今日のメッセージ 『日ごと罪の悔い改めをする』 2025年1月19日

 牧師 高橋勝義

〔民数記5章1~10節〕

 神はモーセとアロンに、「あなたがたは、イスラエルの子らをその汚れから離れさせなさい。彼らが、彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためである。(レビ15:31)」と、汚れている人や不純な者は宿営の外に隔離するように命じられました。これは彼らの存在と人格を否定しているわけではなく、神の聖さを汚さないためです。また、罪はそのままにせず、必ず贖いをするように命じています。罪を放置したままにするならば、神の聖さを汚すことになるからです。

 さらに、「あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。 (レビ11:45) 」と命じられていますが、これは神の子どもとされた私たちにも語られているのです。「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となること(Ⅰテサロニケ4:3)」だからです。しかし、生まれながら私たちは罪人であり、聖くはありません。しかし、その罪がイエス・キリストの十字架の贖いで帳消しとなり、さらに神との交わりによって聖なる者とされていくのです。ですから、聖書は「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません(Ⅰヨハネ1:6)」と警告します。私たちは神の御霊が住んでおられる神の宮ですから(Ⅰコリント3:16)、自分の身を汚すことは神の聖さを汚すことになるのです。では、どうすれば聖なる者としての歩みができるのでしょうか。

 「御霊によって歩みなさい。~ (ガラテヤ5:16)」と語られているように、御霊の働きを妨げないために、日ごと、罪を主に教えていただき、それを悔い改める(神の前にその罪を認める)ことが大切なのです。(Ⅰヨハネ1:9)

今日のメッセージ 『キリストの愛から引き離すものは何ですか』 2025年1月12日

 牧師 高橋勝義

〔民数記4章1~49節〕

 神は、会見の天幕で神聖な仕事を託されたレビ人について、「三十歳以上五十歳までのすべての者」と定められました。祭司の役目は、神と人との仲介者として、聖所の儀式といけにえ奉献であり、レビ人の役目は聖所の組み立て、またすべての器具の運搬と管理、さらに祭司の働きを補佐する職務を担っていました。神の聖さを汚すことなく、任務を忠実に果たし、すべての働きを全うするには、健康な体と成熟した一定の能力が必要故の年齢制限です。

 さて、キリストを信じる信仰により、神の子どもとされ、今や祭司としての働きを託されている私たちも健康には気を配ります。では、たましい(霊)の健康についてはどうでしょうか。聖書は「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)」と語ります。確かに、肉体は年々衰えますが、内なるたましいは、日々新しくされていくというのです。その鍵は、「キリストのうちにあるなら(Ⅱコリント5:17)」です。しかし、キリストの愛が十分に分からない私たちは「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません(ピリピ2:21)」。様々な困難の中で自分の弱さの中に働いてくださる神の愛を知った使徒パウロは、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか(ローマ8:35)」と告白しています。確かに、この世には、魅力的なものがたくさんあります。また、私たちの中にもこの世のものを追い求める心があります。しかし、それらは、いずれ消えてなくなります。

 キリストは、あなたが苦しみや困難のただ中にあるとき、いつも、あなたのそばにいて、励まし、助け、力を与えてくださる愛のお方です。この愛が分かるように、祈りましょう。

今日のメッセージ 『神の子どもとしての立場と働き』 2025年1月5日

 牧師 高橋勝義

〔民数記3章1~51節〕

 約束の地を前にして、神は戦に備えたイスラエル男子の人口調査を行い、神の幕屋を中心にした各部族の宿営を命じられましたが、レビ人は除外されました。レビ人には神の幕屋の奉仕という役目があったからです。そして、神がそのレビ人の人口調査を行うように命じられたのは、幕屋に仕えるレビ人の立場と働き、および任務を明確にさせるためでした。

 聖書は、人間は神に従わない不従順の子らであり、生まれながら御怒りを受けるべき子らである(エペソ2:2)と語っています。しかし「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)」とあるように、イエス様を罪からの救い主と信じる者は、神の子どもとされるのです(ガラテヤ3:26)。また「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。(エペソ5:8)」とも語られています。では、どうすれば、神の子ども、光の子どもとしての歩みができるのでしょうか。それは、イエス様が「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」と語られたように、日々、イエス様とともに歩むことです。けれども、私たちの生活には、この世の習慣や習わし、価値観などが深く入り込んでいます。ですから、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)」と語られているのです。

 さあ、いのちのことばをしっかり握り、世の光として輝きましょう。(ピリピ2:16)

