今日のメッセージ 『神の忍耐は私たちへの愛』 2025年11月2日

 牧師 高橋勝義

〔神の忍耐は私たちへの愛〕

 イスラエルは、神の御業によってモーセに導かれエジプトから救い出され、約束の地に向かう旅を始めました。しかし、モーセやアロンへの不平不満、また神への不信仰により、約束の地に入ることができず、40年間荒野で生活することになってしまいました。

 そして今、再び約束の地に入る準備が始まり、主の命令により各部族の二十歳以上の者を数えました。この時40年前にモーセと祭司アロンが人口調査して登録した者はエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかは誰一人いませんでした。それは、主がかつて、不信仰な彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたとおりでした。この荒野で、神への信仰を学んだ新しい世代が、約束の地に入る準備を始めたのです。

 前回、登録された者は六十万三千五百五十人でした(民数記1:46)が、今回は六十万一千七百三十人(民数記26:51)で、ほぼ、変わらなかったのです。「神はあわれみ深く彼らの咎を赦して滅ぼされなかった。怒りを何度も抑えて憤りのすべてをかき立てられることはなかった。(詩篇78:38)」とある通りです。それゆえ、詩篇の作者は「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇106:1)」と語るのです。

 神はだれひとり滅びることがなく、すべての人が悔い改めて救われることを心から待ち望んでいます(Ⅱペテロ3:9)神のいつくしみと恵みにより、私たちは滅ぼされなかったのです。時が満ち、神は、愛する一人子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わされました。それゆえ、「今は恵みの時、今は救いの日です(Ⅱコリント6:2)」から、このチャンスを逃さず、新しく造り変えられる新たな人生へと踏み出して行きましょう。

コラム 『神の不思議』 2025年10月26日

 牧師 高橋勝義

 人には、誰でも人生を変えるような出来事があるものです。その時は気づかなくても、それまでの人生を振り返ったとき、「あの時が…」と思い当たることが、きっとあるでしょう。

 私も中学三年生の時、自分の将来についてあれこれ考えるなかで、これからはコンピューターの時代になると思い、それを学びたいと考えていました。しかし時代は建築ブームで、叔父のひとりが建築科に進んだ方がいいと勧めました。今でも、なぜその勧めに従ったのか、不思議なのですが、私は建築の方に舵を切りました。そして、その建築科のある高校で、私はイエス・キリストに出会ったのです。

 生きる道を求めていた高校三年の春、私は教会に導かれ、イエス様を罪からの救い主と信じ、翌年、洗礼を受けました。あれから、50数年の月日が流れ、この間いろいろなことがありましたが、神の恵みとあわれみによって、福音を宣べ伝える働きに携わらせていただいています。もしも、あの時、自分の考え通りに進んでいたならば、イエス・キリストに出会うことはなかったかもしれません。中学三年のあの時には想像すらできなかったインターネットの普及、そして、それによる技術革新の日々の中で、私は取り残されないようにと、必死で頑張り、疲れ果てていたことでしょう。神のなさることは、本当に不思議です。

 私たちを造られた神は、私たち一人ひとりに御計画を持っておられます。 

 「私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。」(伝道者の書3:14)

今日のメッセージ 『あなたはキリストとともに十字架で死んだのです』 2025年10月19日

 牧師 高橋勝義

〔民数記25章1~18節

 イスラエルがモアブにとどまっていた時のことです。民は土地の娘たちとふしだらな関係を持ち始め、さらにモアブの神々の儀式に加わり、ついには偶像を拝んだのです。しかも、それは民のかしらたちでした。すると、主の怒りがイスラエルに燃え上がり、神はモーセにバアルを拝んだ者たちを一人残らず処刑するように命じます。神の厳しい命令に、全会衆は幕屋の入り口で泣いていましたが、その目の前で、一人の男がミディアン人の女を連れてきて、自分の兄弟たちに近づけたのです。それを見た祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、その男と女二人のあとを追い、槍で殺しました。すると、このことでイスラエルの子らへの神の罰は終わり、イスラエルは絶ち滅ぼされずに済んだのです。

