牧師コラム 『わたしの他に神はいない』 2022年11月13日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト20:1~11〕
主はイスラエルを、エジプトの奴隷生活から、数々のしるしと不思議をおこなって、救い、導き出してくださったお方です。さらに、神の山シナイ山の麓で、神の民として歩むために必要な戒めを示してくださいました。

 その戒め(十戒)の前半は、神との親しい関係を保つために必要不可欠な四つの戒めです。第一は主だけを礼拝する、第二は偶像をつくってはいけない、第三はいたずらに主の御名を唱えない、第四は安息日(神を礼拝する日)の遵守です。

 ところで、日本人の生活に深く浸透している神観は「汎神論(はんしんろん)」です。それは、万物には神が宿っており、一切が神そのものであるとする考えです。それゆえに、八百万(やおよろず)の神々が生み出されたのです。
しかし聖書に「山々が生まれる前から地と世界をあなたが生み出す前からとこしえからとこしえまであなたは神です。(詩篇90:2)」とあるように、天地を造られたまことの神は、ご自身が選び、備えたイスラエル民族を通して、ご自身こそがまことの神であることを世界に明らかにされました。同時に、イスラエルをエジプトから救い出されたまことの神は、イスラエル人だけの神ではなく、私たちすべての人の神でもあることを示しておられます。

 ところで、あなたにとって神は、困った時だけ頼る「神」になってはいませんか。

 とこしえからとこしえまで神であるお方は、あなたとともに歩むことを願っておられ「わたし(神)に聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである(箴言1:33)」とあなたに語りかけておられます。

牧師コラム 『心の割礼』 2022年2月27日

牧師 高橋勝義

イスラエルのエジプト脱出という神の計画のリーダーに選ばれたモーセでしたが、「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください」と尻込みします。しかし神は、彼の弱さを受け入れ、兄アロンをモーセの代弁者として立ててくださいました。

モーセは義父イテロの承諾を得て、神の杖を手に持ち、妻や息子たちを連れてエジプトの地に向かいます。神はモーセに、ご自身が授けたすべての不思議をファラオの前で行い、「わたしの子(イスラエルの民)を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。と言え」と語られます。旅の一夜を明かす場所で、主はモーセに会い、彼を殺そうとしたため、妻ツィポラは火打石を取り、自分の息子に割礼をし、その切り取った包皮をモーセの両足に付けて「まことに、あなたは私には血の花婿です」と言いました。すると、主はモーセを放されたのです。

割礼は、神とアブラハムとの契約のしるしであり、また彼の子孫との間の代々にわたる永遠の契約のしるしです。イスラエルの指導者となるモーセが、この割礼を自分の息子たちに行っていなかったために起きた事件でした。

割礼の本来の意味について、パウロは「彼(アブラハム)は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです(ローマ4:11)」と語っています。つまり、キリストを救い主と信じる信仰によってアブラハムの霊的子孫とされた私たちは、聖霊による心の割礼(自分中心から神中心の歩みに移された)を受けたのです。 ですから、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい(へブル12:2)」が大事なことなのです。

牧師コラム 『愛と忍耐の神』 2022年2月20日

牧師 高橋勝義

〔出エジプト4章1~17節〕
神は、イスラエルの民をエジプトから救い出す指導者として、モーセを選ばれました。しかし神の召しにモーセは恐れを覚え、尻込みし、「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」と訴えます。すると神は彼に三つのしるしを与えました。それは彼の杖がヘビになるという“しるし”、またモーセの手をツァラアトに冒し、それを癒すという“しるし”、それでも彼らが信じないなら、ナイル川の水が血に変わるという“しるし”でした。

これは生ける神がいつもモーセとともにいることを教えるためでした。

ところがモーセは「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。~ 私は口が重く、舌が重いのです。」と抵抗します。これに対して神は「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える」と励ますのですが、「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください」と再度断るモーセに怒りを覚える神は、兄アロンを代弁者としてくださり、モーセが立ち上がるまで忍耐強く待ってくださったのです。

神は、キリストを信じる者の内に聖霊なる神を住まわせてくださいました。それは、私たちが神と親しい交わりをするためであり、また聖書のみことばを通して神のみこころを知り、神に応答するためです。ところで、神のみことばの語りかけに、あなたもモーセのように尻込みすることはありませんか。あなたのすべてをご存知の神は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである(Ⅱコリント12:9)」と語り、モーセのようにあなたが立ち上がるまで愛と忍耐をもって待っておられるのです。

 

牧師コラム 『神に出会うモーセ』 2022年2月6日

牧師 高橋勝義

エジプトから逃れミディアンの地で暮らし始めたモーセは、家族も与えられ、しゅうとイテロの羊を飼いながら平穏な日々を過ごしていました。しかし心の中では、幼い頃に母から聞かされていたであろう「自らのルーツ」「出生の出来事」「宮殿での生活」また「神は必ず顧みて約束の地に上らせるとの約束」などを思い巡らしていたことでしょう。

