牧師 高橋勝義 |
〔レビ記10章8~20節〕
主のことばを侮った祭司アロンの子ナダブとアビフが、主の火で焼き尽くされるという厳しい出来事の後、モーセはアロンに「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。」と祭司職への神の掟を告げました。さらに、罪のきよめのささげ物は聖なる所で食べる、と命じられているいけにえがすでに焼かれてしまっていたので、なぜ食べなかったのかをアロンの子らに問いただしました。するとアロンはモーセに、「見なさい。今日、彼らは自分たちの罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を主の前に献げたが、このようなことが私の身に降りかかったのだ。今日、私が罪のきよめのささげ物を食べていたら、そのことは主の目に良しとされただろうか。」と言い、これを聞いたモーセも、それで良い、としたのです。
わが子が、目の前で死ぬ。それは、アロンにとってどんなに辛く悲しいことか。と同時に、「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい(Ⅱコリント13:5)」とあるように、アロンは自らの心の内を探られたのです。自分も同じような間違いをしたかもしれないという思いがあるからこそ、最も聖なるものとされるささげ物を食べずにすべて焼いたのです。私たちはどうでしょうか。兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、全く気づかず(マタイ7:3)、人をさばいてはいないでしょうか。
「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいない(ピリピ2:21)」。今一度心を聖霊によって点検して頂き、襟を正しましょう。(エペソ5:10)