 かつて荒野で民は「ああ、肉が食べたい」と大声で泣き、主に激しく不平を言ったため、主の怒りが燃え上がり、主の火が宿営の端をなめ尽くしました(民数記11:1~6)。聖書は、このことについて、「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(ピリピ3:19)」と語っています。

 イエス様を罪からの救い主と信じた者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたと聖書は教えています(ガラテヤ5:24)。欲望のままに生きる歩みから、神とともに生きる歩みとなるためです(Ⅰペテロ4:2)。しかし、欲望に打ち勝つ力は私たちにはありません。私たちの内に住んでおられる御霊の力によってなら打ち勝つことができるのです。(ローマ8:11)。

 それゆえ、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(ガラテヤ5:16)」と勧められています。

今日のメッセージ 『神は生きている者の神です』 2025年10月12日

 牧師 高橋勝義

〔民数記24章10~25節

 敵国イスラエルを呪って、戦に勝利を収めたいモアブの王バラクでしたが、「私の敵(イスラエル)に呪いをかけてもらうためにおまえを招いたのに、かえっておまえは三度までも彼らを祝福した」とバラムに怒ります。しかし、バラムは「たとえ私に銀や金で満ちたの家をくれても、主のことばに背くことはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。」と答え、さらに、彼はモアブ人、アマレク人、ケニ人について、神から与えられた幻について語りました。こうして、バラムは自分の帰り、バラクも帰途につきます。バラムが王を恐れずイスラエルを祝福したのは、それが神の御心であったからであり、また、神がすべてを支配しておられるお方であることが分かったからです。

 この箇所を読みながら、私は捕囚の民となったハナンヤ、ミシャエル、アザルヤを思い出しました。ネブカドネツァル王が建てた金の像をひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込まれるとの命令が出る中で、彼らは従いませんでした。燃える炉を前にして、主が救い出してくださるが「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません(ダニエル3:18)」と彼らは答えました。モアブの王を恐れなかったバラム、王の命令に背いて、金の像を拝まなかったハナンヤ、ミシャエル、アザルヤのような信仰が、自分の中にあるだろうか、と問われのです。イエス様が「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です(ルカ20:38)と語られたように、生き生きとした生ける神との交わりが、私の日々の歩みの中に現されますように(詩篇23:6)

 あなたは、どうですか。

今日のメッセージ 『主を呼び求めよ、お会いできる間に』 2025年10月5日

 牧師 高橋勝義

〔民数記23章24~24章9節

 バラムが二度もイスラエルを祝福した後、モアブの王は「彼らに呪いをかけることも祝福することも、決してしないでください」と頼みますが、バラムは、主があなたに告げられることを話すようにと言った通りのことを自分は行なっているのだと言います。それでもバラク王はバラムを別の場所に連れて行き、祭壇を築き、雄牛と雄羊を献げます。しかし、イスラエルを祝福することが主の目にかなうのを見てきたバラムはこれまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けます。そして目を上げると、イスラエルがその部族ごとに宿っているのが見えたのです。すると、神の霊が彼の上に臨み、イスラエルが祝福されるありさまをバラク王の前で語りはじめたのです。

 バラムは、ユダヤ人ではありませんが、イスラエルの神を信じていました。同様に、ローマの百人隊長コルネリオもイスラエルの神を恐れかしこんでいました。ペテロは、「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。(使徒10:34,35)」と語っています。聖書が「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。(エレミヤ29:13,14)」と語っている通り、神の恵みが現わされたのです。

 私たちも、生けるまことの神を知らず、神から離れた歩みをしていた者ですが、イエス・キリストの十字架を通して、神を信じる者とされました。それは、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる(Ⅰテモテ2:4)」からです。

 「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。(イザヤ55:6)

