今日は、米国の自分の教会にてアピールをして下さり、義援金を集めて下さったSさんご夫妻が、日本滞在中に私たちの教会を訪ねて下さいました。Sさんは、私の生まれ故郷であるミネソタ州セントポール郊外に数十年に渡って住んでおられる熱い信仰者のご夫妻でした。
今日の目的地は石巻市と女川町でした。私自身、被災地を訪れるのは3週間ぶりでした。最初の石巻では、石巻港沿岸を通りました。こちらでは、以前は散乱していたコンテナが整然と積み上げられていたり、南浜町に以前は無かった巨大なガレキ撤去場が出現したりと、変化を感じさせるものでした。次に向かったのは、渡波(わたのは)地区です。こちらは、当教会の物資配布で何度か出向いている地区です。中に入ってみてまず驚いたのは、道が広くなっていることでした。以前は道路の両側にうず高くガレキが積み上がり、車幅一杯まで来ているような場所ばかりだったのですが、今回の訪問では、そのようなことは全くなく、車同士がすれ違えるまでになっていました。これは驚くべきことであり、希望を感じました。この数週間で、相当にガレキ撤去が進んだ印象を受けました。もちろん、電柱は倒れたまま、電線は垂れ下がったままで、水道も通っていないようで、暮らしぶりが良くなったわけではありません。依然として過酷な状況に置かれている住民の皆さんを思うと心が痛みました。
次に向かったのは、女川町です。既に何度か訪問していますが、今回も女川町立病院に向かいました。そこで交通整理をしている初老の男性にお話を伺う機会がありました。地震発生当日、彼は家族を連れて高台であるこの病院の駐車場に避難しました。寒い日であったため、皆そこで暖機運転をして暖を取っていました。ところが、津波は想像を超える高さでやってきました。危険を感じた彼は病院の三階に避難して間一髪で難を逃れましたが、目の前で自分の車が流されていきました。その車は、50m先にある4階建てのビルの屋上に突っ込んだままになっているのが見えました。彼は地震後、少しでも津波の被害を減らそうと、自宅の雨戸を閉めに一旦戻ったとのことでしたが、その家はいま、跡形もありませんでした。何も持参せず雨戸だけ閉めたことを聞いた近所の方々から呆れられてしまったと、彼は苦笑しながら話して下さいました。一同、衝撃を受けた告白でした。
さらに、マリンピア女川の屋上(5階建て相当)に逃げた人も助からず、さらにその一段上の逆三角形の構造物がある段によじ登った人だけが助かったこと、また商工会議所の屋上にある3m程度の給水タンクの鉄骨にしがみついた人四人が助かったこと、等々のお話しを伺いました。彼に別れを告げた後は、女川駅の跡地など、以前見ていなかった場所も巡りました。山の木に引っかかった電車など、さらに衝撃的な風景も広がっていました。
続いて、女川から沿岸地帯を北上しました。雄勝町を経由し、北上川までやってきた所には、あの大川小学校がありました。この小学校は、教師・児童の80%が亡くなったことが報じられた場所でした。確かに、学校のすぐへりが山でした。よじ登れない山ではないように思えました。一瞬の判断が生死を分けることを痛感させられました。