ある日、羊の群れを連れて神の山ホレブにやって来た彼は、燃える炎の中の柴が燃え尽きないのを不思議に思い、それを見ようと近づきます。すると、神が柴の茂みの中から「モーセ、モーセ」と呼びかけられ、彼は「はい、ここにおります」と答えます。神は「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」と仰せられました。この時モーセは、母から聞いていた神に初めてお会いしたのです。 さらに神は「今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届き、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」と命じたのです。この神の言葉に戸惑うモーセに、神は「『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた」と、民に告げるように仰せられたのです。この神との出会いは、モーセの人生を一変させました。

この時、モーセは、自分が生かされていることの意味と使命をはっきり悟ったのです。

イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と語られ、私たちに生きる真の意味と使命を教えてくださるお方です。

あなたは、このお方、すなわちイエス・キリストにお会いしましたか。

牧師コラム 『わたしは全能の神』 2021年4月11日

牧師 高橋勝義

ヤコブは息子たちの起こした虐殺と略奪事件によって、窮地に立たされました。しかし神は、この根絶やしにされる危機のさなかに、「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」(創世記35:1)とヤコブに仰せられたのです。神はヤコブが曖昧にしてきた偶像礼拝と不品行の地から「立って」、ベテルに上るように命じられたのです。ヤコブは家族に異教の神々を取り除くように命じ、ベテルに上って行きます。神からの恐怖が周りの町々に下り、彼らの後を追う者は誰一人いませんでした。

「ベテル」は昔、ヤコブが兄から逃れ故郷を出たときに、神が現れてくださった場所です。

彼は家族とともにベテルで、再び祭壇を築いて神を礼拝したのです。また、ヤボクの渡しで神はヤコブに現れ、彼の名を「イスラエル」としましたが、神はその名を呼び、さらに「わたしは全能の神である。~あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」(創世記35:10~12)との約束を加え、ヤコブを祝福してくださったのです。

神はヤコブの不信仰からくる優柔不断を責めるどころか、むしろ、ご自身の約束が全く変らないことを彼にはっきりと示されたのです。このことによって、ヤコブは、全能の神があわれみ深く情け深く、怒るのに遅く恵み豊かなお方(詩篇103:8)であることを知ったのです。私たちの信じる神、そして私たちとともに歩んでくださる神は、まさにこのヤコブが見上げる神なのです。

「私は主に申し上げよう。『私の避け所私の砦私が信頼する私の神』と。」(詩篇91:2)

牧師コラム 『聖 さ』 2021年4月4日

牧師 高橋勝義

ヤコブは神様が戻りなさいと言った場所であるベテルではなく、その手前のシェケムにとどまり、その土地を買いました。そこからヤコブの家族とその地の人々との交流が深まり、娘ディナが、ハモルの子シェケムに辱められるという悲惨な出来事が起きてしまったのです。

ディナを慕い「どうか、あの人を私の妻に下さい」と懇願するシェケムに、激しく憤るヤコブの息子たちは、シェケムとその父をだまそうと考え、神の民のしるしである割礼を受けなければ、私たちの妹を嫁がせることはできないと告げます(創世記34:12,13)。ハモルと息子シェケムは、この提案に同意し、さらに町の人々を説得し、町の男たちはみな割礼を受けたのです。ところが、男たちの傷が痛む三日目、ディナの兄シメオンとレビは剣を取ってその町を襲い、すべての男たちを殺し、その町を略奪してしまいます(創世記34:25~29)。

 割礼がアブラハムと結んだ契約のしるし(創世記17:4~10)であり、イスラエル民族への神の民のしるしです。それをヤコブの息子たちは復讐の手段にしてしまったのです。

ヤコブは、ハモルの提案や息子たちが割礼を持ち出したことに対して、何も言っていません。恐らく、一族が根絶やしにされることを恐れたからでしょう。(創世記34:30)しかし、このあいまいな態度が、“神の聖さ”をないがしろにしてしまったのです。

聖書は「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。(レビ記20:26)」と教えています。ですから「自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる(Ⅰヨハネ1:9)」この約束を信じ、“神の聖さ”を汚す罪をそのままにせずに歩み続けましょう。

牧師コラム 『心のゆるみ』 2021年3月28日

牧師 高橋勝義

兄エサウと和解したヤコブは兄のいるセイルへは行かず、スコテへ移動し、自分のための家を建て、家畜小屋を作ります。さらに彼はそこからカナンの地にあるシェケムの町に無事たどり着き、その町の手前で宿営し、天幕を張った野の一画を、シェケムの父ハモルの息子たちの手から「百ケシタ」で買い取ったのです(創世記33:19)。

アブラハムは、「あなたの子孫にこの地を与える(創世記12:7)」との神の約束を堅く信じて、妻を埋葬するための墓以外、土地を買い求めてはいません。イサクも同じでした。