今日のメッセージ 『神があなたの先を進まれる』 2025年1月1日

 牧師 高橋勝義

〔申命記31章1~8節〕

 「一寸先は闇」というように、先のことは誰にも予測ができません。ですから人は安全を確保するために奔走するのです。誰もが不安の少ない先行きの安全を願っています。

 さて、モーセは、自分の跡を継いでイスラエルの指導者となるヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と励まします。さらに「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。」(申命記31:8)と語りました。モーセの従者として歩んできた後継者のヨシュアは、偉大な指導者モーセには常に力ある生けるまことの神が共におられたこと、またモーセを通して、神がイスラエルにどんなことをしてくださったのかを誰よりも知っていました。その偉大な神が、これからイスラエルを導く自分とともにいてくださるとの約束を頂き、これ以上確かな保証はないと励まされ、勇気を得て、心から感謝したことでしょう。

 ダビデは、王として、イスラエルを導く立場にありました。彼の決断が、国の行く末を決めることになるわけですから、慎重の上にも慎重を期したことでしょう。ダビデは、その決断の前に「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:8)」と告白しています。

 それは、主によって人の歩みは確かにされ、主はその人の道を喜ばれる(詩篇37:23)ことを知っていたからです。

 ところで、私たちは、どうでしょうか。

 今年も、私たちに先立って進まれる神を信じ、信頼し、従って歩んで行きましょう。神が、あなたの道を確かにしてくださるのですから。

今日のメッセージ 『神とともに生きる』 2024年12月29日

 牧師 高橋勝義

〔民数記2章1~34節〕

 イスラエルがエジプトを出てから二年、神はご自身の幕屋が完成すると、モーセに、20歳以上で戦に出ることができる男性の人数調査を命じられ、さらに宿営の真ん中に幕屋を造り、その回りに軍団が十二部族ごとに旗をたてて宿営するように命じられました。軍団の中心には、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。(出エジプト25:8)」と約束された幕屋があり、神が彼らの歩みのただ中におられ、彼らとともに歩まれることが示されていました。

 かつてイスラエルは、エジプト王が軍勢を引き連れて追いかけて来るのを見たとき、恐れおののき「この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかった」と騒ぎ立てたのです。しかし、モーセは毅然として「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。(出エジプト14:14)」と語り、主が命じられたとおり、神の杖で紅海を二つに分け、民は海の底を歩いて脱出することができたのです。

 同様に、私たちの日々の戦いも、自分一人で戦っているのでなく、私たちの内に住んでおられる聖霊なる神がともに戦ってくださっているのです。あなたは、この事実を本当に信じ、受け取っておられるでしょうか。それとも、今も自分の力で踏ん張んていないでしょうか。

 ここが、信仰に生きる歩みになるかどうかの大きな分岐点なのです。

 ですから、神は「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)」とあなたに問いかけているのです。

今日のメッセージ 『救い主なる主』 2024年12月22日

 牧師 高橋勝義

〔ルカによる福音書2章8~16節〕

 この時期、テレビでは全世界でクリスマスを祝うニュースが流れます。クリスマスは神の愛する一人子キリストがこの世にお生まれになったお祝いの時ですが、キリストは神であられるのに、神としての偉大な力と栄光を捨てて、しもべの姿をとり、人間と同じ姿になられ、自らを低くして、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれました(ピリピ2:6~8)。

 人口調査の旅の途中の父ヨセフと母マリヤは、泊まる宿もなく、家畜小屋で「救い主」をお産みになり、そのみどりごを飼い葉おけに寝かせたのです。この喜ばしい知らせが最初に知らされたのは貧しい羊飼いたちでした。羊飼いたちは急いで町まで出かけて行き、布にくるまれ飼葉桶に寝ている幼子キリストを捜し当てたのです。すべて御使いが語った通りでした(ルカ2:16)。

 神に従わない歩み(罪)を続けている人間には、死後、その罪のためのさばきを受けることが定まっています(ヘブル9:27)。私たちを造られた神(イエス・キリスト)が、しもべの姿をとり、人間と同じようになられたのは、私たちの死後に受ける罪のさばきを身代わりとなって負うためでした。私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つようにするためです(ヨハネ3:16)。キリストは、ご自身のいのちを十字架の上で、私たちの罪のための宥めのささげ物として献げられたのです。神からのプレゼントであるイエス・キリストを罪からの救い主と信じる時、私たちは罪赦され、永遠のいのちをいただくことができるのです。

 あなたも神からのプレゼントを受け取って新しい人生に踏み出しましょう。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

今日のメッセージ 『耐え忍ばれた主』 2024年12月15日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書50章4~9節〕

 イエス・キリストは、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」と語られたとおり、私たちのすべての罪の身代わりとなって十字架の上で死なれました。このことを、聖書は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と語っています。

 また、メシヤ(救い主)について「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった(イザヤ50:6)」と預言されているとおり、弟子のペテロもイエス様の歩みについて「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」と証言しています。