今日のメッセージ 『あなたとともにおられる神』 2025年9月28日

 牧師 高橋勝義

〔民数記23章13~24節

 モアブの王バラクは、イスラエルを祝福したバラムをさらにピスガの頂連れて行き、「私のために彼らに呪いをかけてください。」と頼み、ここでも七つの祭壇を築きどの祭壇にも雄牛一頭と雄羊一匹を献げます。主にお会いしたバラムはバラク王に「見よ、私は、祝福せよとの命を受けた。神が祝福されたのだ。私はそれをくつがえすことはできない。彼らの神、主は彼ら(イスラエル)とともにおられ、王をたたえる声が彼らの中にある。(民数記23:20,21)と語り、イスラエルの神は彼らとともにおられることを告げたのです。

 かつてペリシテ人の王アビメレクは、井戸をめぐってイサクと争い、彼をその場所から追い出しますが、その後、わざわざイサクのところまで出向き、盟約を結びます(創世記26:28)。それは、神がイサクとともにおられ、彼を祝福していることが分かったからです。

 今から約2000年前、神のひとり子イエス・キリストは、インマヌエル、すなわち、「神が私たちとともにおられる(マタイ1:23)」ことを私たちに示すためにこの世に来られました。そのイエス様は、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語られました。これはイエス様が、いつでも、どこででも、あなたとともにおられ、守ってくださることを約束しているのです。

 私たちの生きるこの世は困難や理不尽なことばかりですが、私たちの信じる神様はインマヌエルの神であり、私たちともに歩いてくださる神です。ですから、さまざまな悩みや苦しみをイエス様に訴え、助けをいただき、今日も主とともに歩んでいきましょう。

今日のメッセージ 『愛なる神の御訓練』 2025年9月21日

 牧師 高橋勝義

〔民数記22章36~23章12節〕

 モアブの王バラクは、イスラエルを呪ってもらおうと、イスラエルの民の一部が見える場所に連れ出します。バラムはバラク王に七つの祭壇と七頭の雄牛と七匹の雄羊を用意するように願いました。神にお会いした後、戻ってきたバラムは王に「神が呪いをかけない者を私がどうして呪うことができるだろうか。」と告げます。王は、イスラエルを呪わず祝福したことに激怒しますが、バラムは王に「主が私の口に置かれること、それを忠実に語ってはいけないのですか」と答えます。バラムはバラク王のもとに来る途中、ろばが道でうずくまってしまったことで九死に一生を得ました。つまり、神によって自らの罪に気づくことが出来たのです。そして、バラムは、神が「あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え」と言われたことに忠実に従ったのです。

 聖書に「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです(ヤコブ1:14)」とあるように、神のお取り扱いによって、バラムは自分の罪に気づき、神は全知全能なるお方であることを知ったのです。このことは、私たちにも重なります。イエス様は「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです(マタイ6:21)」と語られましたが、私たちは日々この世の誘惑の中で生きています。しかし、神がバラムを取り扱われたように、神は私たちを子として扱い(へブル12:5~7)、私たちの内にある不純物(罪)を取り除くために訓練されるのです。

 訓練は喜ばしいものではなく、かえって苦しいものですが、今あなたが受けている訓練は、神がバラムを神の民イスラエルの祝福に用いたように、神の良い働きのためにあなたを用いようと整えておられるからなのです(Ⅱテモテ2:21)。

今日のメッセージ 『心の中を見抜いておられる神』 2025年9月14日

 牧師 高橋勝義

〔民数記22章14~35節〕

 再びモアブの王バラクに招かれた占い師バラムは、見返りに心が動きます。主は彼に行くことを許しますが、「あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え」と語りました。ところが、神の怒りが燃え上がり、主の使いが道に立ちはだかりました。バラムの乗っていたろばが剣を手に持つ主の使いを見てうずくまったのです。バラムはろばを三度打ち、道に戻そうとしますが、主がろばの口を開かれ「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」と言いました。

