です。こちらは、当教会の物資配布で何度か出向いている地区です。中に入ってみてまず驚いたのは、道が広くなっていることでした。以前は道路の両側にうず高くガレキが積み上がり、車幅一杯まで来ているような場所ばかりだったのですが、今回の訪問では、そのようなことは全くなく、車同士がすれ違えるまでになっていました。これは驚くべきことであり、希望を感じました。この数週間で、相当にガレキ撤去が進んだ印象を受けました。もちろん、電柱は倒れたまま、電線は垂れ下がったままで、水道も通っていないようで、暮らしぶりが良くなったわけではありません。依然として過酷な状況に置かれている住民の皆さんを思うと心が痛みました。
次に向かったのは、女川町です。既に何度か訪問していますが、今回も女川町立病院に向かいました。そこで交通整理をしている初老の男性にお話を伺う機会がありました。地震発生当日、彼は家族を連れて高台であるこの病院の駐車場に避難しました。寒い日であったため、皆そこで暖機運転をして暖を取っていました。ところが、津波は想像を超える高さでやってきました。危険を感じた彼は病院の三階に避難して間一髪で難を逃れましたが、目の前で自分の車が流されていきました。その車は、50m先にある4階建てのビルの屋上に突っ込んだままになっているのが見えました。彼は地震後、少しでも津波の被害を減らそうと、自宅の雨戸を閉めに一旦戻ったとのことでしたが、その家はいま、跡形もありませんでした。何も持参せず雨戸だけ閉めたことを聞いた近所の方々から呆れられてしまったと、彼は苦笑しながら話して下さいました。一同、衝撃を受けた告白でした。
さらに、マリンピア女川の屋上(5階建て相当)に逃げた人も助からず、さらにその一段上の逆三角形の構造物がある段によじ登った人だけが助かったこと、また商工会議所の屋上にある3m程度の給水タンクの鉄骨にしがみついた人四人が助かったこと、等々のお話しを伺いました。彼に別れを告げた後は、女川駅の跡地など、以前見ていなかった場所も巡りました。山の木に引っかかった電車など、さらに衝撃的な風景も広がっていました。
続いて、女川から沿岸地帯を北上しました。雄勝町を経由し、北上川までやってきた所には、あの大川小学校がありました。この小学校は、教師・児童の80%が亡くなったことが報じられた場所でした。確かに、学校のすぐへりが山でした。よじ登れない山ではないように思えました。一瞬の判断が生死を分けることを痛感させられました。
2011年5月5日 「石巻市・黄金浜物資配布」
教会では、石巻地域への継続的支援を行うことで、皆の一致が見られています。今のところ、週1回、10人程度の教会メンバーが4~5台の乗用車一杯に荷物を詰め込んで、現地へ向かっています。今回は、事前にある教会員の友人が住んでおられるという「黄金浜(こがねはま)」に向かいました。ここでは、既に他のキリスト教団体が継続的に物資を配布しておられるようで、現地では「キリストが来る!」と言われているとのことでした。余談ですが、現地の方々にとっては、「キリスト」も「教会」も一緒の扱いのようです(笑)。ある意味では神学的だと言えるかもしれません。
こうして到着した黄金浜には、砂利が敷かれた大きなスペースがありました。聞くとそこは以前は干物を天日干しにする場所だったとのことですが、その面影はありませんでした。周囲の家々は、やはり大きなダメージを受けており、一階部分に居住することは厳しいように思われました。依然として、物資配布の必要は非常に大きいようです。
2011年4月19日「石巻キリスト教会での仕分け、自治会館に物資を届ける」
昨日のレポートの通り、今日からは4名のボランティアチームの方々に単独での動きをお願い致しました。以下はK先生のレポートを中心にしたご報告です。
「石巻キリスト教会に物資を届けると同時に、物品の仕分けをした。教会の全ての部屋が物資で埋まっている状態で、仕分けるスペース確保にも困難でした。その後、教団教派、国境の壁を越えて多くのクリスチャンが集まり人数が増えたため、郊外に物資を届けることにした。途中である自治会館で物資が不足しているという情報を聞いてそこに向かった。そこでは60名程度の避難者が何の仕切りも無い部屋に寝泊まりしていた。物資の必要を尋ねると逡巡したのち、女性用の上の下着(ブラジャー)と申し出られた。震災以来、一度も取り替えていないという(上の下着はサイズが細かくあるので支援物資として集めづらい事情があります)。チームに女性メンバーがいたので彼女が詳しく必要を伺い、一旦教会に戻って物資を届けた。下着については後日届けるという約束をして後にした。仙台に帰る道では、大潮のため道路が冠水していた。バンパーに木材が刺さった車も見かけた。」
