今日のメッセージ 『悲しみを知る慰め主』 2023年12月10日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ53章1~6節〕

 人は自分たちを守ってくれる指導者に、強くてリーダーシップに長けた人を求めます。特に不安定な時代になればなるほど、「強さ」を求めるものです。

 しかし、預言者イザヤが語った救い主像は、大国アッシリアの脅威にさらされていた南ユダ王国の民にとって、受け入れられるものではありませんでした。それは強い指導者ではなく「悲しみの人で、病を知っている」方であり、人々が慕うような見栄えもなく、むしろ蔑まれ、のけ者にされ、尊ばれないお方として語られたからでした。その預言通り、救い主としてこの世に来られたイエス・キリストは、無実であるにもかかわらず十字架刑による惨めな死を迎えました。「私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:4~5)」とあるのは、神がご自身に対する私たちの背きの罪と咎をこのキリストに負わせ、十字架によって処罰し、私たちを赦すための贖いを成し遂げるためだったのです。

 すべては、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって歩んでいる私たちを、探し出し、神の身元に再び招き入れるためでした。そのために、神はイエス・キリストをこの世に遣わされたのです。そして、「悲しみの人で、病を知っている」このお方は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」とあなたを招いておられます。

 今、あなたは、どこにいるのでしょうか、イエス様の懐に勇気をもって飛び込みましょう。 「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:18)

今日のメッセージ 『新しいいのちの始まり』 2023年12月3日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ11章1~5節〕

 ソロモン王の死後イスラエル王国は南北に分裂し、北王国イスラエルは隣国アッシリアに滅ぼされ、ホセア王を始めその十部族はアッシリアに捕らえ移されます。南王国ユダにもアッシリア王国の脅威が迫っていました。

 このような中で預言者イザヤは、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる(イザヤ9:6)」とイエス・キリストの誕生を預言しました。それは救い主が生まれる700年も前で、そのみどりごはダビデの父エッサイの子孫から生まれると告げたのです。しかし身分の低い羊飼いエッサイは、「エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない(Ⅱサムエル20:1)」と、軽んじられていました。

 それは私たちの救い主が、神でありながら、へりくだったお方であり、神としての権利を求めたり執着せず、しもべの姿をとり、人間と同じようになられ、この地上に来てくださったことを表しています(ピリピ2:6,7)。主は知恵と悟りの霊、思慮と力の霊に満ち、父なる神に従うことを喜びとし、外見や評判、うわさで人をさばくことをせず、弱い者や貧しい者の味方になってくださるお方なのです。それゆえ「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(マルコ2:17)」と語り、さらに「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移る。(ヨハネ5:24)」と約束されました。神は、あなたが高価で尊い存在だと語り、あなたを招いておられます。

 神が遣わされた救い主イエス・キリストの御降誕を心から感謝し、受け取りましょう。

今日のメッセージ 『私の友イエス様』 2023年8月27日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト33章7~11節〕

 モーセは、いつも宿営の外、離れたところに、自分のために天幕を張り、これを会見の天幕と呼んでいました。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にあるこの会見の天幕に行くのを常としており、モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て天幕の入り口に立ち、主は、人が自分の友と語るように顔と顔を合わせてモーセと語られたのです。

 雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝みました。

 イエス様は、「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。(ヨハネ15:15)」と語られました。

 そして、ご自身の十字架の死によって、私たちを神と和解させてくださり(ローマ5:10)、友と呼べる関係に修復してくださったのです。ですから、今私たちは、すべての障害が取り除かれて、神と自由に語り合うことができるのです。

 ところで、あなたは心にあることを正直に何でも神にお話しすることができるでしょうか。神は、私たちの心の中すべてをご存じですから、何の遠慮もいらないのです。どのように話せばよいのか分からず戸惑うならば、感謝なことに、聖霊がとりなしてくださるとの約束があります(ローマ8:26)。

 神は、あなたが心を開き、ご自身のところに来ることを今か今かと待っておられます。さあ、感謝と喜びをもって、友となってくださった神と語り合いましょう。

牧師コラム 『人としての歩み』 2022年11月20日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト20:12~17〕
神がくださった十の戒めの後半は、人と人との関係に必要不可欠な戒めです。
第五はあなたの父と母を敬え、第六は殺してはならない、第七は姦淫してはならない、第八は盗んではならない、第九はあなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない、第十はあなたの隣人の家を欲してはならないです。

親との関係について、次に、人と人との関係について語られていますが、今から約3500年も前に、すでにこのような戒めが与えられていたことに驚かされます。
聖書には、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。(創 6:5)」とありますが、この戒めを与えてくださったお方、すなわち、天地万物の創造主である神が、私たちを愛するがゆえに幸せに生きるための「人としての道」を具体的に教えてくださったのです。