 その後、バラムの目の覆いが除かれ、バラムは抜き身の剣を手に持っている主の使いを見て、ひざまずき、伏し拝みます。主の使いは、「あなたがわたしの道を踏み外そうとしているから、わたしが敵対者として出て来た」と告げました。ようやくバラムは、自分の罪に気づいたのです。主の使いは、「わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」と念を押し、こうして、バラムはバラクのもとに向かったのです。

 「障子に目あり壁に耳あり」とあるように、どこで誰が聞いているか、見ているか分かりません。けれども、人の心の中までは誰も知ることはできません。しかし、「神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されて」おり(ヘブル4:13)、「闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされる(Ⅰコリント4:5)」のです。ですから、人の前に歩むのか、それとも、神の前に歩むのかが重要になってきます。詩篇の作者は「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。(詩篇118:6)」と告白しています。肝心なことは、神を恐れて歩むことなのです。

 「神は人間に仰せられた。『見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである』と。(ヨブ28:28)」

今日のメッセージ 『キリストは常に真実なお方』 2025年9月7日

 牧師 高橋勝義

〔民数記22章1~13節〕

 モアブの王バラクは、イスラエルの民の多さと、彼らがアモリ人との戦いに勝利したことにおびえ、イスラエルを呪ってもらおうと考え、ベオルの子バラムに使いを送りました。それは、このバラムが祝福する者は祝福され、呪う者は呪われていたからです。そのバラムは使いの者に、神のみこころを求めるので、一晩ここに泊まるように言います。

 その晩、神はバラムに「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。また、その民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」と言われ、バラムは使いの者たちに、神が一緒に行くことをお許しにならなかったと告げました。

 神はイスラエルの父祖アブラム(アブラハム)に、わたしが示す地へ行くなら「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。(創世記12:2)」と語られ、神を信じたアブラハムの子孫は、神の民イスラエル民族となっていったのです。それゆえ、神がバラムに「その民は祝福されている」と語るのは当然なのです。神の約束は決して変わらず、神はまことに真実なお方です。そして、このアブラハムへの神の祝福は、キリストを救い主と信じる私たちにも受け継がれているのです。

 イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。(ヨハネ14:18)」と語られました。主に従って歩んだ使徒パウロも「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)」と証ししています。人生は労苦とわざわい多き日々ですが、この真実なお方、イエス・キリストとともに天国をめざして歩み続けましょう。(ヨハネ15:4)

今日のメッセージ 『人生の土台』 2025年8月31日

 牧師 高橋勝義

〔民数記21章10~35節〕

 約束の地をめざすイスラエルは、アルノン川の対岸に宿営し、アモリ人の王シホンに使者を遣わし「あなたの土地を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にもそれて入りません。井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは『王の道』を通ります。」とお願いしました。しかし、王シホンはイスラエルを迎え撃つために出て来たのです。そして、イスラエルはアモリ人と戦い、彼らの地を占領します。さらに彼らが向きを変えてバシャンへの道を上って行くと、バシャンの王オグも戦うために出て来たので、主が命じられた通りイスラエルは戦い、その地を占領したのです。

 これまでイスラエルは、約束の地をめざす荒野の旅を送ってきましたが、ここから占領したアモリ人の地に住んだのです。いよいよ約束の地に入って行く、足掛かりができたのです。

 イエス様は、岩の上に建てた人の家は大風にも洪水にも倒れないが、砂の上に家を建てた家は洪水や風に打たれると倒れ、しかもその倒れ方はひどいものになる、と話されました。岩の上に家を建てるとは、神のみことばを土台とすることです(マタイ7:24~27)。

 使徒パウロも、自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えていますと語っています(Ⅱコリント4:5)。信仰の土台は、イエス・キリストにあるからです(Ⅰコリント3:11)。あなたの人生の土台は、神のみことばでしょうか。それとも、この世の権力や富、知恵や知識、そして、自分の考えや経験でしょうか。

 神のみことばを土台とするならば、「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます(詩篇119:130)」とあるように、私たちの歩みは守られるのです。