 罪を犯したこともなく、その口には欺きもなかったイエス様。また、イエス様は、通りすがりの人たちからも、「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(マタイ27:40)」と侮辱されました。このような辱めを耐え忍ばれてまで、なぜ、イエス様は十字架の上で私たちの罪をその身に負い、死んでくださったのでしょうか。

 天の父の御思いは、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つことです。さらに、私たちを罪から離れさせ、たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰らせるためです。そのために、イエス様はご自分のいのちを私たちのために献げられたのです。

 私たちの救いのために、ここまで耐え忍ばれた主の愛を仰ぎ見、神を信じ、信頼し、神が用意しておられる御国を目指し、忍耐をもって走り続けて行きましょう。

今日のメッセージ 『心の痛みを知る主』 2024年12月8日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書42章1~4節〕

 モーセは私たちの地上の歩みについて「そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。(詩篇90:10)」と語り、イエス様も「世にあっては苦難があります(ヨハネ16:33)」と語っておられます。この労苦と苦難の人生に、私たちの心が傷つき、疲れ果て、病んでしまうのはしかたがないことと言えるでしょう。

 神は、このような心の痛みを抱える私たちのもとに、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行うお方」イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。このお方について、聖書は「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです(ヘブル2:18)」と証言しています。つまり、イエス様は、私たちが人生の荒波にもまれ、苦しみ、傷つき、疲れ果てていることを理解してくださっているのです。

 ですから「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」と私たちを招いておられます。更に、イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:31,32)」と語られました。この健康な人とは、神を必要とせず、自分は正しい、大丈夫だと思っている人のことであり、病人とは、自分勝手に歩んできたことが罪であると認めた人のことです。

 私たちの心を知り、招いておられるイエス・キリストは、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(ヨハネ6:37)と語られます。

今日のメッセージ 『道を備えられる主』 2024年12月1日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書40章3~5節〕アドベント第一週

 高層ビルを建設するときには必ず土地の地盤調査を行い、岩盤まで杭を打ち込み、建物の安全を確保します。一般住宅でも状況によっては地盤調査を行い、対策をしてから建物を建てます。このように、建物の安全を確保するためには、事前調査による備えが重要です。

 神様はご自身の民であるイスラエルが、約束のメシヤ(救い主)が来た時に、そのお方を受け入れ、信じられるように霊的な備えをされました。それがバプテスマのヨハネの使命でした。彼は人々に、悔い改めて神に立ち返るように勧め、多くの人々が心動かされ罪を悔い改め、ヨルダン川でバプテスマを受けたのです。このように、人々の心は備えられていったのですが、メシヤとして来られたイエス様を受け入れなかったのです。それは、彼らの願うメシヤ像からイエス様はあまりにもかけ離れていたからでした。

 私たちの目にはまっすぐに見える道も、その終わりが死となる道があるのです。(箴言14:12) 預言者イザヤが「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを、あなたの耳は聞く。(イザヤ30:21)」と語っているように、神は私たちがそのような道に進んで行かないようにと常に私たちを見守っておられるのです。ところが、私たちは自分の願いばかりを追い求めているため、神の御声が心に届かないのです。そのような私たちの歩みを確かなものにする事の出来るのは、神様だけです(箴言3:6)。

 ですから「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」(詩篇143:8)と、神様に向きを方向転換して、その御声を聞く心備えをしましょう。

コラム 『十字架を仰ぐ』 2024年11月24日

 牧師 高橋勝義

 11月初旬のある日の昼食時、私と家内の目は窓越しの、赤とんぼの大群(まさに大群)にくぎ付けになっていました。秋に赤とんぼが飛んでいるのは、当たり前の光景なのですが、この時は、かつて見たこともない大群で、「えー!」「なに、これ!」「どこからきたんだ~」「どこに飛んでいくの~、まるで出エジプトのいなごみたい~」と大興奮してしまいました。そして家内が、震災後の秋、仮設支援活動で「赤とんぼ」を仮設の皆さんと歌ったときに聞いたエピソードを話してくれました。

 作詞の三木露風は幼い頃、ご両親が離婚され、祖父母に育てられ、経済的には豊な中でも、寂しい幼少期をすごしたのだそうです。そして大学卒業後、函館トラピスト修道院の講師となり、そこで洗礼をうけた彼は、修道院の庭に飛ぶ赤とんぼの群れを見てこの歌を作りました。特に四番の歌詞「夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先」は竿と、その先にとまった赤とんぼがイエス・キリストの十字架を表している、との説明を聞き、家内は感動した、と言っていました。その話を聞いた私は、たとえ、私たちの心が「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。(エレミヤ17:9)」心であっても、イエス様が十字架の上で流された血潮によって、その邪悪な良心はきよめられるのだ、と思わされました。イエス様が「わたしの心だ。きよくなれ」と語られたように、日々、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩んでいきたいものです。

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」