現代は科学も進歩し、生活も豊かになりましたが、残念ながら、人の心は今も昔も変わってはいません。特に私たちの心の中にある貪欲は、尽きることがありません。
聖書は「ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです(ヤコブ3:16)」と私たちに警告しています。
イエス・キリストは、私たちのすべての罪を十字架で身代わりに負い、罪の贖いを成し遂げてくださいました。それによって、私たちに神の愛が注がれていることが分かったのです。

 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」

牧師コラム 『わたしの他に神はいない』 2022年11月13日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト20:1~11〕
主はイスラエルを、エジプトの奴隷生活から、数々のしるしと不思議をおこなって、救い、導き出してくださったお方です。さらに、神の山シナイ山の麓で、神の民として歩むために必要な戒めを示してくださいました。

 その戒め(十戒)の前半は、神との親しい関係を保つために必要不可欠な四つの戒めです。第一は主だけを礼拝する、第二は偶像をつくってはいけない、第三はいたずらに主の御名を唱えない、第四は安息日(神を礼拝する日)の遵守です。

 ところで、日本人の生活に深く浸透している神観は「汎神論(はんしんろん)」です。それは、万物には神が宿っており、一切が神そのものであるとする考えです。それゆえに、八百万(やおよろず)の神々が生み出されたのです。
しかし聖書に「山々が生まれる前から地と世界をあなたが生み出す前からとこしえからとこしえまであなたは神です。(詩篇90:2)」とあるように、天地を造られたまことの神は、ご自身が選び、備えたイスラエル民族を通して、ご自身こそがまことの神であることを世界に明らかにされました。同時に、イスラエルをエジプトから救い出されたまことの神は、イスラエル人だけの神ではなく、私たちすべての人の神でもあることを示しておられます。

 ところで、あなたにとって神は、困った時だけ頼る「神」になってはいませんか。

 とこしえからとこしえまで神であるお方は、あなたとともに歩むことを願っておられ「わたし(神)に聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである(箴言1:33)」とあなたに語りかけておられます。

牧師コラム 『心の割礼』 2022年2月27日

牧師 高橋勝義

イスラエルのエジプト脱出という神の計画のリーダーに選ばれたモーセでしたが、「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください」と尻込みします。しかし神は、彼の弱さを受け入れ、兄アロンをモーセの代弁者として立ててくださいました。

モーセは義父イテロの承諾を得て、神の杖を手に持ち、妻や息子たちを連れてエジプトの地に向かいます。神はモーセに、ご自身が授けたすべての不思議をファラオの前で行い、「わたしの子(イスラエルの民)を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。と言え」と語られます。旅の一夜を明かす場所で、主はモーセに会い、彼を殺そうとしたため、妻ツィポラは火打石を取り、自分の息子に割礼をし、その切り取った包皮をモーセの両足に付けて「まことに、あなたは私には血の花婿です」と言いました。すると、主はモーセを放されたのです。

割礼は、神とアブラハムとの契約のしるしであり、また彼の子孫との間の代々にわたる永遠の契約のしるしです。イスラエルの指導者となるモーセが、この割礼を自分の息子たちに行っていなかったために起きた事件でした。

割礼の本来の意味について、パウロは「彼(アブラハム)は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです(ローマ4:11)」と語っています。つまり、キリストを救い主と信じる信仰によってアブラハムの霊的子孫とされた私たちは、聖霊による心の割礼(自分中心から神中心の歩みに移された)を受けたのです。 ですから、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい(へブル12:2)」が大事なことなのです。

牧師コラム 『愛と忍耐の神』 2022年2月20日

牧師 高橋勝義

〔出エジプト4章1~17節〕
神は、イスラエルの民をエジプトから救い出す指導者として、モーセを選ばれました。しかし神の召しにモーセは恐れを覚え、尻込みし、「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」と訴えます。すると神は彼に三つのしるしを与えました。それは彼の杖がヘビになるという“しるし”、またモーセの手をツァラアトに冒し、それを癒すという“しるし”、それでも彼らが信じないなら、ナイル川の水が血に変わるという“しるし”でした。

これは生ける神がいつもモーセとともにいることを教えるためでした。

ところがモーセは「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。~ 私は口が重く、舌が重いのです。」と抵抗します。これに対して神は「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える」と励ますのですが、「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください」と再度断るモーセに怒りを覚える神は、兄アロンを代弁者としてくださり、モーセが立ち上がるまで忍耐強く待ってくださったのです。

神は、キリストを信じる者の内に聖霊なる神を住まわせてくださいました。それは、私たちが神と親しい交わりをするためであり、また聖書のみことばを通して神のみこころを知り、神に応答するためです。ところで、神のみことばの語りかけに、あなたもモーセのように尻込みすることはありませんか。あなたのすべてをご存知の神は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである(Ⅱコリント12:9)」と語り、モーセのようにあなたが立ち上がるまで愛と忍耐をもって待っておられるのです。