長年の寄留生活と心の重荷(兄との和解)からの解放がヤコブの心のゆるみとなり、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい(創世記31:3)」と言われた神の命令に従わず、この世の安定を求める思いから土地を買い求めることとなったのです。

この地に定住したヤコブの家族や子どもたちは、当然シェケムの町の人々と行き来することとなり、このことが、後に大事件を引き起こすことになりました。ある日、若く無防備な娘のディナは、その土地の娘たちを訪ねようと出かけて行き、その土地の族長であるヒビ人ハモルの子シェケムに捕らえられ、辱められたのです(創世記34:2)。ディナを慕うシェケムは、「どんなに高い花嫁料や贈り物であっても、おっしゃる通りにしますから、どうか、あの人を私の妻に下さい」と懇願するのです(創世記34:12)。

私たちも日々イエス様に照準を合わせていないと、信仰の歩みから外れてしまいます。「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(Ⅰペテロ2:11)

牧師コラム 『神の真実な約束』 2020年1月10日

牧師 高橋勝義

ヤコブは兄エサウの所から逃げるようにして、伯父ラバンの住む東の国ハランに旅立ちました。その途中、神はヤコブに「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。~わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:13~15)と夢の中で語られました。
ヤコブは未知らぬ地への旅の恐れと不安を抱きながらも、この神の力強い約束に励まされ、旅を続けます。そして東方の地にたどり着き、井戸を見つけ、そこにいたハランの羊飼い達に伯父ラバンの消息を聞いていると、なんとラバンの娘ラケルが羊の群れを連れてやって来たのです。便利な連絡手段のない時代のこの二人の出会いに、神様の約束の真実と深い愛を覚えるばかりです。

すぐにヤコブは井戸の重い石を転がして伯父ラバンの羊の群れに水を飲ませ、ラケルに口づけし、泣きながら、自分はラケルの父の甥であることを告げたのです。驚いたラケルは急ぎ父に知らせ、ラバンも走ってヤコブを迎えに行き、家に連れ帰ります。ヤコブは伯父ラバンに事の次第をすべて話し、ラバンの所に滞在することとなったのです。

神は約束された通り、ヤコブの歩みを守り導かれました。
ヤコブとともにおられ、彼を導かれたお方、すなわち、天地万物の創造主なる神は、あなたを救い、まことのいのちと祝福に招き入れるために、ご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされました。

そして、キリストは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。(ヨハネ10:9)」とあなたに語りかけます。

牧師コラム 『神のご配慮』 6月21日

牧師 高橋勝義

「あなたの子孫は、星のようになる」と約束された神はアブラムに、もうひとつの約束である土地についても語られました。ここでもアブラムは神に「主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」(創15:8)と、正直に尋ねるのです。

すると神は、ご自身とアブラムとの間に、目に見える形で契約を結ばれたのです。これはアブラムに対する神の信頼の表れ、契約を結べる関係にあることを示しています。
そして、神は「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられるが、その後、彼らは多くの財産とともに、そこから四代目の者たちがここに帰って来る」(創15:13,14,16)と、またアブラム自身については、「あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。」(創15:15)と告げられました。

アブラムは、自分が尋ねた以上のことを自分に知らせてくだった神のご配慮、そして自分のような者を信頼してくださっていることに心から感謝したのです。明日のことをどんなに心配しても、自分にはどうすることもできないが、神は子々孫々にまでも心配してくださるお方、愛の神であることを知ったのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

牧師コラム 『主に誓う』 6月7日

牧師 高橋勝義

アブラムは、甥のロトと別れた後、アモリ人マムレの樫の木の所に住んでいました。その頃、近隣の王たちが争っており、ソドムに住んでいたロトの家族も戦いに巻き込まれ、東方(イラン南西部)の4人の王たちに、財産ごと連れ去られていったのです。
この知らせを聞いたアブラムは、訓練された者318人を引き連れ、ダンまで追跡し、彼らを打ち破り、すべての財産、そしてロトと家族、その財産を取り戻したのです(創14:9)。アブラムを出迎えたソドムの王は「財産はあなたが取ってください」と告げるのですが、アブラムは「糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない」と【主】の名によって誓ったのです。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』と言われないようにするためでした。さらに、彼は一緒に戦った者たちへの配慮も決して忘れてはいませんでした。(創14:21~24)

アブラムは、自分を生まれ故郷ウルからカナンへと導かれたお方こそが「まことの支配者」であることをわきまえていたのです。
実際に、飢饉でエジプトに避難した時も、そして今住んでいる場所においても、祝福してくださっているのは「いと高き神、天と地を造られた方、【主】」だからです。

ですから、この【主】の名によって誓ったアブラムの信仰は、後のダビデが「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。(詩篇23:6)」と告白した信仰と同じなのです。