後日談として、メンバーのO姉が帰宅後、早速下着を集めて下さり、宅急便で会館に届けて下さいました。後日そこを訪れた石巻キリスト教会の伊藤先生によれば、「避難者の方々は大変喜んでおられました」とのことでした。こういう配慮ができることこそ、まさしく教会ならではないかと思わされます。今後は、このような面での支援が必要になってくることでしょう。
2011年4月18日「第五次ボランティアチーム到着、ひとつの区切り」
今日は、福音自由教会のボランティアチームの方4名が仙台に到着されました。関西からの牧師先生3名と、上田教会のO姉が再び、です。仙台福音自由教会では、先週ライフラインが完全に戻ったのを機に、先週末をもって教会全体としての被災地への直接的支援は一旦終了することになりました。私(門谷)も、今週からは再び通常の牧会の働きに戻していくことにしています。もちろん、被災地のニーズもそこで消滅したわけではありません。その逆です。けれども被災地では、初期の救援ミッションから、中長期のミッションへと移行しつつあるように思います。そうすると、今度は被災地支援に関わっている方々の「心身の疲れ」にも、焦点が当てられなければなりません。特に今回の震災の場合、目で見える被害が余りにも大きいので、「被災する側」のことはあまり目が行かない場合多いように思います。しかし実は彼らも非常に疲れているのです。なかなかその部分の霊的・肉体的ケアができておらず、走っている場合が多いのではないでしょうか。特に、地域の支援の中核拠点的な働きをしておられる教会の働き人に、その傾向が強いように思います。
ですから、そのような視点を持ちつつ、教会が教会としての機能を果たしながら、同時に支援活動にどのように関わっていくか。教会全体として熟慮し、統一見解を持っておくことが必要なように思います。牧師の熱意だけに任せておくと、後から教会員が思わぬダメージを受けないとも限らないように思います。そういう観点から、当教会では、今週から「有志による自発的に支援ミッション」に大きくシフトすることに致しました。教会活動と支援活動の両立をうまく果たすためには、そのような関わり方が最善だと判断してのことです。いつまでも牧師が毎日のように遠方の被災地に出向いている訳にはいきません。その地域「教会」としての機能が低下することに繋がりかねないからです。直接の被災地から離れている教会は、どこかの時点で、後方支援にシフトしていく必要があると私は考えています。そういう訳で、明日からはボランティアチームの皆さんに単独でのミッション遂行をお願いし、私は教会に留まって、調整業務や通常の牧会に戻っていくことになります。
2011年4月14日「渡波(わたのは)物資配布&割烹料理店清掃ミッション」
今日は、物資配布チームと清掃チームが合同で石巻に向かいました。ワゴン車三台+普通車二台で車列を組みました。目指したのは石巻市東部の渡波(わたのは)地区。ここは万石浦(まんごくうら)という湾にほど近く、海岸から数百メートル足らずの距離でした。最初はもっと沿岸寄りを目指したのですが、津波で堤防が崩れたことと、地震で地盤が1.2メートルも沈下したこと、そして大潮で潮位が上がったことから、数十メートル内陸側まで水に浸かってしまい、車での進入が困難になっていました。暴風雨の際には、床上まで水に浸かる可能性が容易に考えられます。たとえ津波を乗り越えても、今後継続的に住むことは非常に難しい。そういう悲惨な地域でした。その一角の、閉まっていた商店の駐車場をお借りして、物資を並べました。並べ始めた途端、近くの家々から待ちきれない被災者の方々が続々と出てこられ、「まだですか」と言われます。
教会の婦人達にその場は任せ、男性陣は昨日出向いた割烹料理店の清掃に向かいました。到着すると、今日共同作業する予定であった、JECA西日本地区とJIFHの合同ボランティアチームの方7人が、すでに作業を始めておられました。この料理店は1階が厨房、2階が宴会スペースとなっており、400平方メートルはあろうかという大きな建物です。早速私たちもガレキ撤去作業に取りかかりました。思い出の家財も一緒になっているため、注意しながらでした。一同何かに憑かれたかのように一心不乱に作業に明け暮れ、休憩時間も忘れるほどでした。懸念されていた大型冷蔵庫も男性5~6人で撤去でき、女性陣は散乱していたお皿を綺麗にし、5時を回る頃には、1階はほとんど片付いてしまいました。皆、深い充実感に包まれました。K先生が言われました。「今日は、本当にいいミッションだったと思います。大きな仕事ができて良かった!」と。まさしくその通りだったと思います。料理店のご主人のSさんも、昨日の表情とは打って変わり「本当にありがとうございました!昨日まではどうなることかと思っていましたが、皆さんにこんなにやって頂いて・・」と晴れ晴れとした顔でした。聞けば、この料理屋は100年続いている、地元では知られたお店だということでした。もちろんご主人と奥様、そして弟さんはノンクリスチャンの方ですが、「お祈りさせて下さい」とお願いし、その場所で主のあわれみと回復を、丸くなってお祈りしました。ボランティアチームの皆さんは、何も指示が無くとも一人一人、喜んで、自ら進んで献身的に仕えて下さいました。JECAのチームには、今日初めて会った人もいます。にもかかわらず、これだけ一致して働ける。キリストにある交わりの素晴らしさを実感し、震えるような思いでした。