 

牧師コラム 『神に出会うモーセ』 2022年2月6日

牧師 高橋勝義

エジプトから逃れミディアンの地で暮らし始めたモーセは、家族も与えられ、しゅうとイテロの羊を飼いながら平穏な日々を過ごしていました。しかし心の中では、幼い頃に母から聞かされていたであろう「自らのルーツ」「出生の出来事」「宮殿での生活」また「神は必ず顧みて約束の地に上らせるとの約束」などを思い巡らしていたことでしょう。

ある日、羊の群れを連れて神の山ホレブにやって来た彼は、燃える炎の中の柴が燃え尽きないのを不思議に思い、それを見ようと近づきます。すると、神が柴の茂みの中から「モーセ、モーセ」と呼びかけられ、彼は「はい、ここにおります」と答えます。神は「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」と仰せられました。この時モーセは、母から聞いていた神に初めてお会いしたのです。 さらに神は「今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届き、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」と命じたのです。この神の言葉に戸惑うモーセに、神は「『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた」と、民に告げるように仰せられたのです。この神との出会いは、モーセの人生を一変させました。

この時、モーセは、自分が生かされていることの意味と使命をはっきり悟ったのです。

イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と語られ、私たちに生きる真の意味と使命を教えてくださるお方です。

あなたは、このお方、すなわちイエス・キリストにお会いしましたか。

牧師コラム 『わたしは全能の神』 2021年4月11日

牧師 高橋勝義

ヤコブは息子たちの起こした虐殺と略奪事件によって、窮地に立たされました。しかし神は、この根絶やしにされる危機のさなかに、「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」(創世記35:1)とヤコブに仰せられたのです。神はヤコブが曖昧にしてきた偶像礼拝と不品行の地から「立って」、ベテルに上るように命じられたのです。ヤコブは家族に異教の神々を取り除くように命じ、ベテルに上って行きます。神からの恐怖が周りの町々に下り、彼らの後を追う者は誰一人いませんでした。

「ベテル」は昔、ヤコブが兄から逃れ故郷を出たときに、神が現れてくださった場所です。

彼は家族とともにベテルで、再び祭壇を築いて神を礼拝したのです。また、ヤボクの渡しで神はヤコブに現れ、彼の名を「イスラエル」としましたが、神はその名を呼び、さらに「わたしは全能の神である。~あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」(創世記35:10~12)との約束を加え、ヤコブを祝福してくださったのです。

神はヤコブの不信仰からくる優柔不断を責めるどころか、むしろ、ご自身の約束が全く変らないことを彼にはっきりと示されたのです。このことによって、ヤコブは、全能の神があわれみ深く情け深く、怒るのに遅く恵み豊かなお方(詩篇103:8)であることを知ったのです。私たちの信じる神、そして私たちとともに歩んでくださる神は、まさにこのヤコブが見上げる神なのです。

「私は主に申し上げよう。『私の避け所私の砦私が信頼する私の神』と。」(詩篇91:2)

牧師コラム 『聖 さ』 2021年4月4日

牧師 高橋勝義

ヤコブは神様が戻りなさいと言った場所であるベテルではなく、その手前のシェケムにとどまり、その土地を買いました。そこからヤコブの家族とその地の人々との交流が深まり、娘ディナが、ハモルの子シェケムに辱められるという悲惨な出来事が起きてしまったのです。

ディナを慕い「どうか、あの人を私の妻に下さい」と懇願するシェケムに、激しく憤るヤコブの息子たちは、シェケムとその父をだまそうと考え、神の民のしるしである割礼を受けなければ、私たちの妹を嫁がせることはできないと告げます(創世記34:12,13)。ハモルと息子シェケムは、この提案に同意し、さらに町の人々を説得し、町の男たちはみな割礼を受けたのです。ところが、男たちの傷が痛む三日目、ディナの兄シメオンとレビは剣を取ってその町を襲い、すべての男たちを殺し、その町を略奪してしまいます(創世記34:25~29)。

 割礼がアブラハムと結んだ契約のしるし(創世記17:4~10)であり、イスラエル民族への神の民のしるしです。それをヤコブの息子たちは復讐の手段にしてしまったのです。

ヤコブは、ハモルの提案や息子たちが割礼を持ち出したことに対して、何も言っていません。恐らく、一族が根絶やしにされることを恐れたからでしょう。(創世記34:30)しかし、このあいまいな態度が、“神の聖さ”をないがしろにしてしまったのです。

聖書は「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。(レビ記20:26)」と教えています。ですから「自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる(Ⅰヨハネ1:9)」この約束を信じ、“神の聖さ”を汚す罪をそのままにせずに歩み続けましょう。