仕事を終えて道具を掃除していた時、向かいのTさん宅のご長男が近づいてこられ、頭を下げて感謝してこう言われました。「物資を持ってきてくれたり、声をかけてくれたりする方は結構いるんです。でも、このように何のつながりも無かった所に来てくれて、実際に身体を動かして助けてくれる人は、なかなかいないんです。この地域のことを思って下さって、本当に有り難いです!」と。そう言う顔も、とてもすがすがしく私の目には映りました。第四次ボランティアチームの最後の活動日に、本当に良い仕事ができ、感謝でした。(後日談:この日から10日余り経った日、一通の葉書が届きました。渡波で支援物資を受け取った被災者の方が、がれきの下から探し出したハガキに感謝を綴って下さったものでした。教会員一同、感動したことは言うまでもありません)。
2011年4月13日「JEAの皆様来訪、石巻清掃ミッション不発、女川町再訪」
今日は、午前中祈祷会を行い、午後から支援活動に行くことにしていましたが、思いがけず、祈祷会前にJEAの原田先生をはじめとする援助協力委員会の先生方がはるばる関東から訪ねてきて下さいました。このようにして実際に足をお運び下さることは、本当に大きな助けになります。JEAはCRASH JAPANと連携して被災地への人的支援を願っておられます。働きの祝福を祈った次第でした。
さて、祈祷会後の活動として今日予定していたのは、以前物資をお届けしたTさんという方のお宅のお向かいにある旅館の清掃ミッションです。昼食後すぐに出発したのですが、問題がありました。この所、仙台→石巻の道路が非常に混雑していることでした。高速道路も一般道も等しく渋滞しており、なんと2時間30分もかかってしまい、到着した頃にはすでに3時半を回っていました。何か作業をするには少々遅すぎる時間でした。出てこられたのはご主人のSさんご夫妻と、弟さんの3人でした。室内は電気製品や食器、家具、書類、ヘドロ等が散乱していました。特に、500kgはあろうかという業務用の冷蔵庫があり得ない場所に転がっているなど、3人ではどうにもならず、人手が必要なことは明らかでした。これは、お助けできる、と思い伺った所、「今日はもう日が落ちるのでそろそろ切り上げて帰ろうとしていた所です」とのお返事。「少しでもお手伝いさせて頂けませんか」とダメ元でお伺いするも、「もう帰りますので…」と遠慮がちなお返事。では、明日はいかがでしょうか、と半ば食い下がるようにして明日午前中からのご奉仕を申し出ました。
東北人には、このような気質が多分にみられます。どう考えても助けが必要なことは明白であっても、「大丈夫です。間に合ってます!」と言ってしまうのです。それは「人の世話になるのは申し訳ない=そんな好意を受けるような自分たちでは無い」という思いがいつもあるからです。けれども、東北人というものは、情に厚い人々です。一度恩を受けると、心を開いて親しく語り合ってくれるのです。そして、本当はそのような人の愛の温かさに渇いているのです。愛されたい、行動でそれを現してもらいたい。そう願っているのです。これまでの被災地訪問の経験からそのことを学んでいましたので、私も少々お節介と思うような調子で、支援を申し出させて頂いたのでした。
と言うわけでその場は引き上げることになりましたが、まだ時間に余裕があったので、女川町を再訪して様子を見てくることにしました。以前、石巻キリスト教会の伊藤師の案内で向かわせて頂いた場所です。今日は、その時行かなかった、高台にある女川町立病院から町全体を見てみることにしました。到着してみて震えが来ました。私が高所恐怖症気味ということもありますが、「そのような高さに恐怖を感じるまでの場所に、津波が届いている」ということに、なおさら恐怖する思いでした。5階建てのビルの屋上にガレキが乗っているのが見えました。それは、この町で海岸沿いにいた人は、この病院の2階、あるいはもう一つだけあるビルの屋上にでなければ命が助からなかったことを意味していました。女川町は非常に狭い入り江になっているため、このような高い津波になったことでした。
